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更新:2010/4/4

【受賞】36回「山崎賞」受賞

マリー・キュリーの挑戦表紙画像 マリー・キュリーの挑戦 科学・ジェンダー・戦争

川島慶子[著]
A5並製・210頁・定価1890円(税込)/2010年4月刊行/ISBN:978-4-901510-89-9

自然科学を女子の手に!
〈偉大な科学者にして良妻賢母〉伝説を打ち破り、
巧みな筆で描き出す真実のキュリー夫人とその時代。
結婚と死別、家族と戦争、アカデミーとの闘い、不倫事件、放射能の栄光と悲惨―、
彼女が直面したのはすべて現代の問題なのだ。


[著者]川島慶子(カワシマ ケイコ)
1959年神戸市生まれ。京都大学理学部地球物理学科卒業。東京大学理学系大学院を経て1989年より2年間、パリの高等社会科学学院に留学。専門は18世紀フランスの科学史。ジェンダーの視点を取り入れた独自の研究が注目を浴び、国際的にも活躍する。現在、名古屋工業大学准教授。著書に『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ――18世紀フランスのジェンダーと科学』(女性史青山なを賞受賞、東京大学出版会)など、論文「マリー・キュリーにとっての戦争、革命」(「女性研究者の特性とリーダーシップ」研究報告)ほか多数。

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マリー・キュリーの挑戦 科学・戦争・ジェンダー 川島慶子[著]

書評・紹介記事など
・毎日新聞(2010.04.04 朝刊)村上陽一郎氏書評
・朝日新聞(2010.05.02 朝刊)辻篤子氏書評

関連情報リンク
川島慶子のホームページ

著者・川島慶子氏が山崎賞を受賞



目次

序―マリー・キュリーが投げかける問い―

1 少女の怒り
四つの要素/喪われた祖国/少女マリアの夢/「女らしさ」を超えて/答えの出ないジレンマ

2 三つの恋の物語
悲恋に耐えて/故国を捨てた恋/尊敬と愛情/ピエールの突然の死 /予期せぬ不倫/年下の男/「ランジュヴァン事件」と二度目のノーベル賞/数奇な運命/たたずむ男の想い

3 ノーベル賞を有名にしたもの
ノーベルの遺言/格好の受賞者/年を取らないともらえない?/国と国との競争/科学者たちの縄張り争い/悪用された成果

4 墓はなぜ移されたか
パンテオンに眠る最初の女性/墓を移す/フランスの自負/原子力政策とのつながり

5 誤解された夫婦の役割
「理性的な男/感情的な女」というステレオタイプ /「頭脳はピエール、肉体労働はマリー」ではない/ウラン放射線と出会う/徹底した定量実験/新元素を取り出す/賞賛の裏側/原子の意味を変える

6 二つの祖国のために
マリー、戦場を駆ける/戦争と女の関係/悲願のポーランド独立/マリーの戦争観

7 ピエール・キュリーの「個性」
脇道を行く/ピエールの結婚観/自分たちに合った結婚生活/いやいやながらの選挙運動/「負け犬」の崇高な野心

8 科学アカデミーに拒まれた母と娘
女性会員はいない/もう一人の候補者/政治と宗教のねじれた関係/怒りと抵抗/娘イレーヌの闘い

9 変貌する聖女
書き変えられる伝記/見かけだけの平等/第二波フェミニズム運動/新しい伝記への批判

10 マルグリット・ボレルとハーサ・エアトンとの友情
シスターフッドの価値/女が男の所有物だった時代/キュリー母娘を助ける

11 放射能への歪んだ愛
見過ごされた放射線の害/夫妻の症状/広がる犠牲者/甘く見積もられた危険性/「薬は毒」

12 アインシュタインの妻
恋に落ちた留学生/アインシュタインの家族/ミレヴァの母性/「そこそこ」の美人という条件/潰されたキャリア/離婚、そして死まで

13 リーゼ・マイトナーの奪われた栄光
忘れられた「原爆の母」/裕福なユダヤ人の娘/逆境の中で/「淑女」という鎖/ついにポストを得る  プロトアクチニウムの発見/孤独な亡命者/核分裂の発見と証明/ノーベル賞を獲りそこなう/名誉は回復されたが

14 放射線研究に斃れた日本人留学生
ラジウム研究所への派遣/命を縮めた研究/誇るべき日々/近代日本が見た夢/女の一生/女性の生き方の変化/放射能を帯びたパスポート

