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更新:2011.08.04

モラルのある人は、そんなことはしない表紙画像 モラルのある人は、そんなことはしない 
科学の進歩と倫理のはざま

アクセル・カーン[著] 林昌宏[訳]
46判上製・269頁・定価2625円(税込)/2011年8月刊行/ISBN:978-4-901510-98-1
原書名:Un type bien ne fait pas ça... : Morale, éthique et itinéraire personnel

倫理は科学の暴走を制御できるか―。
クローンと臓器移植、イデオロギーとしての遺伝学、限界なき生殖医療、安楽死と自由、性と法の関係など、現代科学と倫理の葛藤を考察し、すべての市民と科学者がもつべき良識を説く。「お前は理性的かつ人間的であれ」という、自殺した父の遺言の意味を半生をかけて考え抜いた遺伝学者の科学エッセイ。

[著者]アクセル・カーン(Axel, KAHN)
1944年生まれ。医師、遺伝学者。12年間にわたりフランス国家倫理諮問委員会(CCNE)のメンバーを務める。現在、国立保健医学研究所研究部長ならびにパリ・デカルト大学学長。本やテレビを通じて生命倫理やバイオテクノロジーについて意見を述べ、啓蒙活動を展開。本書は初の邦訳だが、著書は『クローン技術の問題点』(1998)、不死の生命の探求をテーマとする『サラマンダーの秘密』(2005)、『安楽死という究極の死』(2008)など多数。

[訳者]林昌宏(ハヤシ マサヒロ)
1965年生まれ。立命館大学経済学部卒業。翻訳家として多くの話題作を提供。
主な訳書にジャック・アタリ『21世紀の歴史』、ジャン=マリー・シュバリエ『世界エネルギー市場』(共に作品社)、ブルーノ・パリエ『医療制度改革』(白水社)、ダニエル・コーエン『迷走する資本主義』(新泉社)、クロード・アレグレ『環境問題の本質』、フィリップ・キュリーほか『魚のいない海』(共にNTT出版)など。

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目次


はじめに


序 章 科学の進歩とその逸脱

ヒト胚の見方/治療のためのクローン技術は可能か/「遺伝子信仰」の荒波/生命に意味を与える


第1章 「私」はいかにしてつくられたか

父と母の家系/思春期の一言/革命を夢見たころ/医者になる/父の自殺と遺言の謎/臨床医から研究者へ/優れた女性たち/わが愛情生活の破綻/人間の条件/倫理に普遍的な基盤はあるか


第2章  自由と尊厳の間

尊厳とは何か/自由はどこまで認められるか/安楽死は自由の行使ではない/性衝動とペドフィリア(小児性愛)/ブルカとトップレス/売春という「職業」/性転換をめぐる危険性/粗暴な社会がやってくる/ポルノグラフィーの氾濫 


第3章  法と倫理は両立するか

法律と科学の関係/危ない専門家たち/治療クローンの非現実性/法律の倫理的基盤とは/ペルッシュ訴訟とヴェイユ法/アンティゴネーは民主主義の矛盾をどう克服したか/法律と道徳は両立するか


第4章 生殖医療の見えない限界

さまざまな親子関係/ホモセクシュアル・カップルの親権と生殖/「積極的な優生学」の圧力/体外発生または人工子宮の可能性と、その是非/生殖器は必要ない/代理母の問題/閉経後の妊娠/なぜ生殖クローンに反対するか/医薬品を取るための子ども/ヒト胚の宗教的・法的位置づけ/人工妊娠中絶と女性の自由/配偶者の死後の受精と妊娠


第5章 ヒトは遺伝子の奴隷か

遺伝学というイデオロギー/人種差別の根拠/遺伝子還元主義という害悪/遺伝子と環境の相互作用/遅くに発症する遺伝子疾患をめぐる混乱/着床前診断の明と暗/乳ガンに罹りやすい遺伝的傾向をどう考えるか/バイオテクノロジーの市場規模/遺伝子の脅威から人権をどう守るか/自由主義、進化論、遺伝学の三位一体/遺伝子検査の陥穽/「予防医学」という神話/医療上の秘密をどう考えるか/恐るべき性別選択/本物の父子関係とは/移民政策としての遺伝子検査/反ユートピア的イデオロギーのまやかし


第6章 精神と神経の倫理

他者を操る麻薬や電気/神経経済学とfMRI/精神は神経に還元できないfMRI麻薬の使用と自由と常用癖


第7章 脱人間的な、あまりに脱人間的な

臓器移植の陰の部分/脱人間化という神話/エコロジーと実用主義/コンピュータへの完全な依存


第8章 逸脱した医学の堕落

医学は非人道性を育む/金が動機の逸脱/他者というモノサシ


おわりに



本文より


はじめに  


 中国には「井戸の中からは、空はとても小さく見える」という諺がある。一方、山頂に立つ登山家にとって空は広大に見えるように、他者が描いたものに接するときには、それがどこから観察されたのかを知る必要がある。こういう考えは、情報や分析、そして物事の見方についても当てはまる。語り手の描写と現実との間には、個人的な価値観や精神活動、個人の感情、さらには生い立ちや人生経験によって培われた独自の視点をもつ人間が存在する。とくにそれらのことが大きく影響する道徳的な考察について、こういう予備知識は、読者にとって必要不可欠だ。

 客観的でありたいと願う気持ちは存在する。科学の分野では、客観的ではないとしても、多様な視点を交錯させることによって、研究目的や手法を一致させようという理想がある。道徳哲学とは、人間科学であり、倫理的に考察することである。だがそれは、語り手の主観や、この道徳哲学を説く著者と不可分だ。本書が奇妙な構造になっているのは、こういう理由からだ。本書では、生物学・医学の研究に関わる社会的な疑問や問題を倫理面から追求していくが、まずは私自身の生い立ちから語ることにする。

 国内外での討論における私の分析や示唆する道筋、そして私の回答は、大勢の意見と大きく異なっている場合がある。しかし、自分では正しいと確信している。そこで私は、自己の文化的な背景と生い立ちを、自分の思いのままに読者に語ろうと思った次第である。

 本書では、まず私の家族観、宗教観、政治的な信条、個人的な事件をざっと述べ、私の道徳的な価値観が形成された過程を読者に示したい。なぜならば、道徳的な価値観とは、形成されるものだからだ。当然ながら、「各自に宿る道徳心とは、形成されるものではなく、それ自体で存在するものであり、各人を構成するものであって、人生に起こる偶然とは関係がない」とするカントの主張に、私はまったく同意しない。

 そこで、「私の精神はこれまでに受けた教育や人生経験の影響下にある」という前提のもとに、私の道徳原則を数ページにわたって記した。次に、このような原則に基づいて、私が経験したさまざまな状況やジレンマに対する見方を掘り下げ、こうした事態に実際に取り組んだ際の考察や、そこから導き出した結論を提示しようと努めた。つまり、それこそが私の「正しい道筋」であり、「正しい道筋」を追求することこそが倫理なのである。


