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更新:2007/4/12

トランスビュー  no.10(2005年10月発行)

//目次////
静かに語る言葉の力 伊藤 真
生命学のエッセンス 森岡正博
精神分析のめざすもの 片田珠美
自分の個性を知るために ヘルムート・エラー
不思議の国の『スプーの日記』 なかひら まい
靖国問題に想う 池田晶子
後・期・雑・感
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静かに語る言葉の力  伊藤 真

 日本人のほとんどは、 憲法のことを 「自分たちが守らなければならない、 一番重要かつ基本的な法律」 ぐらいに思っています。 しかし、 憲法は私たちが守るべきものではなく、 私たちが国に押しつけて守らせるべきものです。 法律とは力の向きが正反対です。 その憲法の本質を知っていると、 いまメディアをにぎわしている改憲論議のいろいろな意図が見えてきます。

 それを、 すばらしくわかりやすく解きあかした映画を観ました。 ジャン・ユンカーマン監督の 『映画 日本国憲法』 です。 十二人の識者へのインタビューというシンプルな構成ですが、 日本国憲法の成り立ちやアメリカとの関係、 アジアにおける日本の役割などの問題の輪郭が、 はっきりと見えるようになります。
「日本国憲法」 というタイトルではありますが、 アメリカ人の監督が、 日本の憲法九条を通じて、 アジアと沖縄の視点から、 これからの日本と世界の、 目ざすべきあり方を描きあげた作品でもあります。
 この外側からの視点による構成が、 改憲問題を、 たんなる国内の政治問題の一つとしてとらえがちな私たちの意識に、 喝かつを入れてくれます。 九条はけっして国内問題ではなく、 世界に絶大な影響を与える地球レベルの問題であることを、 この映画は改めて実感させてくれます。

 平和の問題となると、 人は声高こわだかになりがちです。 平和や人権のように、 誰もが重要だと思っているけれど、 その具体的な方策が見いだしにくい抽象概念を扱うときには、 どうしても大きな声で叫んでしまいがちです。 ですが、 この映画は大きな声を出すわけでもなく、 派手な演出があるわけでもありません。 にもかかわらず、 その伝える力は絶大です。

 今年は戦争を題材にした日本映画が多いそうです。 自衛隊が全面的に協力して、 本物の戦車が何台も出動する映画もあるとききます。 そのような映像は、 作者の意図とは別のところで、 勇ましいもの、 強いものに憧れる最近の若者の心をとらえるかもしれません。
 それに対抗した映画をつくるとしたら、 どのような手法が考えられるでしょうか。 すぐに思いつくのは、 戦争の悲惨さや残虐性を、 徹底的にビジュアルで印象づけることです。 昨今は戦争を知らない世代が増え、 戦争の残忍さを具体的にイメージできる人が、 どんどん少なくなってきました。 ですから、 ビジュアルに訴えることは、 若者がイマジネーションを広げる手がかりとして、 大きな効果を持つでしょう。
 しかし、 派手な映像と音響によって戦争の恐ろしさを体感してもらう手法とは別に、 この映画のように静かに語り、 言葉の持つ力強さ、 語る人間の持つ信念の力によって、 観る者に大きな感銘を与えることもできるのだと、 改めて感心しました。 これが作り物ではない、 ドキュメンタリーの強さなのでしょう。

 一つひとつのインタビューの向こうにある出演者の想いに、 イマジネーションの射程を広げると、 さらに興味がわきます。 押しつけたと言われるアメリカ人の側から、 日本国憲法制定の経緯を聞く。 近時の中国や韓国の反日運動を意識しながら、 アジアから見た九条への期待を聞く。 それにより、 私の思考のフィールドは一気に広がりました。
 登場する十二人の発言の根底に一貫するのは、 「現実を直視している」 ことです。 憲法や平和というと、 すぐに理想や夢をロマンチックに語っているように思いがちですが、 登場人物はみな、 あくまでも冷静に現実を見据え、 九条の存在意義を語っています。

 私も、 「積極的非暴力平和主義」 という九条の理念をとても重視していますが、 その重要性を訴えるだけでは足りません。 いまなぜ、 このタイミングで九条の改憲論議がわき起こってきているのか、 その現実的な意味を常に意識しないと、 判断を誤ります。 九条を改めるとは、 「国防のため」 でも 「国際貢献のため」 でも 「普通の国」 になることでもなく、 あくまでも、 アメリカの国際軍事戦略の中に、 日本の 「軍隊」 を位置づけることです。 それによって、 私たちの現在の生活は確実に大きく変わります。