15 「偉大な母」の娘たち
正反対の姉妹/父親の死と祖父の影響/幸せでなかった少女時代/「粗野な」イレーヌ、「エレガントな」エーヴ/それぞれのノーベル賞

16 キュリー帝国の美貌のプリンス
映画スターに比せられた科学者/キュリー夫人の驚愕/二つの姓を持つ/フレデリックの才能と努力/政治的な闘い

17 湯浅年子の不屈の生涯
日本初の物理学専攻女子学生/「ジョリオ先生」の弟子/戦火を縫って/日本では研究ができない/結婚の条件/大いなるロール・モデル

18 キュリー夫人とモードの歴史
青いウェディングドレス/女性ファッションの激動期/簡素な服装とスポーツの奨励

19 「完璧な妻、母、科学者」という罠
なぜアメリカで歓迎されたのか/ジェンダー・バイアス/「女中」の存在/同業者カップルの困難/何を学ぶべきか

あとがき

参考文献

  △ページの最初へ












































本文より
序─マリー・キュリーが投げかける問い─

 日本の中学生や高校生に「あなたの知っている女性科学者を挙げなさい」と言うと、一位は断然キュリー夫人になります。次にかなり票数が下ってレイチェル・カーソンなどが来るようです。きっと世界中の多くの国々で同じ結果が出ると思います。アインシュタインほどではありませんが、キュリー夫人はその科学的業績を超えた名声を持っています。伝記だけでなく、有名な映画やテレビドラマなどにもなりました。子供向けの偉人伝シリーズでも、キュリー夫人の入っていないものを探すのは難しいでしょう。

 では、数ある女性科学者の中で、どうしてこんなにマリー・キュリー(一八六七─一九三四)だけが有名なのでしょう。

 ロシア占領下のポーランドに生まれた少女がパリに留学し、そこで成功を収めたという出世物語の部分でしょうか。それとも、夫との共同研究がノーベル賞を受賞したという、男女共同参画の先がけのような側面でしょうか。あるいは、その夫を事故で失いながらも、二人の娘と共に失意の底から立ち上がり、二度目のノーベル賞をはじめとする数々の栄誉に輝いたという、刻苦の物語の部分でしょうか。

 十九世紀から二十世紀を生きた一人の女性、マリー・スクォドフスカ・キュリーがこんなにも世界中で注目され続けてきたのには、きっと彼女の持つさまざまな要素が影響しているに違いありません。本書はキュリー夫人とその時代に焦点をあて、いろいろな角度から、この魅力的な女性が現代の私たちに投げかける問題を考えていこうという試みです。

 この本でみなさんは、彼女の発見した放射性の新元素をはじめとする科学的な問題だけではなく、ポーランドとフランスをとりまく当時の政治状況、あるいは当時から現在に至るジェンダーの問題、日本とキュリー夫人との深い関わりなど、今まで知らなかったこの女性をめぐる新しい側面を発見することになると思います。・・・


1 少女の怒り

四つの要素


「その人は、女だった。他国の支配を受ける国に生まれた。貧しかった。美しかった。」
 これは、その発刊から現在まで、常に変わらぬ人気を持ち続けているマリー・キュリーの伝記、次女エーヴ・キュリーが書いた『キュリー夫人伝』(白水社、二〇〇六年、以下『伝記』と略称)の冒頭です。この文章は、特にマリー・キュリーの若き日を、見事に要約しています。この四つの要素を抜きに、マリーの生涯は語れません。

 エーヴの伝記はマリー・キュリーの死後、わずか四年で刊行されたにもかかわらず、そこに含まれているフランス、ポーランド、アメリカにまたがる資料は豊富で第一級のものです。しかも今となっては決してかなわぬ、関係者への直接インタヴューも含まれているため、キュリー夫人の研究者にとっては必読書です。それだけではありません。これは文学としての価値も高く、ジャーナリストとして活躍していたエーヴの文才が、遺憾なく発揮された作品です。

 多くのハリウッド女優が主演を希望したと言われる、グリア・ガースン主演の映画『キュリー夫人』(一九四三年)の原作も、エーヴの伝記です。この本はあらゆる意味でマリー・キュリーを著名にしました。もちろん娘の書いたものですから、多少の美化はなされていますし、家族にとって都合の悪い話は省かれています。それでもなお、ここには名作だけが持つ、人の心を打つさまざまな要素があります。日本でもすぐさま一流の仏文学者たちによって翻訳され、野上弥生子やあとに述べる湯浅年子など、多くの女性たちに大志を抱かせるものとなりました。キュリー夫人は、世界中の女性たちにとって人生のロール・モデルの一人となったのです。・・・



2 三つの恋の物語

悲恋に耐えて


『二十世紀を変えた女たち』(白水社、二〇〇〇年)の著者、フランス史家の安達正勝は、キュリー夫人は面食いだったと書いています。安達はその理由として、彼女の方が積極的であった恋、つまり初恋の人であるカジミェシュ・ゾラフスキと、不倫スキャンダルとなった恋愛の相手であるポール・ランジュヴァンが、共に美男子であったことを挙げています。安達はピエール・キュリーをこの範疇に入れていないのですが、私としてはピエールもまた、この端っこに入れてもいいのではないかと思います。じじつ、十九歳のピエールの写真を見ると、なかなかの美青年です。少なくとも彼は最期まで、「むくつけきおのこ」などという感じではありませんでした。マリーは、いかにも「おとこおとこした」感じの男性は好みではなかったのでしょう。