序章 科学の進歩とその逸脱 

ヒト胚の見方 

私の人生を振り返ると、倫理は私の第二の天性であったと思う。社会で倫理的な考察がクローズアップされる以前から、私はあたかもジョルダン氏〔モリエール作『町人貴族』の登場人物〕が黙々と散文をつづってきたように、常に倫理を追求してきた。それが他者の目に奇異に映ったとしても、私の意志は長年にわたってゆるぎなく、時流にもほとんど影響されず、いわゆるポリティカル・コレクトネス〔偏見や差別を含まない中立的な表現や用語だけで物事を語ろうとする態度〕に迎合することもなかった。時代の変化や新たな発見によっても、私の倫理的な見解が変わることはほとんどなかった。私が過去におこなってきた倫理に関する取り組みを否定することなど、あるわけがない。倫理に関する取り組みは、私の人格の土台をなしている。私は若いときから、ひとつの職業を長年にわたって勤めあげてきたが、その倫理的な価値基準こそが私の考察を支えている。私の戦いとは、人間のためになされるものだ。

 若いころから倫理的な考察に取り組むようになったのは、父ジャン・カーンが、私を精神的・道徳的に鍛えあげたからである。私は、自分が受けた教育によって人格が形成されたと感じている。今でも私は、父の意思を尊重して行動するように心がけている。これは、私が父から譲り受けた最大の遺産でもある。

 私の行動の指針は、過去にも未来にも一貫している。それは徹底した人間中心主義である。父は死ぬ前に「理性的かつ人間的であれ」と私に厳命した。はたして私は「理性的かつ人間的」であっただろうか。それはともかく、私の信条は次の通りである。「技術革新の科学的な価値が、道徳的な面で「理性的かつ人間的」である保証はなく、いかなる科学であっても、それ自体は良くも悪くもない。科学だけで社会的、道徳的な進化が約束されることはあり得ない」。

 読者を驚かせる覚悟で記すが、私は、ヒト胚〔ヒトの受精卵が発生してから八週目頃までを指すが、著者は主として二週目頃までを問題にしている〕がもつ特別な価値をきちんと認識する必要がある、という意見を支持する。たしかに、私は頑強な不可知論者〔感覚的経験を超える究極的真理や神などを、人間は知りえないとする立場〕であり、ダーウィン流唯物論者でもあるが、人間の胚は特別な「生物学の研究対象」であると思う。なぜなら、きちんとした条件が整えば、この「小さな細胞の塊」は人間になる可能性があるからだ。

 だが、カトリック教会の見解とは異なり、ヒト胚には神聖さはまったくないと私は考える。つまり、・・・



第1章 「私」はいかにしてつくられたか 

父と母の家系

 兄たちには内緒で、自分の家系について調べてみたことがある。興味本位に家系を調べることは、人格が教育によってつくられるという考えを否定することになりはしないか。しかし我々の人格は、受けた教育、育った環境、祖父母や両親から受け継いだ価値観によって形成される。では、自分の過去に関心を抱くとき、私が自由に思考する部分とは、前述のいったいどの部分であろうか。出自によって私の何が決定されるのであろうか。私は、どのような価値観を受け取ったのであろうか。私は、こうした価値観をどの程度、自分から取り除くことができたのであろうか。あるいは、どの程度、取り除きたかったのであろうか。

 カーンはアルザス地方のユダヤ系の姓である。フランスが一八七〇年の独仏戦争に敗れた後、祖父であるアンドレ・カーンの家族は、ナンシー〔フランス北部の都市〕に移り住んだ。ユダヤ教の司祭の血筋を引く祖父の家族は、この街で画廊を経営した。商売はうまくいっていたらしい。祖父のアンドレは、この地域のブルジョワ家庭の息子として育った。一九一四年に第一次世界大戦に動員されたアンドレは、戦争が終了するまでほぼ毎日、妻となるブロンシュ・シスモンディアーノに手紙を書き続けた。イタリアそしてブルゴーニュ地方の出身であるブロンシュは、敬虔なカトリック教徒であった。私の兄ジャン=フランソワは、祖父のラブレターをまとめあげて、『愛国心あふれるユダヤ人の戦争の記憶』というタイトルの本を出版した。

 宗教とは無縁でクレマンソーを熱烈に支持した祖父は、第一次世界大戦の話になると、我々がうんざりするほど語り続けたものだった。休戦中に祖父の念願はかない、二人は結婚した。彼らはパリ八区にあるモンソー公園の近くに居を構えた。ところが、ブロンシュには、すでにモーリスという独り息子がいた。だが、ブロンシュはその子を自分の弟だということにして、これを秘密にしていた。私の父であるジャンと彼の兄弟のジャン〓クロードは、この伯父が実は異父兄弟であることを、かなり後になってから知ったのである。それはモーリスが借金を踏み倒して外国へ逃亡してしまったときである。この悲劇的な結末は、カーン家に深い禍根を残した。

 一九二九年の世界恐慌によって、祖父アンドレは経済的に大打撃を受け、家族の暮らし向きは大きく変化した。アンドレはパリ八区で民事訴訟の弁護士となった。家族はこの時代のことをはっきりと覚えている。祖父は財産を失ったために、自殺まで考えたという。祖父は、息子のジャンを呼び寄せた。私の父であるジャンは共産主義者だったので、祖父との関係は冷え切っていた。ブルジョワと若き革命家との間で、会話はほとんど成り立たなかった。だが、共産党の青年団の活動家であった十八歳の父にとって、教養豊かで皮肉屋の、とてつもなくヴォルテール的な祖父との会話や打ち明け話は、よい思い出になったらしい。

 ドイツの占領下、あらゆる宗教と無縁で不可知論者で聖職者を認めないアンドレ・カーンは、ヴェルダン〔第一次世界大戦の激戦地〕で勇敢に戦った戦士であるのに、なぜユダヤ人として迫害され、一九四二年から黄色の星バッジ〔ユダヤ人を表わす〕の着用を強制されるようになったのか、理解できなかった。アンドレはペタン元帥〔ドイツに降伏し第三共和制を廃した〕を支持していただけに、彼の頭はさらに混乱した。だが、アンドレは堂々とパリにとどまることにした。最悪の事態は回避できるのではないかと考えたのだ。

 母方の家系の雰囲気はがらりと異なる。安食堂の息子であった祖父カミーユ・フェリオは、シャンパーニュ地方の小さなおもちゃ製造工場で働いていた。ある日、彼は音楽の先生をしていたセシル・バルティスを口説き落とした。彼らの間には、間もなく女の子が生まれた。その子は、祖父と同じくカミーユと名付けられた。その後、彼らは結婚したが、すぐに離婚した。