 私たちにいま必要なのは、 国際貢献、 人道支援、 国防、 安全保障、 普通の国、 といった抽象的で大きな言葉に惑わされることなく、 自分の生活に引き寄せて、 具体的に、 憲法や九条の問題を考えることです。
「自分たちには直接関係ないことだから、 別に自衛隊が軍隊になってもいいじゃない」 とか、 「やっぱり押しつけられた憲法なんかいやだよね」 とか、 「攻められたらどうするの」 といったありがちな意見に対して、 自分の言葉で何かを言えるようになることは、 じつはとても心地よい、 しかし難しいことです。 その手助けとなるように、 今度出版した 『高校生からわかる 日本国憲法の論点』 では、 護憲・改憲の立場を問わず、 憲法についてまず知っておかなければいけないことを解説しています。 子どもから大人まで国民一人ひとりが、 憲法を自分の問題として考えるきっかけになってほしい、 そんな願いをこめて書きました。

 私は、 憲法九条を持つ国に生まれた者として、 いま何をすべきか、 自分に問いかけます。 最近の多くの護憲集会では、 「九条改悪阻止」 がテーマとなっていますが、 私は、 九条を護ることだけで満足してはいけないと思っています。 いまの憲法の価値を、 日々の生活の中でもしっかりと主張し、 憲法を実践していくこと。 憲法を私たちの生活の中に浸透させる努力は、 永遠に求められているのだと思います。 だから私は、 「改憲派」 でもなく 「護憲派」 でもなく、 「立憲派」 です。
 映画の登場人物たちのように、 私も 「言葉と信念の力」 をもって、 憲法の語り部としての役割を果たしていくことにします。

(いとう まこと/伊藤塾塾長)
『映画 日本国憲法 DVD』ジャン・ユンカーマン・監督 2005年05月刊
『日本国憲法の論点』伊藤真・著 2005年07月刊


生命学のエッセンス  森岡正博

『生命学をひらく』 は、 私がここ数年のあいだに行なった講演録に手を入れて、 まとめたものである。 しゃべったものが素材になっているから、 非常にわかりやすく読める本になったと思う。 人前でしゃべるときには、 どうしても 「要点」 を手短かにまとめなければならない。 そうしないと、 お客さんが寝てしまうからだ。 だから、 この本を読むと、 私がものを考えるときの、 思考の 「あらすじ」 のようなものを追えるはずだ。 これは、 講演集ならではの醍醐味ではないだろうか。

 私は 「生命学」 というものを、 ずっと提唱してきた。 生命学のエッセンスを知るためには、 まずこの本を読んでみてほしい。 そこに書かれているのは、 生命学の全体像ではないけれども、 しかし生命学が取り組んでいる問題の本質を、 実感することができるはずだ。
 生命倫理の問題は、 生命学の大きなテーマである。 ただ私は、 世に言う 「生命倫理学」 というものに、 どうしてもなじめなかった。 なぜなら、 生命倫理学というのは、 臓器移植や中絶などの問題に対して、 それが道徳的に 「許されるのか、 許されないのか」 をはっきりとさせることを目的とする学問だからである。 そしてその答えは、 誰にでも当てはまる普遍的なものでなくてはならない。

 だが、 私はこの点に最初からつまずいた。 なぜなら、 「××をしてはいけない」 という答えを生命倫理学が出したとしても、 我々は日常生活において、 「してはいけない」 とされていることを、 けっこうしているではないか。 してはいけないことをしてしまった私、 つまり 「悪を行なってしまった私」 というものを、 私はいったいどうしていけばいいのか、 という視点が、 生命倫理学には希薄なのである。 「悪を行なった私」 とはいったい何者なのか。 「悪を行なった私」 は、 これからどう生きていけばいいのか。 そういう問題が、 実は、 生と死の現場で、 するどく問われているのではないか。 生命倫理学がこのような問題を考えないのであれば、 それにかわって、 これらの問題を正面から捉える 「生命学」 という新しい学問が、 どうしても必要ではないのかと私は思ったのである。