 彼女が初めて恋をした男性であるカジミェシュは、まさに女の子の夢見る「白馬の王子様」でした。彼は、王家につながるチャルトイスキ家の地所の管理をする、裕福な家に生まれた秀才にして美貌の青年でした。二人が出会ったとき、マリーは彼の家の住み込みの家庭教師として、カジミェシュの妹たちを教えていました。しかるべき家柄に生まれながら経済的に恵まれなかった、誇り高い才女であるマリーは、ためらいながらも、ワルシャワ大学理学部で数学を学ぶエリートだった、この一歳年上の青年と恋に落ちます。青年もまた、ふだん自分のまわりにいる「お嬢様」たちとはまったく違う、強い個性と高い知性をそなえた女家庭教師に、強く惹かれてゆきます。
 この、まるで十九世紀ロマン派の恋愛小説のような筋立ての幼い恋は、やはりこういう小説によくあるように、家柄や財産の違いを理由にカジミェシュの両親の大反対にあい、破局を迎えます。

 カジミェシュには、両親を説得する力も、マリーと共に家から飛び出す勇気もありませんでした。これは、マリーには大きな屈辱です。ちょうど同時期に、次姉のヘラも、やはり財産の問題から縁談が破談になったところでした。本人の能力とは無関係なところで結婚の是非が決められてしまうことに、マリーは激しい怒りを覚えます。この頃の彼女の手紙を読むと、自分の才能に対する誇りと、自分の置かれている立場との差に、どうしようもないジレンマを感じて悩む青年期の心理が、ありありと表現されています。

 しかも話はこれで終わりません。マリーはカジミェシュとの結婚が拒絶されてからもなお、経済的理由からゾラフスキ家に留まったのです。この家からもらう家庭教師としての収入を、手放すことができなかったからです。パリで医学を学ぶ上の姉ブローニャの命運が、マリーの仕送りにかかっていました。マリーは耐えます。そしてこれが一年以上も続くのです。まさに試練としか言いようのない年月でした。・・・



3 ノーベル賞を有名にしたもの

ノーベルの遺言


 キュリー夫人が世界的に有名なのは、何よりもまず、彼女が女性として世界で最初にノーベル賞を獲得したからです。しかも一九〇三年に第三回物理学賞、一九一一年に第十一回化学賞と、自然科学部門で二回です。この記録に並ばれたのは、先に述べたように一九七二年になってからです。キュリー夫人の仕事が、偉業といわれるのも当然でしょう。

 ところでその時代、いったいノーベル賞はどのような価値をもつ賞だったのでしょう。今日のように有名な賞だったのでしょうか。そもそもノーベル賞の目的とは何だったのでしょう。ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの遺産で作った賞だという話はみんな知っていますが、なぜノーベルはこんな賞を作ったのでしょう。もしもノーベルにインタヴューできるなら、彼はキュリー夫人への二度の授賞を喜んだでしょうか。

 最近日本では、特に自然科学部門で、たて続けにノーベル賞受賞者が出ています。政府関係者の中には、具体的な獲得数値目標を掲げる人もいます。特にオリンピックの時期には、金メダルとノーベル賞を並べるような発言をする政治家も現われます。これに対し、学識経験者の間から「金メダルとノーベル賞を一緒にするな(価値が違う)」という反発が起こったりもします。怒る気持ちもわからなくはありませんが、この二つのイベントは、ある意味でとても近しい関係にあるのです。先の政治家がそれを知っていたとは思えませんが、じつは一九〇一年から始まったノーベル賞は、一八九六年から始まった近代オリンピックと似た精神に貫かれています。

 近代オリンピックの父クーベルタン男爵(一八六三─一九三七)も、ダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベル(一八三三─一八九六)も、国民国家の時代を生きた人です。つまり、最初の章に述べたような、国家間の紛争とそれに付随する悲劇とを、目の当たりにした人物です。オリンピックの五輪は世界の五大陸の象徴で、それが重なり合う様子は、世界平和の発展を願ったものなのです。同様にノーベル賞には平和賞という部門があります。他の部門に比べて一見唐突ですが、これこそがノーベル賞の精神の基本です。ノーベルは遺言状に、自分自身の世界平和への願いをこめています。それを読むと、じつはノーベル賞のすべての部門が、形を変えた「平和賞」であることが理解できます。ノーベルはその遺言で受賞資格を、「前の年に人類に最大の貢献をした人たち」と規定しているのですから。