 私の母カミーユは、祖母セシルに連れられて波乱に満ちた幼年期を過ごした。オペラ歌手であったセシルは美しく・・・



第2章 自由と尊厳のせめぎあい 

尊厳とは何か

 考察を進めよう。行動する際の道徳である倫理は、考慮すべき価値観を決定する。そうした価値観の一つが他者に対する配慮である。科学の進歩により、我々の欲望が満たされ、病の効果的な治療法が生みだされたとしても、我々は社会的に拘束されたり、いわれのない烙印を押されたり、道具のように扱われたりする恐れがある。科学の進歩には莫大な金銭が絡んでいるだけに、科学の進歩が逸脱するリスクは計り知れない。技術パフォーマンスの向上によって新たなテクノロジーが実際に利用されて、他者を保護することや改善することに役立っている場合もあるが、道徳面において問題が生じる場合もある。生命に働きかける手段が飛躍的に増えた。したがって、我々は発生する可能性のあるリスクを突き止めなければならない。

 道徳および倫理の定義とは何であろうか。「道徳(Morale)」はラテン語であり、「倫理(e`thique)」の語源はギリシャ語である。今日、倫理と道徳は、厳密には同義ではない。一般的に道徳とは、善と悪を認識する知恵であり、各自に課せられた要請である。一方、個人的な側面が強い倫理は、「正しい道筋」およびそれをつくりあげる価値観についての考察である。これを職業人に当てはめると「職業倫理(de`ontologie)」となる。例えば、これは、弁護士、医師、会計士の職業倫理の「規範(codes)」である。道徳は、全員に課せられた使命という意味であるため、普遍的な倫理であるというのが私の解釈である。神という超越者に拠らない道徳を探求してきた私は、野蛮なホモ・サピエンスが人間化する条件とはこの道徳であると思う。倫理は、科学や医学が進歩する際に「正しい道筋」を探求するが、それは道徳的な価値観に依拠しなければならない。何よりもまず、他者の独自性を尊重する必要がある。道徳か倫理のどちらかを選ぶということはありえない。それどころか、現在では倫理をつくる原則を考察する必要性が、かつてないほど高まっている。

 新たな生殖医療技術・臓器移植・遺伝子治療が登場している。医療行為における「正しい道筋」を模索する際に、これらの技術革新を人間に応用することが、人間の尊厳を脅かすのではないか、という疑問が生じている。

 まずは、人間の尊厳の基盤を明らかにし、それが新たな技術によって脅かされる理由を見極めなければならない。尊厳(dignite`)は多義性をもつ言葉なので、その概念を明らかにすることは困難な作業だ。尊厳の語源である「dignitas」とは、主権者や権力を託された人が、勲章や称号として与える名誉を意味した。したがって、本来の意味は格差であり、尊厳は職務や役職に関連した用語であった。すなわち、職務や役職の喪失は、尊厳の喪失につながったのである。

 ストア派の哲学では、「尊厳ある態度」は、個人の規律につながる。つまり、自制心、勇気、明敏、忍耐、羞恥心、謙虚、自らの不幸を他者に押しつけない意思、他者の静寂をかき乱さない、ということである。・・・



第3章 法と倫理は両立するか 

法律は科学を追いかける

 他者をきちんと保護するためには、どうしたらよいのだろうか。社会的に弱い立場にある人々には、何を提供すればよいのだろうか。実現可能な枠組みとは、どのようなものだろうか。国民は、医学・生物・遺伝に関する研究など、科学の進歩によって生じる道徳問題を、どのように考えるのだろうか。誰が国民に情報を提供し、国民はどのように意見を形成していくのだろうか。倫理に関する法律の役割とは何だろうか。フランスの生命倫理法は進化するべきだろうか。こうした問いは重要であり、公の討論の場で掘り下げるべきである。場合によっては、法的な拘束も視野に入れるべきだろう。民主主義社会では、正しい情報に基づいた、きちんとした議論が必要である。

 法律によって明示するという大原則を掲げるフランスの生命倫理法は、実用的な形では整備されていない。ますます革新的になる医療行為から生じる新たな社会的需要に対して、フランスの法体系を構築する価値観に即した「良い疑問」とは何だろうか。どの方向に進むべきなのだろうか。従来の政治的、イデオロギー的な溝を超越するこうした疑問は、生命倫理法を見直す際の中核である。

 繰り返しになるが、生命倫理法を五年ごとに見直すことは、良い考えではないと思う。私は、基本法だけを定めるというやり方を支持する。基本法により、まずは原則を掲げ、それから各論に入り、独立した委員会を設置して判例の役割を担ってもらう。つまり、法の精神や価値観に照らし合わせて、独立した委員会が新たな行為を解釈するという方法である。定期的に生命倫理法を見直す原則を適用すると、国民は、科学的進歩にともなって発生する道徳問題は、解決可能であると考えるようになってしまう。

 疑問を抱かざるをえない分野が、技術的進歩とともにさらに進化するとしても、法律によって利用可能な技術を列挙するべきではない。というのは、法制化は常に遅れをとるからである。法律の役割は、強い価値観を提示するだけにとどめ、これを尊重する諮問機関(国家倫理諮問委員会や生命倫理庁)が方向性を決めることにする。諮問機関が逸脱のリスクを確認した場合、つまり、判例が法の精神と矛盾する場合には、諮問機関は、立法機関に対して審議を請求できることにする。こうした民主的な手法で、物事をシンプルに裁くことができる。私は、これが最良のシステムであると思う。・・・



第4章 生殖医療の見えない限界 

妊治療と血縁へのこだわり

 子どもがほしいという願いは、いつの時代にも存在した。今後もこの願いは存在するだろう。ヘーシオドスの『神統記』の肥沃の神オシリスや、不妊を治すことができた唯一の神アポロンなど、不妊をテーマとした神話には事欠かない。カップルによっては子どもをもつことを拒否する者たちもいるが、これまで彼らが多数派となることはなかった。我々の社会においても、子どもは根源的な価値をもち、なんとしても子どもを持とうとする者は多数存在する。大多数の者たちにとって、子孫なしで過ごすことは、耐え難いことのようである。

 今日でも不妊は解決されていない。古代には呪いであると考えられていた不妊に対する治療法は、これまでにもたくさんあった。二十世紀初頭には、子どもを持てない女性は祈祷師とともに九日間祈った。また、生殖を促すという評判のメンヒル〔先史時代の直立した巨石記念物〕に生殖器をこすりつける者もいた。今日でも、パリのペール・ラシェーズ墓地にあるブロンズでできたヴィクトール・ノワールの横臥像を訪ねる人々が、後を絶たない。勃起したように見えるこの横臥像の股間部分を、男性の精力を意味すると解釈して、女性はこのふくらみに自分の部分を押し当てて、横臥像の頬にキスをするという。これは、数ある伝説の一つに過ぎない。

