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更新:2011.10.20

神秘の夜の旅表紙画像 神秘の夜の旅

若松英輔[著]
46判上製・229頁・定価2520円(税込)/2011年8月刊行/ISBN:978-4-901510-99-8

越知保夫は1961年、49歳で逝った。死後に遺稿集『好色と花』が編まれると、遠藤周作、島尾敏雄、平野謙らが驚きをもって賞賛する。それから半世紀、小林秀雄、井筒俊彦、チェーホフとマルセル、須賀敦子らの気圏の中に、稀有な文学者の魂が鮮やかに甦る。

―苦痛と困難はそのままである。他者の眼には、何ら変わったことはなかっただろう。しかし、彼が生きている場所は、前の瞬間とは別な次元にある。「我々自身をこえた或る神秘」が、万物に「意義」を与えている真実の世界を、彼は垣間見たのである。―(「越知保夫とその時代」より)

[著者] 若松英輔(ワカマツ エイスケ)
1968年生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。批評家。現在、株式会社シナジーカンパニージャパン代表取締役。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞受賞。その後『三田文学』に「小林秀雄と井筒俊彦」、「須賀敦子の足跡」などを発表し、2010年より「吉満義彦」を連載。また『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010)を編集。初めての著書『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011)が大きな話題を呼ぶ。

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『魂にふれる 大震災と、生きている死者』 若松英輔


関連情報リンク

「中日新聞」「東京新聞」2011年10月13日(夕刊) 死者に対する沈黙の言葉を 若松英輔

慶應義塾大学出版会 井筒俊彦入門 ― 越知保夫



霊性を探究する気鋭の批評家 若松英輔 『神秘の夜の旅』(トランスビュー)刊行記念 連続講演  2011年9月


[第1講]
越知保夫と私

東京堂書店神田神保町店
9月8日[木]18:30〜20:00
6階特設会場・定員80名
ご予約・お問合せ
tel 03-3291-5181

終了しました
[第2講]
井筒俊彦と私

八重洲ブックセンター本店 
9月13日[火]18:30〜20:00
8階ギャラリー・定員80名
ご予約・お問合せ
tel 03-3281-8201

終了しました
[第3講]
須賀敦子と私
紀伊國屋書店新宿本店 
9月23日[金・祝]14:00〜15:30
9階特設会場・定員30名
ご予約・お問合せ
tel 03-3354-5700

終了しました
[第4講]
池田晶子と私

三省堂書店神保町本店 
9月28日[水]18:30〜20:00
8階特設会場・定員80名
ご予約・お問合せ
tel 03-3233-3312(代)

終了しました

*ご予約・お問合せは、各主催者へお願いします。 
*先着順にて承ります。 
*参加費各500円(当日、会場にてお支払いください) 
*それぞれ30分前に開場します。
*それぞれは、独立した講演内容です。




目次

はじめに



越知保夫とその時代
  献身と離反/詩とエロス/批評家誕生



聖者論―越知保夫と小林秀雄―

実在論―越知保夫と井筒俊彦―

死者論―越知保夫と二人の劇作家/チェーホフとマルセル

異端論―越知保夫と須賀敦子―

あとがき



本文より
あとがき

越知保夫にとって「見る」、あるいは「見られる」経験が、彼の文学の源泉だった。越知が私たちに垣間見せる存在の深みは、彼が「見た」ものよりも、むしろ、何ものかによって「見られる」体験から来ている。

ルオーに触れて越知保夫は、この画家は、世界に再び「夜」をもたらそうとする、と書いている。ここでの「夜」は、日没後の時間帯に限らない。私たちが日常と感じる「昼」の奥にある、もう一つの世界である。越知にとって「夜」の経験とは、人間が何かを「見る」ことではなく、「見られる」ことだった。「夜」、眼を凝らしても見えるものは少ない。私たちもまた、「夜」に、何ものかに「見入られている」と感じたことはないだろうか。どこからともなく注がれる「まなざし」に、驚かされた経験はないだろうか。