 一九七〇年代の日本で、 中絶と優生思想をめぐって議論が沸き起こった。 声を上げたのは、 ウーマンリブの女性たちと、 青い芝の会の身体障害者たちであった。 そこで議論されたことは、 今で言う生命倫理の問題だったのだが、 彼らが心の底でこだわっていたのは、 実は 「自己肯定」 の問題だったのではないかと私は考えている。 当時マイノリティだった彼らは、 社会のシステムによって自分たちが 「自己否定」 の状態に追い込まれていると感じていた。 その自己否定の状況をさらに悪化させようとしたのが、 中絶をめぐる当時の政府の政策だった。 女性と障害者たちは、 マイノリティが 「自己否定」 に追い込まれるような社会の構造を、 根本から変えようとした。 表面上は、 生命倫理の議論に見えるのだけれども、 彼らが主張しようとしたのは、 すべての人が 「自己肯定」 して生きることのできる社会を作りたい、 ということだったのだと私は思う。

『生命学をひらく』 では、 このような視点の転換について、 わかりやすく考えてみた。 無痛文明論と生命学の関係についても、 見取り図が示されているので、 読んでみてほしい。 読者との対話によって、 ぜひ次のステップにつなげていきたいと思う。

(もりおか まさひろ/大学府立大学・生命学)
『生命学をひらく』森岡正博・著 2005年07月刊
『無痛文明論』森岡正博・著 2003年10月刊


精神分析のめざすもの  片田珠美

 今年六月に刊行した拙著 『攻撃と殺人の精神分析』 (トランスビュー) について、 「図書新聞」 (七月二十三日付) に大塚英志氏が、 「神話的に単純化された世界像が〈現在〉であることをこそ危惧する」 と題する書評を発表された。 私が読んだところ、 拙著の誤読にもとづいて書かれたものと判断せざるをえなかった。 そこで、 直接の反論は九月三日付の同紙で行なった。

 しかし、 大塚氏の書評には、 精神分析が一般に招きやすい、 ある種の誤解が端的に示されているように思われるので、 ここで再度とりあげ、 精神分析がめざしているのは何なのかを、 より広い視点から明らかにしておきたい。
 大塚氏は、 先述の拙著の中で私が用いた 「カコン」 = 「内なる悪」 なる概念を、 村上春樹が 『アンダーグラウンド』 の中で 「やみくろ」 と名づけたものと同様に、 「人のふるまいや心情に対して理解不能の領域をあらかじめ設定し、 そう名づけた上で 『わからない』 と嘆く手続き」 であるとして批判しているが、 これは大きな誤解である。 「カコン」 = 「内なる悪」 は、 フランスの精神科医ジローが 「動機なき殺人」 を解明するために導入したのだが、 そこから着想を得てラカンが展開したのが、 彼の精神分析理論の中核をなす 「対象a」 という概念である。 もちろん、 これは、 実体を想定した概念ではないし、 「名を与えることで何事かを忌避」 (大塚氏) するための概念でもない。 とらえがたい、 未知のXが我々に知覚されるのは、 意識の縁ふちまでのぼってきて言葉やイメージの網にすくいとられる瞬間だけなので、 それを他者に説明するためには、 イメージを喚起するような名を与えざるをえない。

 まして、 「設定してしまった時点ですべてが説明できてしまい、 それ以上、 何も思考せずに済む便利な概念」 (大塚氏) などでは決してないし、 また、 そうであってはならない。 もし、 そう名づけただけで判断停止に陥ってしまうならば、 行き着く先は、 教会での悪魔払いや神社でのお祓いのような、 きわめて神秘的、 魔術的な儀式になってしまう。 少なくとも精神分析は、 この未知なるXがいかなる法則によって突き動かされているのか、 その力動を探究し、 その構造、 起源を解明しようとするのである。
 フロイトはこのXを 「無意識」 と名づけた。 これは文字通り意識されないもの、 より厳密に言えば、 「抑圧」 されて意識になりえないものである。 彼が、 「無意識」 を想定せざるをえなかったのは、 患者の語る夢、 症状がじつは、 意識の表面に出てくることができない、 何か別のものの代理として形成されることを発見したからである。 この何か別のものとは、 意識されない、 満たされぬ欲望である。 「抑圧」 されて 「無意識」 へと追いやられてしまった欲望が、 まわりみちを通って代償満足を見出すべく外に現れた結果、 「抑圧されたものの回帰」 の産物として、 夢や症状が形成されるというわけである。 こうして、 彼は心的生活における無意識的なものの重要性を強調したことによって、 精神分析に対する数多くの批判を呼び起こすことになった。