 我々の時代には、成功率の向上が著しい方法を利用する生殖生物学のおかげで、カップルは、かなり効果的な方法を利用できる。不妊治療は、驚くべき進歩を遂げた。しかし、すべてが解決したわけではない。

 不妊治療の進歩と並行して、親子関係には生物学的な正当性が必要である、という考え方が強まってきた。親となる新たな世代は、血縁だけが親子関係にふさわしいと考えるようになったのである。これは、充分に考慮しなければいけない社会的な事実である。古代ローマでは、養子縁組した息子は、生物学的なつながりがある息子と同じ地位にあった。刺客のなかに養子縁組した息子ブルータスを見つけたユリウス・カエサルの、「息子よ、お前もか」という驚きに満ちた叫びは、こうした事情を物語っている。

 感情で成り立つ親子関係と、血縁で成り立つ親子関係を区別するべきだろうか。区分することは、自然なことなのだろうか、あるいは文化的なことなのだろうか。両者には、つながりがないのだろうか。・・・



第5章 ヒトは遺伝子の奴隷か 

遺伝学というイデオロギー

 遺伝学を脅かすおもな危険は、イデオロギーに満ちた悪党どもや、他者を貶める輩が、絶えず遺伝学を乗っ取ろうとすることにある。手短に言えば、イデオロギーに満ちた輩は、科学者が提起した問題に対し、科学者をさしおいて回答するが、科学者自身はその回答を知らない、というような状況である。「生物学が支配する社会」になるリスクは、今にはじまったわけではない。これまでにも、科学的な発見にイデオロギーが入り込み、社会進化論や社会生物学が登場し、人種差別を刺激してきた。

 例えば、とくにフランスでは、社会史を通じて系譜学に対する妄想があったことを思い起こしてほしい。貴族などの系譜(「青い血液」をもつ人々)と、「劣っている」と思われる社会的な階級や民族に属している「悪い系譜」とに、階級分けされていた。十九世紀には、生物学を装った議論によって社会的な格差が拡大し、人種差別が助長された。このような議論では、個人がもつ固有の差違は理論的に証明できるという主張がなされた。我々は、こういうイデオロギーの目的のために遺伝学が利用されることを、阻止しなければならない。我々は、誤って理解されている遺伝学のデータの蓄積によって、生物学を装った議論が再燃しないように気をつけなければならない。

 こうした疑似科学の言説のほとんどは、遺伝学以前のレベルのシロモノである。だが、遺伝学は、イデオロギーという「水車」に水を注いでいるのも事実である。一九七三年には、初の遺伝子操作がおこなわれたが、これよりもかなり以前から、遺伝学によって個人の価値を高めるという幻想が語られてきた。遺伝学は、他者との違いを語る科学、個人を識別する科学である。したがって、排除のイデオロギーをもつ者は、遺伝学を自らの利益に資するように利用する傾向がある。二十世紀初頭に再発見されたメンデルの法則や、ダーウィンの進化論は、人類史上最も恐ろしいイデオロギーの一つである、生物学的な根拠を装ったナチスの科学的な基盤として利用された。

 遺伝学は、人類に多大な貢献をもたらすことができる科学であるが、遺伝学が人類の行く手を阻むことや、人類に根拠のないレッテルを貼ることもありうる。ある種の超自由主義的な社会の指導者、思想家、追従者にとって、遺伝学が願ってもない科学であることは、メンデル以前のダーウィンの時代からまったく変わっていない。資本主義の繁栄によっても暴力や絶望を押さえ込むことができない、ということが判明した場合でも、資本主義システムによって生み出される無秩序や過剰がその原因であると指摘することは許されない。すべては遺伝子の責任にされてしまう。

 すべてを遺伝子の責任にする考え方により、社会に適応できないさまざまなタイプの人々に対して、優生学的な手法を適用することが正当化された。例えば、アメリカへの移民をある民族に限って制限することや、問題のある地区における暴力事件の多発を説明することなどである。イデオロギーの偏見に基づいて導き出された科学的な結果が、次々に提示されてきた。これは、ジョルジュ・カンギレムが示した、科学的なイデオロギーの定義を完璧に例証している。つまりそれは、自らの信念を強化するために打ち立てられた、科学という金ぴかで悪趣味な服をまとった偏見である。

 数年前から、自由市場を掲げる社会の台頭が遺伝学を力強く後押ししてきたために、超決定論のイデオロギーの論拠に、遺伝学が再び利用されるようになってきた。人類を細かくグループ分けする生命医学の研究を論拠とする、根拠のないレッテル貼りや排除の復活に、人々が危惧の念を抱くのは当然である。DNAの二重らせん構造の発見者であるジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの宣言は、象徴的であった。この二人は、あちこちで、人間の性質の違いはおもに遺伝子が原因であるので、ヒト胚の遺伝子に基づいた選択政策は正当化されると断言してきた。

 これは全然驚きではない。というのは、一九六二年にノーベル生理学・医学賞を受賞したワトソンとクリックは、アングロサクソン型の右派決定論者に属する科学者であるからだ。彼らは、不平等を許容する古臭い思想の持ち主であり、しばしば人種差別を許容してきた。彼らの世界観は広く受け入れられたが、その後、その恐ろしさが露呈した。このようなイデオロギー運動は、信用を失って眉唾ものとなったが、ここ数年来、勢力を巻き返している。地理的な条件や民族的な条件に対応した遺伝的な特性が、まじめな医学的研究テーマとなっている。・・・



第6章 科学が精神に入りこむとき 

他者を操る麻薬や電気

 他者に強烈な印象を与え、他者の行動を操ることは、人類のコミュニケーションの基本である。しかも、人類が登場して以来、これらの操作はさまざまな形式をとってきた。例えば、言葉や容姿などによって他者の欲望を掻き立てる性的な誘惑がある。また、人類はボディ・ペインティングによって、自らの肉体が他者の精神におよぼす影響を高めようとしてきた。このような装飾により、他者を魅了し安心させることができる一方で、敵や危険人物を威嚇することもできる。軍人と祈祷師が同じ服装であることはない。社会で暮らす人々の行動も操作されてきた。社会の発展段階において、軍隊や群衆を統制する能力のある指導者の威光は、カリスマ性を通じて維持されてきた。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の見せ場の一つは、シーザーの暗殺後に、マルクス・アントニウスがおこなった「見事な演説」である。アントニウスは、雄弁術によって群衆の気持ちをひっくり返した。社会において他者の精神に働きかけることは、人間の暮らしの中核をなしている。