人間を見つめるのは「物」である、と越知は言う。「光のごとく夜のごとくみち拡りつつ、折ふしおぼろげな言葉を洩しはするが、我々が決してその全貌を見透すことが出来ない『物』」、とも彼は記している。「物」は「光」のように万物を照らし、「夜」のように世界を包み込む。ときに「おぼろげな言葉」を放つが、人はそのすべてを知ることはできない。彼にとって「物」とは、特定の事物、事象を指す言葉ではなく、現象界の彼方から浮かび上がる未知なる到来者の顕現を意味する。ルオー、リルケ、チェーホフなどの先人、あるいは小林秀雄やガブリエル・マルセルといった同時代人も、越知保夫には、「物」への窓にほかならなかった。越知は、哲学者とは、超越と人間との「媒介者」でなくてはならないというマルセルの言葉に触れているが、それは、越知が自らに課した義務でもあった。

越知保夫の師吉満義彦が、真に私淑し、その霊性を継承しようとしたのがカトリック司祭であり哲学者でもあった岩下壯一である。越知は作品で、岩下に触れることはなかったが、彼が洗礼を受け、決定的な影響を受けた暁星小学校・中学校、そして一高のカトリック研究会には、岩下の思想が不文律のように生きていた。吉満義彦が岩下と出会い、無教会派から改宗したのに対し、信仰者である越知は、幼いときから、岩下壯一の影響に育まれたのである。

「人間は先づ何よりも完全な人間になるように努力しなければならない」、と岩下は晩年の論考「キリスト教に於ける司祭職」で述べている。さらに、人間が「完全な人間」、すなわち十二分に人間であるためには、「すこし人間以上になる必要があり、この十分の二分は上からこなければなら」ない、と続ける。

人間は、人間の努力において、人間たろうとするだけでは不十分である、それが達せられるには、どうしても「人間」を超えた何ものかの介入を待たなくてはならない。岩下が「人間」と書いたところを、「文学」と置き換えれば、そのまま批評家越知保夫の秘密を明らかにしている。

越知にとって批評とは、「人間」を超えた何ものかとの協同の営みである。何ものかが介在する経験を、越知は「見られる」と表現する。彼にとって文学とは、その見えない何ものかの意図を、言葉によって顕すことだった。何ものか――あるいは「物」――は、超越的一者であるとは限らない。彼はしばしば死者を論じたが、越知保夫における文学とは、「生ける死者」との共時的な邂逅を実現する場でもあった。

人は、いつか死なねばならない。だから、大切な人を失い、悲しむ者もまた、絶えない。彼らの傷を癒すのは容易ではない。だが、彼らと共に死者を考えることはできる。それは、書く者に課された一つの責務ではないだろうか。宗教者、哲学者らと同じく、文学者もまた、死者を確固たる実在として論じることを託されている。越知保夫がいうように、「民衆」の心に分け入り、彼らの声を聞き、それをできる限り忠実に表現することを求められている。死者を論じる際、越知は現在形で語る。彼にとって死者は、今、傍らにいる不可視な「隣人」にほかならない。

第十四回『三田文学』新人賞の締め切りは二〇〇六年の十一月三十日だった。その一週間前の二十三日まで私は、文章を書くことから、十五年ほど遠ざかっていた。二十二歳のときに、中村光夫、小林秀雄、正宗白鳥を論じた「文士たちの遺言」で同誌の懸賞論文の佳作にすべり込んだのが、批評を書くきっかけになり、その後、百枚ほど中村光夫論を書いたが、大学を卒業し、企業人として働きだすと、自ずと執筆からは離れていった。越知保夫論を書き始めたのは、十二年勤めた会社を辞め、起業してから四年目、不安定な要素も少なくなく、未熟ゆえに多忙な時期でもあった。

外出先から帰ると、妻はソファーにすわってテレビを見ていた。いつもどおりに会話を交わして、リビングルームの妻から少し離れたところで、おもむろに越知保夫論を書き始めた。彼女は、私がいつものように仕事をしていると思ったと思う。

普通に考えれば、十年以上も書いていない人間が、締め切りを七日後に控え、百枚の評論を書くには、文献の整備など、少なからず準備を要する。それまでは、書く意図などなかったから、いわゆるノートもなければ、引用を確認したわけでもない。カバーも無くなり、ところどころ擦り切れそうな越知保夫の遺稿集『好色と花』が、書棚にあっただけである。

だが、私には、そのまま数日が過ぎれば、自分はもう、しばらく文章を書かなくなるだろうということが、はっきりと感じられていた。それが思い過ごしだったのか否かは、今となっては分からない。その後、四日間で、「越知保夫とその時代」を書き上げ、二日ほど脱力した日々があり、締め切りぎりぎりに投函した。