 もっとも、 無意識的なものの重要性を強調することと、 大塚氏の書評が典型例として示すように、 それを実体化することとは、 まったく別物である。 この点をとり違えた、 何か便利な概念によって人間の精神をくまなく説明できるのが精神分析であるというようなとらえ方が広く流布しているが、 それは誤りである。

 さらに、 抑圧されたものとは、 その本性が意識に受け入れられないものである以上、 必然的に 「悪」 のイメージを連想させることになる。 しかし、 これは、 善と悪、 光と闇に二分されたような世界認識にもとづく、 一方の極としての絶対的な悪、 根源的な悪ではない。 ましてや、 「それ以上は説明できない、 神話的な領域に起源を求めざるを得ない 『悪』」 (大塚氏) などでも決してない。
 抑圧された無意識を、 「どうとでも内側に意味を補填できる任意の概念」 (大塚氏) としてとらえるのではなく、 むしろそれがいかなる法則に従っているのか、 個別の事象の奥に潜む普遍的な法則を導き出すべく、 他者の語らいに耳をすますのが精神分析家である。 このように人の心に普遍的な何ものかを想定するのは、 判断停止して 「わからない」 と嘆くためではなく、 そこに内在する未知のXを明らかにすべく、 立ち向かうためなのである。

 一方、 我々分析家が実際の患者の症例から学ぶことを、 別のやり方で引き出す人たちがいる。 作家である。 作家が注意を集中するのは、 自らの精神の無意識であり、 それが発展していく機会をうかがい、 意識的な批判で抑圧することなく、 芸術的表現を与える。 だが、 作家は心的過程を支配する法則を言い表す必要はない。 はっきり認識する必要さえない。 作品こそがその化身なのだから。 ここにこそ、 作品を分析する意義があるわけで、 とりわけ、 創作の動因となるファンタジーは重要である。 ファンタジーの根底に潜むのは満たされぬ欲望であり、 現在の強烈な体験によって作家の中に呼び覚まされた幼児期の記憶痕跡から、 ある欲望が頭をもたげてきて、 それがさまざまな流儀で描かれるところに物語が生まれるからである。

 もちろん、 精神分析家自身も、 自らの無意識の欲望について知らなければならないのは言うまでもなく、 他者の語らいに耳をすましながら、 同時に自分自身の内なるXにも耳を傾けていきたいと思うのである。

(かただ たまみ/精神科医)
『攻撃と殺人の精神分析』片田珠美・著 2005年06月刊


自分の個性を知るために  ヘルムート・エラー (鳥山雅代訳)

 あなたは自分の性格を気に入っていますか。 性格だからどうしようもない、 と思ったことはありませんか。 自分の性格だけじゃありません。 ふだんつきあう相手のなかにも、 気が合う相手もいれば、 どうしても合わない相手がいることと思います。 では、 どうしてこういうことが起きるのでしょう。

 この問題について、 私たちの性格を形づくっている気質の観点から見ていきましょう。 耳慣れない言葉かもしれませんが、 気質には、 積極的だけど怒りっぽい胆汁質、 ほがらかだけどあきっぽい多血質、 まじめだけどくよくよしがちな憂鬱質、 おだやかだけどやる気がない粘液質といった四つがあります。 四つの気質が占める割合が人によって違うため、 それぞれの性格も違ってくるのです。

 性格的な問題や人間関係の摩擦は、 気質の極端な偏りのせいで引き起こされます。 四つの気質の長所と短所を知り、 偏りを緩和させることによって、 よりよい人間関係を築くことが可能になるのです
 シュタイナー教育では、 子どもの気質を重視します。
それぞれの気質に応じた教育的な配慮をすることによって、 子どもたちは自分の気質をコントロールできる人間に育ちます。 学校時代から自分の気質が偏らないように気をつける習慣を身につけておけば、 大人になってからも人間関係に振り回されることなく、 自分の人生に自信を持てるようになるのです。

わかりやすい例をご紹介しましょう。 多血質の子ども同士を隣りに座らせると、 彼らはだんだん静かになります。 もともと明るくておしゃべりが大好きな子どもたちです。 いっしょにいると、 さぞうるさいのではないかと思われるかもしれませんが、 まったく逆の効果があるのです。 家庭訪問をすると、 彼らの母親は 「うちの子どもは、 隣りの子どもがうるさいといつも文句を言っています」 と、 決まって言います。 そんなとき私は 「だからこそ、 隣りに座らせているのです」 と答えます。
 つまり、 多血質の二人の子どもが、 たがいに隣りがうるさいと親に文句を言うということは、 自分のもっている問題がほかの子どもを通してはっきり見えているということなのです。 それに気づくことによって、 自分の気質の偏りを和らげていくきっかけが生まれるのです。