 これまで人類は、他者の精神活動に、より効果的に働きかけるためにはどのようにすればよいのかを考えてきた。だからこそ、まずは経験的に、次に科学的に脳の働きを理解しようとしてきた。今日、それは可能となったが、神経科学の領域には新たな倫理問題が生じている。
 数万年前から、精神に影響をおよぼす薬品が用いられてきた。その目的は、肉体的、精神的な苦痛に耐える、あるいは軽減する(例えば、アンデス地方ではコカの葉を噛む)、精神を高揚させる、恐怖心をやわらげる(幻覚キノコ、チャット〔噛むと軽い覚醒作用をもたらす葉〕など)ためである。化学技術を利用して、これらの植物の幻覚作用をもたらす分子が生成され合成された結果、現在の麻薬(コカイン、LSD、エクスタシーなど)ができあがった。

 実験によって脳の組織構造を理解することもできるようになった。(病気や事故が原因の)ある種の損傷が脳に生じた後の、行動の変化が観察されたことがきっかけとなって、医師は、脳の外科的な治療を思いついた。これがロボトミー(前頭葉白質切除)をはじめとする外科的な治療実験である。このような手術を施すことにより、精神病患者を治療できると考えたのだ。ところが、これは陰鬱な失敗に終わった。ロボトミーを施された患者は、何事に対しても感情も興味も示さないゾンビと化したのである。

 今日、化学的な手法をはじめとして、さまざまな方法によって脳に入り込むことは、これまで以上に現実となっている。脳の病気を治療するための医療技術は、進歩している。パーキンソン症候群(脳の「黒質」が破壊されることが原因で、震えの後に次第に筋強剛といった症状が現われる)の患者の脳を電気的に刺激するために、電極を植え込むきわめて効果的な治療法〔DBS=深部脳電気刺激療法〕が確立された。電気的な刺激を与えることにより、震えを抑えることができる。この治療法により、病状が悪化するのを遅らせることができると考えられている。この治療法によって、介護なしのほぼ普通の日常生活を送ることができるようになる患者は、深い苦悩からも解放される。・・・



第7章 脱人間的な、あまりに脱人間的な 

臓器移植の知られざる側面

 唯一個別な存在である人間の身体は、肢体や各種臓器によって成り立っている。これらは切断可能であり、場合によっては取り替えることも可能である。

 事故によって手足が失われた場合や、患者が一つの腎臓、脾臓、左肺、前立腺、結腸を切除された場合であっても、彼らの個性が冒涜されたわけではない。彼らの「尊厳」は完全に守られ、その人間性が疑問視されることはない。切除手術を受けた患者に取り付けられた人工器官、腎臓・肝臓・心臓・角膜などの移植は、人間の本質にとって危険な治療ではなく、患者の自律や生活を取り戻すために、患者の自己実現にとって、むしろポジティブな影響をおよぼす治療であると考えられる。こうした治療が良いおこないであることは、確かである。

 しかし、とくに顔や手などに人間と見えるような「部品」が組み込まれた人物に接するときには、純粋に医学的な側面からではなく、人々はためらいや不安を感じる。我々の応急処置をいくつか紹介すると、人間に豚の心臓やヒヒの肝臓を移植すること、また人間の脳に埋め込まれた電極から指令を発して義足や義手を動かすことや、音から生じる電気信号を、体内に埋め込まれた人工内耳によって内耳神経に直接伝達することなどである。もちろんこれらは驚異であるが、我々は、修理された人物の身体から発せられる目の輝きや人間的なエネルギーに接すると、人間性が完全に保全されたことに納得がいく。

 また、精神性の発露に介入するために、精神の物質的な構造の相互関係を修理する応急処置もある。精神の潜在能力を高め、これを制御するために、人工的な装置を取り付ける応急修理である。

 このような行為は、人間的であるのか、あるいは脱人間的であるのか、狂気の沙汰なのか、それとも解放の象徴となるのであろうか。まずは臓器移植から論じる。

 臓器移植は、飛躍的な進歩を遂げた。臓器移植は、脳死状態の人物から摘出された臓器が寄贈されたことからはじまった。その直後に、科学的、倫理的な秩序に関するあらゆる問題が続出した。例えば、脳死についての定義や、臓器摘出の同意を誰から得るのかという問題である。フランスでは、一九七六年に制定されたカイヤヴェ法に従って、存命中に、自らの臓器提供は拒否すると表明しなかった者全員が、潜在的なドナーであるとみなされることになった。

 一九九四年に制定された生命倫理法では、二〇〇四年の改定時に、推定同意の原則は維持されることが確認されたが、存命中に死後の臓器摘出を一切拒否する旨を登録する、国の台帳が作成されることになった。また、脳死状態の者の場合には、臓器提供の意思が不明であれば、医療チームは家族の承諾を得ることになった。しかしながら、臓器の寄贈の承認が明確に表明されず、また親族がまだ悲しみのどん底にある場合は、臓器提供を受けることが難しくなった。

 少し以前には、臓器提供は、自らの死を超えて社会に役立つ崇高な行為であるとみなされていた。今日、宗教活動は影を潜めたが、少なくともヨーロッパでは、脱宗教化した日常生活から姿をほぼ消し去った神聖さは、自らの肉体、とくに死者の肉体に逃げ込んだようである。つまり、肉体の完全さを侵害することに対するためらいが大きくなり、現在では、多くの人々が死後の臓器提供を拒否するようになった。さらに、こうした拒否と同時期に、これまで病院で継続的におこなわれてきた死体解剖も、ほぼ完全に消えうせた。死後であっても神聖さが残る肉体は、尊重すべき対象であり、侵害してはならないという考えが主流となったのである。

 しかしながら、生きたドナーによる臓器提供という新たな傾向がある。多くのきわめて寛容な人々が、我々先進国に対して臓器提供を申し出ている。脳死の人から摘出される臓器が不足している現状に加え、脳死の病人から摘出された移植組織を利用するよりも、移植手術の結果がほんの少し良いと思われることから、生きたドナーによる臓器提供は、外科医にとって好都合である。しかしながら、これにはきわめて深刻な倫理問題がある。こうした臓器摘出は、途上国ではどのようにおこなわれているのだろうか。途上国によっては、腎臓や肝臓などの提供国となっているが、自らの臓器を提供することによって金銭を得ようとする貧しい人々を対象に、臓器摘出がおこなわれているのではないだろうか。

 二〇一〇年に予定されている生命倫理法の改定の際には、二〇〇九年におこなわれた市民フォーラムにおいて主張されたように、生きているドナーの範囲が拡大されることも考えられる。しかしながら、これについては慎重な態度で臨まなければならない。・・・



第8章 逸脱した医学の堕落 

医学は非人道性を育む

 医学や生命科学の分野において倫理的な考察が発展してきたのは、過去にしばしば恐るべき非人道的な行為があったからだ。医学はどのように発展してきたのだろうか。医学の目的とは、病気を治療し、ひどい痛みを取り除き、健康を回復させて、自律した暮らしが送れるようにすることだろう。これこそが解放である。人道主義とは、人間の開花に寄与するあらゆることを熟考することであるから、医学こそは人道主義を目指す職業である。医学にまつわる古くからの格言にも「まずは害をおよぼすな。次に治療せよ」とある。では、医学の非人道的な所業とは、どのようなものだったのだろうか。