 つまり、それが文学であろうが科学であろうが、ノーベル賞の対象作品は、人類の平和に貢献することが前提条件なのです。たとえそれが、芸術としてどれほど優れたレベルにあろうが、争いを称揚するような文学作品は決して認められません。ノーベルの言う文学賞の条件は、その作品に「高い理想をめざした」ことが認められてこそなのです。ですから他の部門でも、戦争の拡大を促進するような目的で開発されたものに対しては、絶対に賞を与えてはならないのです。これがノーベル賞の精神であり、ノーベルの願いでした。しかし言うは易く、実行は困難な目標でもあります。・・・



4 墓はなぜ移されたか

パンテオンに眠る最初の女性


 一九九五年、ミッテラン大統領(当時)の肝煎りで、フランス政府はキュリー夫妻の遺体を、祖国の偉人を葬る非宗教墓所であるパンテオンに埋葬することを決定します。こうしてキュリー夫人は、ヴォルテールやユゴーと並ぶ偉人と規定され、「自らの業績において」(式典における大統領の言葉)パンテオンに眠る女性第一号となりました。同時に政府は、夫妻の肖像を五〇〇フラン札の絵柄に決定します。今はみんなユーロになってしまいましたが、フランスではユーロ導入直前まで、日本では一万円札に当たるもっとも高額のお札に、夫妻の肖像が載っていたのです。短い間でしたが、とてもきれいな絵柄のお札だったのを、私はよく覚えています。
 しかし、キュリー夫妻を讃えるこの一連の政府の動きの意図は、何だったのでしょうか。そしてまたこうしたことは、夫妻の気持ちを尊重する行為なのでしょうか。そもそも政府がこの決定をするまで、夫妻はどこに埋葬されていたのでしょう。

 先にも少し述べましたが、エーヴは母の伝記で、埋葬の場面を次のように描いています。この本でもっとも感動的な場面のひとつです。

一九三四年七月六日金曜日の正午、弔辞も行列もなく、政治家も公職の重要人物も出席することなく、キュリー夫人はつつましやかに、死者たちが眠る住まいの自分の場所へ、入っていった。近親者と友人たちと、彼女を愛した研究者たちが見守るなか、彼女はソーの墓地に、埋葬されたのだ。棺は、ピエール・キュリーの棺の上に、安置された。ブローニャとユゼフ・スクウォドフスキが、墓穴にひと握りのポーランドの土をまいた。墓石には、新たな名前がきざまれた。
〈マリー・キュリー=スクウォドフスカ 一八六七年─一九三四年〉
(『伝記』、五二七頁)

 ソーというのはパリ郊外の町で、現在では豪邸の立ち並ぶ高級住宅地ですが、夫妻の生前は牧歌的なところで、今でも自然豊かな場所です。ここはもともと、ピエール・キュリーが両親と住んでいたところで、その関係でマリーもソーに居を構えることになったのです。キュリー夫妻が自然を愛し、ガーデニングに熱心だったのは有名な話です。マリーは夫と共に、そして未亡人となってからは一人で、あるいは友人や娘たちと一緒に、自然の散策や庭木の世話を楽しみました。・・・



5 誤解された夫婦の役割

「理性的な男/感情的な女」というステレオタイプ


「彼は、彼女が精神的に自分と同属であることをはっきりとわきまえていた。両者には共に真実と自然さがあった。ただ、彼女は彼自身よりナイーヴで直感的であり、彼の自然さはきわめて厳しい熟慮から生まれてきたものだった。」

 これはマリーとピエールについて書かれた文章ではありません。二人より半世紀ほど前に活躍した男女の芸術家を比較した文章を、その職業がわからないように変形したものです。男性はデンマークの作家で詩人のアンデルセン、女性はアンデルセンがその才能をいち早く認めたスウェーデンの歌姫イェニー・リンドです。一八四〇年代に出会ったこの二人の芸術家は、その時すでに当時の規範を打ち破る新しい表現形式を打ち出し、賞賛と批判の両方を浴びながらも、己の才能を信じ、自分たちの生涯を芸術に捧げることを誓っていました。二人はカップルにはなりませんでしたが、その生涯の最期まで互いの芸術に尊敬の念を抱き合い、パイオニアだけが持つ苦悩と喜びを分かち合ったと言われています。

 ここで問題にしたいのは、もちろん芸術の部分ではありません。こうした、才能ある男女を比較する際に用いられる表現方法についてです。右のように職業がわかる部分を削ってしまうと、私たちはこの手の表現の恐るべき類似点に気がつきます。つまり、「理性的な男性と直感的(感情的)な女性」というステレオタイプです。この手の言い方はどこででも使えますし、じっさい長きにわたっていろいろな男女に、等しく適用されてきたのです。