 『4つの気質と個性のしくみ』 では、 子どもの気質だけにとどまらず、 大人が自分の気質をどうコントロールすればいいかについても、 具体的に扱っています。 自分自身が思うようにならないことで困っている人は、 少なくないでしょう。 たとえば、 胆汁質が強い人は、 すぐにカッとなりやすいことについて悩んでいるでしょう。 何をやっても三日坊主で、 長続きしないことに悩んでいる人は、 多血質が強すぎるからそうなっているのです。

 個性にはいろいろあります。 気質的な調和が取れると、 みな同じ個性になるわけではありません。 世界が同じ気質の人ばかりになったら、 どんなに退屈かわかりません。 本書を通して、 まず自分自身の気質の偏りに気づき、 自分の気質をコントロールできるようになれたら、 身のまわりの人と、 もっとよく分かりあえるようになれるでしょう。 そして、 相手を理解しようとすることこそが、 社会のあり方さえも変えていく力を生む第一歩になるのです。

(ヘルムート・エラー/気質学)
『4つの気質と個性のしくみ』ヘルムート・エラー・著 2005年11月刊


不思議の国の『スプーの日記』  なかひら まい

 
『スプーの日記』 の主人公スプーは、 誰も知らない小さな国で、 魔術師をめざして修行中だ。 スプーは、 体外離脱をして、 死の世界へ出かけたり、 森の中にいる精霊を見たりする。 死の世界では、 死んだおばあちゃんに会って、 話をしたりもする。 そんなスプーの摩訶不思議な日常を、 日記とイラストを交え、 ブログで連載していたものを一冊にまとめたのがこの本だ。

 現実の生活に振りまわされている現代人には、 死の世界や精霊なんて、 ファンタジーの産物と映るかもしれない。 そういったものは、 ファンタジーとして楽しむもので、 現実ではない、 という人もいる。
 しかし、 実際に心に残るのは、 情報よりもイメージだというのも、 また事実だ。

 たとえば、 テレビをつけると、 カフェや小綺麗なホテルや、 アパレルの映像が、 怒濤のように流れている。 東京で暮らしていると、 そういった場所になんとなく足を運ぶこともある。 ただ、 足を運んだからといって、 お店の名前や場所を正確に覚えているわけではない。 しかし、 お店の雰囲気や、 人混みの喧噪の中を歩いた印象 は残っている。 お店の名前や場所などの細かい情報は意外と記憶に残らないが、 イメージはより長く心にとどまることになる。 情報よりもイメージの方が、 人にとっては、 現実的であるのだ。
 死の世界や精霊、 妖怪、 神々、 怨霊なども、 同じことだ。 それらは不可視なものだが、 心の中にはっきりとしたイメージを思い浮かべることができれば、 それもまた、 その人にとっては現実なのだ。

 一昔前には、 妖怪や妖精を見る人が当たり前にいたことを、 ご存じの方も多いだろう。 現代でも、 怪異の体験談は数多く報告されている。
 たとえば、 よくある怪談に、 手の幽霊がある。 不気味に手だけが現れ、 窓ガラスを叩いたりするのである。 手の幽霊は、 恨みや悲しみが手のイメージとなって、 一人歩きしたように映る。 心の中に浮かんだ幻覚のような気もする。 もちろん、 幽霊は、 心の奥に潜む恐怖の感情の具現化であるともいえる。 それはそれで、 間違いではない。 しかし見る人にとっては、 空想を超えて、 現実化している。 そして、 そのイメージを心でとらえた瞬間に、 その人にとって、 それは現実のものとなる。
 中村雅彦氏の 『呪いの研究』 (トランスビュー) では、 現代でも四国に実在する、 シャーマン (拝み屋) の実態と、 神仏に関わる人々の想いや苦悩が、 心理学や民俗学などの視点から、 詳細に描かれている。 不思議なものたちと現実は、 そうやって地続きで繋がっているのだ。