 その疑問に答える前に、医学は、自らの野心を満たすための技術的、頭脳的な手段を本格的に持つようになった時期から、非人道性を育んできたことを確認せざるをえない。言い換えると、医学は実効を持つようになったときから、非人道的な傾向を育んできたということである。本書で言及したように(第3章の「専門家と政治家の相互利用」)、フランスの偉大な科学者であるルイ・パスツールの逸脱といった例もある。

 パスツールの業績は、一世紀半近く経過した現在でも偉業としてあがめられている。前述したように、狂犬病のワクチンを二、三年かけて研究した後、パスツールは、自身の実験をおこなうために死刑囚を実験台にすることを、ブラジル皇帝のペドロ二世に提案した。その後もパスツール研究所の手法には、疑問の声があがった。一九二七年に黄熱病のウィルスが発見された直後に、効果も安全性も乏しい段階で、ブラジルにおいてリオ・デ・ジャネイロにやってきたばかりの貧しい移民が人体実験に利用され、二百人が命を落とした。

 アメリカでも、医師が梅毒の“自然な経過”を研究するために、「タスキギーの実験」と呼ばれる人体実験をおこなった。一九二〇年代にアラバマ州のタスキギーという田舎町で、梅毒の縦断的な研究〔特定の母集団を長期間にわたって研究する方法〕が、黒人の農民を対象に実施された。梅毒に罹った若い男性たちが、継続的な研究対象となった。

 ところが一九四〇年代には、一九二八年にアレクサンダー・フレミングが発見したペニシリンの利用が普及しはじめていた。研究対象となった梅毒に罹った人物に対しては、ペニシリン系の抗生物質を投与することにより、梅毒の原因である梅毒トレポレーマという病原菌を早期に死滅させればよいことは、タスキギーの医師たちも知っていたと思われる。梅毒の症状は、まずは性病の伝染性潰瘍である{硬∥こう}{性∥せい}{下∥げ}{疳∥かん}が生じ、紅斑が現われた後に、しばらくしてから動脈瘤、神経障害、精神錯乱など、さまざまな合併症が生じる。梅毒が恐ろしい結末をもたらすことや、患者が悲惨な人生の末期を迎えることは、彼らにもわかっていたが、研究対象となった人物には、何の治療も施されなかった。「タスキギーの実験」は、何と一九七二年までおこなわれたのである。研究目的ということで、数十人が命を落としたことが、後日発覚した。

 このような事例は、まだたくさんある。一九六二年にブルックリンにあるジューイッシュ病院では、二十名以上にガン細胞の粉砕物を注射してその反応を観察するという、ガン細胞の伝搬に関する実験がおこなわれた。最もひどい事例は、一九六〇年代の、ニューヨーク州にあるウィロブルック州立学校病院での出来事である。ここには自閉症の子どもや精神薄弱児が収容されていたが、彼らの一部に肝炎の血清が意図的に接種された。その目的は、病気の〝自然な経過″を観察して、ガンマ・グロブリンが病気に対してどのように作用するのかを詳細に知ることにあったという……。

 我々はこれらの非人道的な医学の事例を、教訓とすることができるのだろうか。これらの事例の共通点とは、何であろうか。一つめの共通点は、知識に対する情熱である。・・・



他者というモノサシ

 医療倫理の堕落のおおよその正体についてはつきとめたが、医学は今後も非人道的になる危険性があるだけに、我々はどうすればよいのだろうか。

 第一段階は、人間に対する研究や実験を指揮する者は、自らの動機や正当性を先に述べた逸脱者たちのものと較べて、客観的な立場から真摯に分析してみることである。当然ながら、科学者の情熱、社会から認められたいという研究者の欲望、研究の将来的な見通しに対する信念などを認めないことは論外である。金については、現代社会の現実であり、これを考慮しないことは無理である。研究者は、毎日のように「研究価値を高めろ」と厳命されている。研究価値とは経済的な意味であり、産業界と結びつけろという意味である。ルイ・パスツールやラヴォアジエが、これを証明している。

 そこで研究者は、これらの堕ちた偉人たちの逸脱を警告として受け止め、警戒を怠らないように心がけ、倫理諮問委員会のような外部機関に意見を求めなければならない。人体実験の実施については、当然ながら自由な同意を厳格かつ誠実に尊重する原則を、厳密かつ明確に課すことである。では、我々が先の原則をきちんと遵守すれば、あらゆる非人道的な行為を防ぐことができるのだろうか。

 実際には、それだけでは充分ではない。なぜならば、医師と患者の間にある種の理解が存在し、両者がもつ権利と義務について対話がおこなわれたとしても、医師と患者の立場は対等ではないからである。当然のこととして、治療する側は健康であるが、患者は病気に罹り、苦痛にさいなまれている。「私は私自身におこなわないであろうことを他者にはおこなわない」という相互の感情に加え、医師と患者の間には絆が必要である。砂地獄に陥った人物を想像してほしい。本人の自律を理由に、その人物に対して「いずれ砂地獄に飲み込まれる」と宣言することも可能であろう。しかし、絆という義務によって行動しなければならない。倫理的な思考から成り立つこうした義務が、ある種の知的作業を通じて表明されることになる。医師は、健康できちんとした医学知識をもつ人物である一方で、身体を蝕む病気に罹った病人の立場になって考えるのである。そこで医師は、次のような疑問を抱かなければならない。「自分が知っていることを患者が知れば、患者は、自分が推奨することがおこなわれることを認めてくれるであろうか。患者が自分の家族であったならば、自分はどうするであろうか」。他者の立場になって考える共感力こそが、重要なのだ。

 要するに、これはバイオメディカルの研究分野だけでなく、我々の暮らしにおける倫理的な行為の土台に対する考察だが、この考察は本書を貫く基調テーマでもある。最後にその判断基準を明記しておく。すなわち、他者は自分の行動の道徳的な価値を推し量るモノサシであり、その行動が正しいか正しくないかを決めるのは、他者というモノサシである。



おわりに 

 世界中の父親や母親は、自分たちの子どもが立派な女性や男性になってほしいと願っているだろう(ほとんどの母親がそう願い、またほとんどの父親もそう願っていると思いたい)。「立派な人物になってほしい」とは、存在(e^tre)、ひとかどの人物(e^tre quelqu'un)、立派な人物(e^tre quelqu'un de bien)という三重の意味がある〔著者はこの哲学的な意味を後述する〕。

 父が私に発した二つの厳命が、私の脳裏から消え去ることはない。「良い子は、そんなことを言ってはいけない」。これは七歳のときに、私がクラスメイトに対して人種差別的な呼びかけをした際のことであった。二つめは「必要なことを厳格におこなえ。お前は理性的かつ人間的であれ」。これは、父が猛スピードで走る電車から飛び降り自殺する前に書いた遺書の文面である。