翌二〇〇七年二月、新人賞受賞の連絡が来たときに感じたのは、喜び以上に、畏れの感情だった。私は越知保夫論を書きながら、言い難い導きを感じていた。それが何であるかは、書いている最中は分からなかったが、受賞の連絡があったときに、傍らにいたのが越知保夫だったことがはっきりと感じられたのである。それが「錯覚」に違いないことは、私の理性も承知している。しかし、そのときにはっきりと「聞いた」越知からの感謝と祝いの言葉もまた、「私」の大切な経験であり続けている。

書き手の意志がなければ作品は出来上がらないだろうが、それだけでも完成はしない。そこには、作者の意図とは別の、名状しがたい力が働いている。書き手の役割は、仕事が完遂する一工程に過ぎない。リルケが繰り返し書いているように、筆者とは、文字通り、筆を動かす者であり、語り手は必ずしも筆者に限定されず、複数存在する場合が少なくない。

新人賞に応募した頃は、越知保夫の顔すら分からず、遺稿集のほかには伝記的資料もなく、遺族がいることも知らなかった。その後、偶然に助けられ、越知保夫の遺族――悦子夫人と長男保見氏――に出会った。

読者がいなければ、作品は残らない。しかし、読者が現れれば、作品はいつでも蘇ることができる。夫人は、妻であると共に、保夫の前に現れ、彼の全体を「見た」最初の読者ではなかったか。彼女のもとを訪れた際に、私は、阪神・淡路大震災をくぐりぬけた保夫の遺品をいくつか見せていただいたことがある。それらを瓦礫(がれき)の中から救ったのは、妻としての彼女であるよりも、第一の読者としてではなかったか。それらを眼にしたとき私は、真実の読者が一人いれば、作品は伝承されていくことを痛感した。

夫人からは、本書を執筆する際にも、さまざまな質問に応答いただいただけでなく、「どうぞ、ご自由にお書きください」と、静かな、しかし確かな励ましをもらった。この場を借りて、改めてその真摯な助力に深く感謝申し上げたい。彼女もまた、本書の見えざる参画者の一人である。

本書に収録したのは、かつての受賞作ではない。当時の作品は、思い出深いが、調査が行き届かず、伝記的事実の誤記もあり、不十分さが残っている。すべて新たに書き下ろした。

二〇一〇年、越知保夫の著作が新たにまとめられた(『小林秀雄――越知保夫全作品』慶應義塾大学出版会)。本書が担う第一の役割は、読者をこの一巻全集に導くことである。それが一人でも多くの人に、有効であることを願ってやまない。

本書は私の二冊目の著書になる。正確にいえば、私が書き手として「参画」した二番目の著作なのだが、言葉が「本」として読者に届けられるまでには、いくつもの隠れた「仕事」を経なくてはならない。書き手、編集者、校閲者、装丁者、印刷者、そして販売者の、どれ一つ欠けても「本」は生まれない。しかし、それは無記名の、いわば紙背に徹して営まれている。彼らの仕事に敬意を表し、私は、ここで個人名を挙げないが、書く者として参加できたことの光栄は書き留めておきたい。

出版元であるトランスビューは、私には「特別」な名前だった。あるとき書棚をみると、意識していなかったが特定の出版社の本が多いのに気が付く。その書肆は何よりも、池田晶子の著作を複数出している出版社だった。私は彼女に届くことを願いながら、本論を書き進めた。池田晶子こそ、もし越知保夫を知れば、その真実の意義を認識し、明示しただろう人物である。越知保夫を論じる著作が、トランスビューから出されることに、ある感慨を覚えずにはいられない。

私の妻は、二〇一〇年二月七日に亡くなった。彼女は、なぜか「越知さん」と呼び、越知保夫をめぐる私との話に、しばしば付き合ってくれた。しかし、彼女はおそらく、越知保夫を読んだことはなかったと思う。文学、ことに批評に格別の関心があったわけでもない。にもかかわらず、彼女が越知保夫に、ある強い親しみを感じていたことは、言葉からも伝わり、当時から不思議に感じられた。

おそらく悲しみを紛らわすために、私は徒(いたずら)な空想をはびこらせているに違いない。今も彼女が越知保夫の庇護と教えを受けている、との思いを、私はぬぐい去ることができないでいる。本書を書きながら、しばしば越知保夫の臨在を感じた。そして、越知と共に妻の働きを感じないことはなかった。彼らもまた本書の協同者である。