 ここで少し考えてみましょう。たしかにアンデルセン童話の持つ自然さは、実は緻密な思考の上に何度も推敲された文章が生み出したものであることは、残された草稿を研究した者の一致した意見です。しかしそのことが、リンドの歌が直感的であることの理由になるのでしょうか。それはむしろ、アンデルセン本人をはじめとする男性たちの、いかにも自然で飾り気のない美しさを持っていたリンドに対する、「直感的であってほしい」という願望であり、自分たち「理性的な」男性を補完する役割としての「情緒的な」女性という、十八世紀以来の博物学理論を踏襲した決まり文句なのではないか、という気がしてなりません。つまりその背景にある思想とは、子供を産む性である女性は、男性より自然に近い存在であり、難解な思考には生物学的に向いていない、というお定まりの理論です。・・・


あとがき



 じつは私にとって、マリー・キュリーは長い間、自分とは関係のない遠い存在でした。小学生の時には毎月、学研の雑誌『科学』(二〇一〇年四月休刊)が届くのが楽しみで待ち切れなかった理科大好き少女でしたから、「ラジウムを発見したキュリー夫人」の名前はもちろん幼い頃から知っていました。そして多くの日本人同様、女性科学者の名前は、キュリー夫人しか知りませんでした。しかし女性科学者になろうと思っていたのに、キュリー夫人は私にはあまり魅力的ではなく、アインシュタインの方がかっこいいと思っていました。それは多分に娘エーヴによる伝記の影響、いえ、より正確に言うならば、エーヴの伝記を参考にした子供向け伝記や、ハリウッドの伝記映画などの影響だったと思います。つまり「幼いころから完璧な優等生で、優等生のまま死んだお堅い女性」というイメージが強烈で、親しみを感じなかったのだと思います。

 それに比べれば、教師に劣等生よばわりされたり、数学が苦手だったり、バイオリンが上手だったり、チャップリンと共感し合ったりという、破天荒なイメージが流布していたアインシュタインの方が、私には魅力的でした。ですから、気になるし、偉いとは思うけど、あまり見習いたくない存在、というのが私にとっての、長い間のキュリー夫人のイメージでした。じつは「優等生キュリー夫人 対 ユニークな天才アインシュタイン」という、一般に流布したこの対照的イメージこそがジェンダー問題だったのですが、そんなことは考えてもみませんでした。それがわかるようになったのは、ずっと後の話です。

「お堅いキュリー夫人」という私のイメージを変えたのは、本書でもとりあげた、第二波フェミニズムの中であらわれた二つの伝記、ロバート・W・リードの『キュリー夫人の素顔』と、フランソワーズ・ジルーの『マリー・キュリー』でした。このとき私のなかで、この人物はいわゆる「キュリー夫人」から「マリー・キュリー」という存在へと変化したのです。と同時に、「解釈」というものの重要さを思い知らされました。ランジュヴァン事件にせよ、放射能の問題にせよ、事実関係そのものがあとから変わることはほとんどありませんが、その事実をどうとらえるかというのは、どの立場に立つかによって大きく違ってくることを知ったのです。

 このころから、いつかマリー・キュリーについて書いてみたいと思うようになりました。けれども科学史研究者としての私の専門は、マリーの生きた時代ではなく、もう一世紀前の十八世紀フランスでしたから、なかなかその思いを形にすることはできませんでした。そんなときにふとした偶然から、山田延男の存在を知りました。キュリー研究所に行ったがために、放射線障害になり、三十一歳で死んでしまった日本人科学者。いろいろなつてをたどって、遺児である山田光男氏にインタヴューをすることになったとき、父の記憶のないこの人が、自分のルーツを探ろうとしているその姿に、人間にとってのルーツの重要さという問題を改めて思い知らされました。

 テレビドラマにもなりましたが、有名な『ルーツ』というアレックス・ヘイリーの著作を思い出しました。アメリカの黒人である作者が、自分の先祖がどのようにしてアフリカからアメリカにつれてこられ、その後どのような過程をたどって自分に至ったかを、順々にたどってゆく自伝的フィクションです。それはヘイリー個人の先祖からの歴史であると同時に、アメリカ史、あるいはアフリカ史のひとつの側面を描いたものでもあります。

 私は最初、こうした側面から山田延男のことを論文にしようと思いました。しかし資料が少なすぎました。いわゆる「論文」にするには、山田個人の情報が足りないのです。それに妻であった浪江のことも気になっていました。そうすると、「論文」という形式はあまり向いていません。それならいっそ、延男の先生だったマリー・キュリーについて書いたらどうだろう、と思うようになりました。

 このとき、気がついたら自分の本棚に、マリー・キュリーとその周辺をめぐる様々な資料が、いつの間にかたくさんたまっていました。単なる伝記ではなく、山田延男や山田浪江のことも含まれた本。マリー・キュリーから連想されるさまざまな主題を扱いながら、科学だけでなく、ジェンダーや戦争や、人間にとってのルーツの問題について考えることができる本。そして自分の国を忘れることなく、世界について考えることができる本。マリー・キュリーにとってのポーランドとフランス、エーヴ・キュリーにとってのフランスとアメリカ、山田延男や湯浅年子にとっての日本とフランス。「いま」「ここ」から離れることなく、別の時代や別の場所についても思いを巡らせることのできる本、そんな本を書けないかと思ったのです。