 父のメッセージを解読することは、私の知的な歩みと人道的な暮らしにとって導きの糸となった。私が父ジャン・カーンの意図したことをきちんとこなしてきたか否かは、定かではない。だが、私は自分自身で価値体系を練りあげてきた。私はこれを明示することができるし、これに基づいて理論構築することができる。したがって、私の対話の相手や読者は、この価値体系から私が示す価値に反論したり、またはこれらを自分のものにすることができるであろう。

 いずれにせよ、私の子どもたちが、私のメッセージにとまどうことはないであろう。私の子どもたちとは、愛情および血のつながりによる私の子どもたち(ある女性が私に与えてくれ、私とわかちあうことになった私の子どもたち)、そして私の学生たちのことである。私のような職業では、多くの若い人々と接する。立派な人物になるとは、まず自らの行動においてである。我々全員は、自らがおこなうことと不可分である。この点において、誰もが責任をもつ存在なのだ。

 本書は奇妙な構成であるため、読者によっては「おわりに」から読みはじめる人もいるかもしれない。本書は、医学や科学研究、倫理的な考察といった分野において、私が長年にわたって検討してきた、あるいは遭遇した複雑な状況に対して、私が思うような立派な人物であれば、どのように取り組まなければならないかを記してある。自分の提案が主観的であることは認める。したがって、本書をバイブルと捉えるならば、本書は失敗作であろう。

 本書は、予想される倫理的な行動指針をまとめあげたものである。本書で取りあげる「倫理」の定義とは、「正しい人生ならびに正しい人生を築く価値についての考察」であり、行動の道徳である。本書では、行動の選択そのものよりも、選択を正当化する価値観について強調した。したがって、読者は事情を把握したうえで、私に賛成であろうが反対であろうが、自分の分析を深めることができる。

 私の考察は、善と悪に対する問いかけからすべてが生じる。なぜならば、私は立派な人物であれと命じられたからである。私は本書で、自身の回答を明確に表明しようと試みた。ヒトの人間性は、少なくとも他者との人間的な相互交流によってしか現われない。これにより、他者の価値が認められ、他者の尊重という原則がつくりあげられる。他者の尊重は、人間性の基盤である。相対的な価値に基づいて他者を差別することはできない。つまり、ある人物が自らの暮らしや権利の面で何かを要求すれば、相互に、他者も自分自身に関するこれと同じことを要求できる。

 善とは、他者の価値を考慮したすべてのことである。悪とは、他者の価値を否定する、あるいは他者に対して無関心であるすべてのことである。善と悪とは、他者性という枠組みを超えると、何の意味ももたない。このような意味で、善と悪の概念が、他者の尊重という原則の結果である自律と相反することはありえない。すなわち、他者は、私が固執する自律の恩恵に浴さねばならないのだ。絆、共感力、誠実さ、公平は、他者の価値を自らの価値と同等と認めることから生じる。倫理的な考察の中核であるこれらの原則は、正しい行動の基盤となる価値である。

 この分析により、「おわりに」の冒頭にある、「存在(e^tre)」、「ひとかどの人物(e^tre quel-qu'un)」、「立派な人物(e^tre quelqu'un de bien)」とは、どういう意味なのかを説明したい。「存在」とは、自分が何者であるかを知ることであるが、自己の意識に至るには、他者の助けが必要となる。つまり、人間は一人では存在できないのだ。他者が存在するがゆえに、私は存在するのである。

 当然ながら、「ひとかどの人物」であると判断できるのは、他者のみである。他者が、類い稀と認める人物が、その才能を開花させて行なう社会的な貢献は卓越している。彼らの特徴は、独創性があることである。

「立派な人物」とは、古今東西、他者を開花させるために自らの才能やエネルギー、想像力を用い、他者を開花させる取り組みや活動に心血を注ぐことを、決して忘れない人物のことである。



訳者あとがき 

 本書は、フランスで二〇一〇年四月に出版された “Un type bien ne fait pas ça...” の全訳である。タイトルは直訳すると「良識ある人物は、そんなことはしない」となる。

 著者の経歴は本書に詳しい。一九四四年九月五日に生まれたアクセル・カーンは、臨床医を経て遺伝学者となり、現在は、パリ・デカルト大学(パリ第5大学)の学長を務めている。

 著者は、その論文が学術誌に五百本以上も掲載された、ヨーロッパで最も著名な遺伝学者の一人である。また、科学の啓蒙活動にも積極的に参加し、偉大な科学者であると同時に倫理を重んじる姿勢が評価され、一九九二年から二〇〇四年まで、国家倫理諮問委員会のメンバーを務めた。

 著者が関与して国民的な議論となった問題は、安楽死、着床前のヒト胚の遺伝子検査、DNA鑑定を利用した移民管理や父子関係の証明、閉経後の妊娠や代理母などの生殖医療、さらには、性染色体の検査によるスポーツ選手の性別チェックの是非、生き物を対象とする特許の禁止、歌手イヴ・モンタンの血縁関係を調査するために遺体を掘り起こしてまでDNA鑑定をすべきではないという主張などである。著者はテレビ番組などで、これらのテーマについて意見を述べ、世論に大きな影響をあたえた。

 これらに共通するのは、科学技術的には実現可能だが、倫理的な問題を引き起こす可能性があることで、その問題を考えるときの鍵が、自殺した父の遺言、「理性的かつ人間的であれ」という言葉なのだ。

 フランスでは、研究の第一線を退いた高名な科学者が、一般向けに本を書いたり、テレビ番組に出演したり、各地の高校で授業をおこなったりと、啓蒙活動に積極的に従事している。ノーベル物理学賞を受賞したピエール=ジル・ド・ジェンヌやジョルジュ・シャルパク、地球科学でクラフォード賞を受賞したクロード・アレグレ、そしてアクセル・カーンなどの活動がとくに有名である。

 学校教育や世論、また法律が、科学の進歩についていけないとき、科学者自身が率先して情報発信しなければならないと、彼らは考えているようだ。科学者が研究室に閉じこもり、社会との意思疎通がうまくいかないと、科学は倫理・道徳を逸脱する恐れがある。国民が判断材料もないままに、特定の科学技術の賛否を問われれば、大衆迎合型の政治に操作されるばかりで、最終的に社会の利益にはならない。これが、フランスの民主主義的科学思想の基盤である。
 
 二〇〇〇年代初頭にオランダとベルギーで、「積極的な安楽死」が法制化された。両国の法制化と、国内での特殊な事例(本文でふれたアンベール事件やセビレ事件)を受け、フランスでも安楽死に関する議論が高まり、不治の病に罹って激しい苦痛に襲われた末期患者が死を望んだ場合には、直接の死に至る薬物を投与する「積極的な安楽死」ではなく、治療を中断するなどの「消極的な安楽死」が法制化された。これが本書の「安楽死は自由の行使ではない」の節で紹介されている、二〇〇五年に制定されたレネッティ法である。