 スプーの世界で描かれている魔術師とは、 精霊や魔物や神々など、 心の奥にある不可視のイメージを現実のものと捕らえ、 格闘する人々のことである。 彼らは、 死んだ者と対話をしたり、 タリズマン (護符) や呪文で異世界と渡りあう。 『スプーの日記』 はファンタジーではあるが、 単なる想像の産物ではない。 主人公のスプーは、 精霊たちや神々など不思議世界の住人を通して、 自分自身と向かい合っているのである。
『スプーの日記』 を通して、 読者が もうひとつの現実 を発見できれば面白いと思う。 情報という表層のフィールドから踏み込んだ心の中の現実を、 この物語を通して認識し、 楽しんでもらえれば、 作者としては本望だ。

(なかひら まい/作家)
『スプーと死者の森のおばあちゃん』なかひら まい・著 2005年12月刊行予定
『呪いの研究』中村雅彦・著 2003年04月刊


靖国問題に想う  池田晶子
(いけだ あきこ/文筆家)

『14歳からの哲学』池田晶子・著 2003年3月刊
『あたりまえなことばかり』池田晶子・著 2003年3月刊
『人生のほんとう』池田晶子・著 2006年6月刊



後・記・雑・感
▼本年一月の前号からずいぶんと間隔があいてしまいまいた。 お問合せを頂いていた読者の皆様、 書店の方々、 ご心配をお掛けし申し訳ありませんでした。 PR誌 「トランスビュー」 の第十号をお届けします。
 四月より業務の見直しを行い、 直接取引の小売店様へは、 書籍のお届けを約一日短縮しました。 またブックサービス社の注文品取寄せシステムをご利用の場合は、 土日祝日に拘らず年中無休で、 受注後十二時間以内に発送しております。 このシステムは弊社だけでなく、 全出版社の書籍を取寄せられます。 お問合せは、 0120 29 0079 へ。 さらに取次 (出版物の問屋) への納品も、 受注翌日の午前中とし、 直接取引でない書店での調達スピードも向上しています。
 さて、 ちょっと気が早い報告ですが、 来年七月六日より開催される東京国際ブックフェア2006に出展いたします。
 この手のコンベンションは誰のための開催かと、 斜に構えてしまうタチですが、 主に書店の方々を想いつつ、 役に立つブースを実現すべく企画を練っています。 (工藤)

▼学校、 職場、 家庭などで人間関係に悩む人は多い。 すぐカッとなって罵詈雑言を吐き、 翌日には全部忘れてしまう相手に心当たりはないだろうか。 その人は 「胆汁質」 という気質が強く表に出ているためにそうなっていると、 シュタイナーは言う。
 胆汁質は、 あらゆる人間関係において最も問題を起こしやすいタイプだが、 反面、 積極的で向上心が強いリーダー的な資質ももっている。 私たちはとかく相手の不愉快な面に気をとられ、 長所は見落としがちだ。
 こんなとき、 ただ 「相手が悪い」 ときめつけるのではなく、 自分の気質を知り、 相手の気質が分かれば、 人間関係はずっとうまくいくとする、 「気質」 という人間の見方は、 とても効果的だ。
 実際、 H・エラー著 『4つの気質と個性のしくみ』 を編集してからというもの、 私が家人とぶつかる頻度は激減した。 お悩みの方、 ぜひご一読ください。 (林)

▼伊藤真著 『高校生からわかる日本国憲法の論点』 (七月刊) が 『聖教新聞』 と 『赤旗日曜版』 の両紙に紹介された。 昨今の最大の政治問題を扱った本が、 対立する両陣営の機関紙で紹介されたのだ。 本書は朝日新聞の社会面でも紹介された。
 ところで九月二十五日付の朝日新聞に 「医師・医学者の会」 が、 「守ろう! 憲法九条、 生かそう! 憲法二十五条」 という意見広告を出している。 小誌の伊藤先生の文章を読まれた方はお分かりと思うが、 おそらくこの会は、 憲法の根本的な意義を取り違えている。 アマゾンの書評などでも、 どうしてこれほど大事なことを学校で教えないのか、 という声が相次いでいる。
 明治憲法発布の日、 日本中が祝いに浮か れるのを見て、 ドイツ人医師ベルツは記し た。 「誰一人、 肝心の憲法が何であるかを知らないのだ!」 私たちは 「憲法」 に関して、 この明治の 「未開」 から、 一歩も歩み出ていない。 本の価値は発行部数の多寡とは無関係と思うが、 この本だけは、 多くの人に読んでほしいと切に願っている。 (中嶋)