 それはまた、戦後の平和な時代に生まれ、高度経済成長の中で、人類の進歩は当然のことと信じて子供時代をすごした自分自身、女性参政権や男女共学を当然の権利としながらも、じっさいは社会のジェンダー・バイアスのために、女の子と科学が切り離されていた「自分の」時代を描くことでもありました。

 じっさい、これを書きながら私はその章ごとの主人公たち、あるいは彼女たちや彼らと類似の経験を持つ他の人たちからも、強い暗示のようなものを受けました。特に苦しかったのはリーゼ・マイトナーの章を書いていたときです。私はこの間じゅうずっと、二つの黒い瞳に見張られているような気がしていました。それはどこかしらリーゼの面影をもつ少女の瞳でした。私は、もしこの少女が成人していたら、リーゼが美人になったような感じかしらと、リーゼの写真を見ながら何度も思ったものです。しかし少女は大人になれませんでした。残ったのは日記といくつかの童話だけでした。少女の名はアンネ・フランク。リーゼ同様、ユダヤ人であるためにナチスに迫害され、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で短い生涯を閉じ、『アンネの日記』を残したあの少女です。

 科学や数学が大嫌いだったアンネは、その意味ではリーゼとの接点はないのですが、それでも私はアンネに見張られて、リーゼの章を書いたのだと今でも強く感じています。このふたりは、科学と文学とその嗜好は違いますが、当時の女性に課されたジェンダー役割を宿命と見なさず、自らの才能を信じてそれを伸ばした、あるいは伸ばそうとした女性です。それなのに、ユダヤ人というただそれだけの理由で、なぜ彼女たちはあんなにも苦しい思いをしなければならなかったのか。いえ、彼女たちだけではありません。この本を書いているあいだ、湯浅年子の「この戦争が、いかに多くの才能の、のびるべき運命を滅ぼし去ったか」(山崎美和恵『パリに生きた科学者 湯浅年子』岩波ジュニア新書、一一四頁)という文章が、何度も何度も頭をよぎりました。祝祭と戦争は人間についてまわる宿命なのかもしれませんが、戦争の傷はあまりにも深く、個人はたとえ生き延びても、その後の長い人生をこの傷に翻弄されます。

 私自身は戦争を知らない世代ですが、それでも、この本を書きながら、自分自身の人格や行動パターンが、大日本帝国に生まれ、先の戦争を体験した両親や祖父母、あるいはそれ以外の自分の周りにいた大人たちから、深い影響を受けていることを強く実感しました。そして、科学者になろうとしていた自分は、まさにそういうことを無視したかったのだということに思い至りました。その意味で、かつての私がマリー・キュリーよりもアインシュタインに惹かれたのは、当然だったかもしれません。アインシュタインもまた、科学の世界こそが、環境の束縛から自分を解き放つものだと信じたのです。しかし、この二人の生涯を見れば明らかですが、人が歴史の影響から逃れるのは不可能です。ですから本書では、科学者としてのマリー・キュリーの成功が、その先祖たちの複雑な歴史と深い関係を持っていることを、強く打ち出したいと思いました。

 けれども、本文の最後で書いたことと重複しますが、私は人間を、ただただ環境に翻弄されるだけの存在とみなしたくはありません。これも、昭和三十年代に生まれた人間の特性かもしれませんが、「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博に目を輝かせた少女であった私としては、あくまで人間を希望のある存在として描きたかったのです。若い世代に、未来への希望を持ってほしいと思ったのです。