 ちなみに、オランダでは二〇〇二年に安楽死が法制化されたが、「積極的な安楽死」の割合は死者全体の一・六%をピークに、その後は、本書でも指摘されているように、痛みを緩和する対処療法などの充実によって減少傾向にあるようだ。しかし、オランダでは「積極的な安楽死」の適用範囲をめぐり、精神病患者や子どもにも拡大するべきか否か、さらには自殺幇助を要求する権利を認めよなど、カーンの主張と真っ向から対立する議論があるという。著者は、安楽死をテーマにした本も出版している(『安楽死という究極の死』二〇〇八年。『安楽死を法制化するべきか』二〇一〇年、元教育科学大臣リュック・フェリーとの共著。ともに未邦訳)。

「積極的な安楽死」の合法化は、超高齢者やアルツハイマー型認知症患者など、生産者でも消費者でもなくなった人間はいわゆる社会のお荷物なので、お引き取り願おうという議論ともつながる。フランスでも、死の直前六カ月の医療費は、その人にかかった全医療費の半分以上を占めるという統計をもちだして、社会保障費の増大を防ぐために、“無駄な”延命治療はやめようという議論がある。しかしはたして、超高齢者とは何歳からを指すのか、アルツハイマー型認知症の症状をどう判断するのか、といった疑問がすぐに浮かぶ。

 だからこそ、本書が掲げる「人間から尊厳が失われることはない」という原則が、大きな説得力をもつのだ。「あらゆる事態が想定できるだけに、「すべての人間は尊厳と法律において生まれながらにして自由で平等であり続ける」と謳われた、一七八九年に議決された『人間と市民の権利宣言』(人権宣言)を今一度、思い起こすべきであろう」という本書の指摘を重く受け止めたい。

 生殖医療についても、フランスは欧米の中では保守的である。アメリカやイギリスとは異なり、フランスでは、ヒト胚の売買や代理母は禁止されている。ヒト胚の譲渡についても、レズビアンのカップルに対しては、最近になって認められるようになったが、ゲイのカップルについては、代理母を利用することになるため、禁止されている。

 イギリスでは、キャメロン政権が受精・胚研究認可庁(HFEA)を、二〇一四年をめどに廃止する意向を表明し、ほぼ同時にインドでは、二〇一〇年に代理母が法制化された。インドの法制化の建前は、一人の女性が生涯に代理母を引き受ける回数を制限することによって女性を保護することにあるというが、この法律によって、代理母が産んだ子どもを手放さないことは明確な違法行為となった。イギリスの規制緩和とインドの法制化がセットになり、イギリス人のカップルがインド人の代理母を利用するという、組織的な生殖補助医療行為による「新たな市場」が登場しそうな気配であるという(二〇一一年五月三十日付の「ジャパンタイムズ」のドナ・ディケンソンの記事「商品化される赤ん坊――イギリスは規制緩和する一方で、フランスは生命倫理を論じる」)。これはまさに、カーンが本書で危惧している事態である。

 一方アメリカでは、精子や卵子、さらにはヒト胚が商品として「カタログ販売」されている。カタログ・ショッピングによって、子どもの性別、身体的特徴、疾病傾向、さらには知能までも選別しようとする者がいる。このあたりの事情は、『ボディショッピング』(ドナ・ディケンソン著、中島由華訳、河出書房新社、二〇〇九年)に詳しい。ここではアメリカの生命倫理学者が、アメリカを筆頭とする自由主義的な生命倫理のあり方を批判し、臓器移植や生殖補助医療に関して身体をモノとして扱うべきではないとし、さまざまな事例を紹介している。

 本書の「脱人間化という神話」の節で指摘されているように、アメリカでは「健康の維持や回復に必要とされる以上に、人間の形態や機能を改善することを目指した介入」と定義される「質の向上」が、大きな問題になっているという。

 この問題については、「ハーバード白熱教室」で有名になったマイケル・サンデルが、『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(二〇一〇年)で触れている(林芳紀氏の「訳者解題」も参照されたい)。生命倫理問題の震源地ともいえるアメリカで、サンデルは事態を対岸の火事のごとく語り、古今東西のリファレンスを手を変え品を変え紹介しつつ、クールに、しかし曖昧模糊とした論説を展開して読者を煙に巻く。

 これに対し、本書を読めば、臨床医を経験し、遺伝学者であり人道主義者を自認するアクセル・カーンの主張が、きわめて鮮明かつ強烈であることがおわかりいただけるだろう。

 本書のテーマである、身体、脳、生殖といった我々の生命活動の基盤は、驚異的な進歩を遂げる生命科学によって脅かされている。本書の表現を用いれば、人間が生物学に囲い込まれて、個人の自由が制限された息苦しい社会になってしまう危険性がある。生命は答えのない永遠のテーマとも言えるだけに、生命科学が大きな進歩を遂げるたびに、社会には、これまで以上の利便性と危険性が同時に生じることを、我々は覚悟しなければならない。

 著者も狭い道筋と認めるように、資本主義社会において、法と道徳と科学的進歩の三つの間に調和を見出すことはできるのだろうか。医療や教育も商品化されている今日、利益追求と科学の暴走によって、生命が商品化されたとしても、社会はもうそれほど驚かないのではないか。しかし、これは実に恐ろしいことである。

 イギリスの作家カズオ・イシグロのベストセラー小説『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房、二〇〇六年)には、臓器提供のためだけに生殖クローン技術によって誕生させられた者たちの悲哀が描かれている。また、映画化もされた『わたしのなかのあなた』(ジョディ・ピコー著、川副智子訳、早川書房、二〇〇六年)が扱う問題は、本書の「「医薬用の子ども」を産む」や「臓器移植の知られざる側面」の節で詳しく解説されている。本書を読むと、これらの小説に対する理解も深まり、さらにはテーマの受け止め方も変わるのではないかと思う。

 最後に、フランスの「国家倫理諮問委員会」が、発足以来一貫して主張し続けているメッセージを紹介したい。「身体は人格そのものであって、だからこそ神聖なものである。人体の組織を商品化することは、その人物に対する耐え難い侮辱的な行為であり、我が国の法律に根本的に違反する行為である。さらにこれは、文明が衰退する兆しでもある」。
 
 本書の翻訳に際しては、厚生労働省の元事務次官である近藤純五郎先生から貴重なアドバイスと励ましを頂いた。記してお礼を申し上げる。またトランスビューの中嶋廣氏にも感謝したい。原書のもつ意義と奥行きを理解する編集者と共に作業ができたことは、翻訳家として大変幸運であった。


  二〇一一年六月二十五日 林昌宏 
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