発せられただけの言葉は未完成である。だが、それがひとたび受け取られ、人間によって生きられた時、それは一つの出来事になる。この小著を今、困難にある人びとに捧げたい。本書が多くの読者の手に届き、そこにある越知保夫の言葉が、永く読者と共に生きることを祈念している。

二〇一一年六月十三日 パドヴァのアントニオの祝日に  若松英輔
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死者に対する沈黙の言葉を 若松英輔 
(「中日新聞」「東京新聞」2011年10月13日夕刊より)

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自分だけでは何であるかを知ることができない。だが、心の奥底に、他者と分かち合うことを切望している現実がある。悲しみか、不安か、嘆きであるか、また、それをとおり越した畏れにも似た思いであるかは分からない。

大震災は、人々から故郷と生活のいしずえを奪った。失った者は、何が自分を支えていたかを知らされる。

人々の多くは、被災者であるとともに遺族でもある。家族、親族、友人、同僚の手が、これまでいかに強く、また見えないところで支えていたかを、痛いまでに感じているに違いない。

     *

亡くなった人のためにも、生き残った者の手で、町を、来るべき将来を構築していかなくてはならない、がんばろう、そう言う者もあるかもしれない。事実であるようにも思えてくる。だが果たして、こうした掛け声が、悲嘆する人間に眠る力を呼び覚ますだろうか。

彼らは慰められることを求めているのではないだろう。また、励まされることが必要なのでもない。むしろ存在することだけに懸命な人間に、がんばってくださいと声を掛ける者は、それがいかに残酷な言葉であることを思い知らなくてはならない。人々はすでに「がんばる」ことの彼方にいる。

海に向かって、がれきに向って、あるいは、人知れず部屋で独り、彼らは死者に語りかける。また、道を歩くとき、あるいは仕事をしているとき、眠りにつこうとしたとき、さらには夢の中でも、人々は死者たちの呼びかけを感じる。だが、自らの思いを言葉にしようとした途端、愛する者の姿は消えてしまう。

死者は見えず、触れることはできない。しかし、死者はたしかに臨在する。「生ける死者」であることを感じている。そればかりか、死者たちが、困難を生きる自分たちと、いつも共にある協同する同伴者であり、その働きかけがなければ、今が無いことも感じているだろう。

     *

池田晶子という哲学者がいる。四年前に亡くなったが、彼女はこう書いている。以下の文章中の「存在論」は、「存在の謎」、あるいは、生と死をめぐる存在の神秘、と置き換えることもできる。


 《「存在論」は知識ではない。哀しみであり神秘である内なる「無限」を魂深く感受したとき、それは誰の意識にも懐しく知られているあの生活感情として甦る。たとえば私たちは言ってきたではないか。「あの人は死んだけれども、私のこころのなかで、いつまでの生きている」と。素直に、あるいは、最後に手に入れた結晶のような想いとして。そして、すでにない人にむけて、ことばを紡ぎ続けるではないか。》(『事象そのものへ!』)


独り、死者に言葉する、そのとき人間は人生の秘密をかいまみる、それは探し求めてようやく「最後に手に入れた結晶のような」貴い想いである、どうしてそれを打ち消すことができるだろうと池田は言う。

文学とは、不可視な実在に、言葉の肉体を与えることである。それは大震災以前から変わらない。しかし、震災後はその遂行を、いっそう強く求められているように思えてならない。なかでも文学者――あるいは広義の芸術家に、今、急務として託されているのは、死者を実在として語り、生者と死者の協同する関係を明示すること、すなわち死者論である。

池田は、こうも書いている。《「死者の思い為しを生者は生きている/死者に思われて生者は生きている/したがって、生存とはそのような物語なのである」》(『リマーク1997-2007』)。死者のために生者が生きるのではない、むしろ、生者を支えているのが死者なのである。

    *

死者は、生者の沈黙のうちに顕れる。死者との対話は沈黙の「言語」によって行われる。沈黙の言葉、この矛盾する表現が現実になるような空間を私たちは誰もみな、内に秘めている。それは昔から、多くの文明を通じて魂と呼ばれ、不死であることが繰り返し論じられてきた。今日、文学者の役割は、「沈黙すること」ではなく、死者を思いながら、〈魂に沈黙を生む言葉〉を発することではないだろうか。

    ◇

わかまつ・えいすけ=批評家 1968年生まれ。著書に『神秘の夜の旅』『井筒俊彦 叡知の哲学』。
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