 本書の全体を書く前に、いくつかの章だけで構成した薄い冊子を作って、勤務先である名古屋工業大学の科学論の授業で使ってみました。二十歳前後の学生たちがマリー・キュリーについてどういう風に反応するか、見てみたかったのです。私がいちばん驚いたのは、若き日のマリーが住み込みでお屋敷の家庭教師をしながら、同時に近隣の農民の子供たちに無料で授業をしていたことに感動した、という学生が多かったことです。最近の若者は自己中心的だと言われることが多いのですが、彼らはこの、自己中心から最も遠いマリーの行動を賞賛したのです。そんな暇があるなら、ソルボンヌ大学の入学準備をすればいいのに、マリア・スクォドフスカは貴重な自由時間を割いて、未来のポーランド市民を育成する一翼を担いました。これは、自分と社会がつながっているという確信がなければできない行為です。「そんな行動ができるマリーがうらやましい」と感じた学生たちは、他者との前向きなつながりを強く求めているのだと実感しました。これは私が予想もしなかった反応でしたが、同時にうれしいことでした。
 本書の執筆中にもうひとつうれしいことがありました。なんとマリー・キュリーの孫娘であるエレーヌ・ランジュヴァン=ジョリオ夫人と会うことができたのです。二〇〇九年は奇しくも湯浅年子生誕百年にあたる年で、湯浅の母校お茶の水女子大学で記念のシンポジウムが開かれ、ランジュヴァン=ジョリオ夫人が招待されました。主催者のお茶の水女子大学ジェンダー研究所の舘かおる先生のご厚意で、私は池袋のホテルで夫人のインタビューを行いました。
 イレーヌ・ジョリオ=キュリーが祖父ウージェーヌの影響で、生涯教会と名のつく建物には足を踏み入れなかった、という驚愕のエピソードを聞いたのもこの時です。ウージェーヌは合理主義者を自任していたのですが、この話から、西洋の合理主義の後ろには「反教会」「反宗教」という思想が抜きがたく存在しているのだということを、心の底から実感しました。十七世紀には神の存在証明でもあった近代科学が、まさに啓蒙時代を経てそのイメージを変化させ、イレーヌのような科学者には、むしろそれに反するものとして捉えられていたのでしょう。しかし、イレーヌのこの徹底した姿勢は、本書でも述べた、パンテオンを非宗教墓地としたフランス革命の、あの「狂信的」とも言える「反キリスト教」の姿勢に通じるものです。ここまでの断固たる態度は、日本人である私には、本当の意味ではなかなか理解し難いところです。ふと、湯浅年子は、こんなフランス人科学者たちとの付き合いの中で、異邦人としての孤独と、そこから来る開放感を感じて生きていたのだろうかと思ったりしました。

 しかし私が一番びっくりしたのは、ランジュヴァン=ジョリオ夫人が、第二派フェミニズムのあとのマリー・キュリーの伝記、特にアメリカ人フェミニストのスーザン・クインの『マリー・キュリー』に対して、好い印象を持っていないことでした。第一の理由は、やはり身内としてはランジュヴァン事件にあまり触れてほしくないのでしょう。彼女の義理の祖父はポール・ランジュヴァンその人なのですから。しかし第二の理由は、セクシュアリティや家族といった私的領域を問題にした第二波フェミニズムの手法が、彼女にはなかなか受け入れられないということにあるようです。
 彼女や母のイレーヌは、第一派フェミニズムの世代の働く女性です。ふたりとも男に伍して働いてきた科学者であり、女性の市民としての権利獲得には何の疑問も抱いていません。けれども、私的領域に立ち入ることは、やはりこの世代の人には難しいようです。「個人的なことは政治的である」というスローガンは、これだけのキャリアの女性にとっても、いやむしろ彼女たちが成功した女性であるだけに、なかなか受け入れられないのかもしれません。しかしランジュヴァン=ジョリオ夫人が気に入るようなマリーの伝記は、やはり今となっては「危険」な伝記です。それは子供だった私が、「キュリー夫人よりアインシュタインの方がかっこいい」と思ったことに通じるジェンダー問題だからです。

 私がアインシュタインに惹かれた理由は、先にも述べましたが、自分が彼と同様に、科学が人間社会のわずらわしさから逃れさせてくれ、自分と過去との無関係性、あるいは自分の人間としての完全な自由を保障してくれるものと考えていたからです。しかしそれだけではありません。アインシュタインは、女性との関係(当時はもちろん知りませんでしたが)を除いても、話題に事欠きません。裸足に革靴でアメリカ市民の宣誓をしたといったエピソードは、私にはとても魅力的でした。けれどもアインシュタインの破天荒ぶり、そしてそれを肯定的に見る世間のまなざしは、彼が男性であるということに深く関係しているのです。もしマリー・キュリーが同様の変人ぶりを披露したら、世間は彼女を受け入れたでしょうか。

 かつて三流雑誌がすっぱ抜いたマリーの手紙、彼女がランジュヴァンにあてた手紙は、その文体があまりにも「科学的」だといって批判されました。もしそれが感情的な手紙だったら、あるいはユーモアのある手紙だったら、今度は「軽薄だ」として、やはり叩かれたでしょう。マリーの科学者としての素質も疑われたかもしれません。見た目の権利だけが保障されたとしても、世間が女に許す行動様式は、男と同じではないのです。

 ましてやマリー・キュリーの生きた時代には、この差は現代よりずっと大きなものでした。男の領域とされていた科学を、自らの職業として選んだ彼女を人間として描き出すには、その分析の対象を私的領域にまで広げた、第二波フェミニズムの視点なくしては不可能です。「もし日本語が読めたら、やっぱり私の本も気に入らないかな」と思いつつ、それでも私にとって、ランジュヴァン=ジョリオ夫人との会見は、楽しくかつ貴重なものでした。

 貴重といえば、お茶の水女子大学が保管している湯浅年子の遺品に直接ふれたこともまた、貴重な体験でした。年子は、「ジョリオ先生」のところにはじめて招かれたときに着ていた着物を、戦後も大切に保管し、それはいまでも少しも傷んでいません。黒地に緋の裏地、裾模様と可憐な桜、すずらんの刺繍のついた三つ紋の訪問着です。湯浅より少し時代はあとになるのですが、私の母の世代の女性たちに聞くと、皆口をそろえて「それは正装に近い格の着物で、それを着ることで、その女性は先生への最大級の敬意を表したのだろう」と言います。当時少女だったランジュヴァン=ジョリオ夫人が、今でも鮮明に覚えているというその美しい着物からは、それを荷造りしながら、もうすぐフランスに行けるのだと東京で胸をときめかせていた年子の希望と、彼女が生涯持ち続けた日本文化の美意識が伝わってきます。

 十八世紀フランスの科学史を専門にする私のような研究者は、当然ですが現存する関係者に会うことはありません。あるいはその人を知っている人にも会えません。ですから、マリー・キュリーについての本を書くことで、普段とは違う経験をすることができました。山田光男氏やランジュヴァン=ジョリオ夫人はもちろんですが、舘先生はじめこの人たちに会えるように仲介してくれた方々、パリのキュリー博物館の職員の方々、放射能についていろいろと教えて下さった日本アイソトープ協会の会員の方など、本書の完成にあたって、本当に多くの方々の助力をいただきました。一人ひとりのお名前は挙げられませんが、心より感謝申し上げます。また、アンネ・フランクやローラ・インガルスをはじめとする、少女時代の「心の友」も、私を激励してくれました。彼女たちが「いい本ね」と言ってくれるものになっていれば幸いです。

 二〇〇九年十二月  著者 




[参考文献]
本文で引用、言及したものを中心に、発展的な読書に資するものを加えた。
『キュリー夫人伝』エーヴ・キュリー、河野万里子訳、白水社、2006年
「自伝」マリー・キュリー、木村彰一訳(『世界ノンフィクション全集/8』中野好夫他編、筑摩書房、1960年、所収)
「わが母マリー・キュリーの思い出」イレーヌ・ジョリオ=キュリー、内山敏訳(『世界ノンフィクション全集/8』中野好夫他編、筑摩書房、1960年、所収)
『母娘の手紙』マリー&イレーヌ・キュリー、西川裕子訳、人文書院、1975年
『キュリー夫人の素顔』上・下、ロバート・リード、木村絹子訳、共立出版、1975年
『マリー・キュリー』フランソワーズ・ジルー、山口昌子訳、新潮社、1984年
『キュリー夫人/伝記 世界を変えた人々1』ビバリー・バーチ、乾侑美子訳、偕成社、1991年
『マリー・キュリー』1・2、スーザン・クイン、田中京子訳、みすず書房、1999年
『ピエール・キュリー伝』マリー・キュリー、渡辺慧訳、白水社、1959年
『マリー・キュリーが考えたこと』高木仁三郎、岩波ジュニア新書、1992年
『マリー・キュリー』桜井邦朋、地人書館、1995年
『科学者キュリー』セアラ・ドライ、増田珠子、青土社、2005年
『マリー・キュリー─フラスコの中の闇と光』バーバラ・ゴールドスミス、竹内喜訳、小川真理子監修、WAVE出版、2007年
『マリー・キュリー─新しい自然の力の発見』ナオミ・パサコフ、西田美緒子訳、大月書店、2007年

『二人のアインシュタイン─ミレヴァの愛と生涯』デサンカ・トルブホヴィッチ=キュリッチ、田村雲供・伊藤典子訳、工作舎、1995年
『アインシュタイン 愛の手紙』アルバート・アインシュタイン&ミレヴァ・マリッチ、大貫昌子訳、岩波書店、1993年
『リーゼ・マイトナー─嵐の時代を生き抜いた女性科学者』R.L.サイム、鈴木淑美訳、米沢富美子監修、シュプリンガー・フェアラーク東京、2004年

『パリ随想』全3冊、湯浅年子、みすず書房、1973年、1977年、1980年
『湯浅年子 パリに生きて』湯浅年子、山崎美和恵編、みすず書房、1995年
『パリに生きた科学者 湯浅年子』山崎美和恵、岩波ジュニア新書、2002年

『科学者とは何か』村上陽一郎、新潮社、1994年
『二十世紀を変えた女たち』安達正勝、白水社、2000年
『科学する心─日本の女性科学者たち』岩男壽美子・原ひろ子、日刊工業新聞社、2007年
『神の火を制御せよ─原爆を作った人びと』パール・バック、丸田浩監修・小林政子訳、径書房、2007年

*詳細な参考文献については「川島慶子のホームページ」を参照されたい。



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