[トップ] [書籍一覧] [購入方法] [おすすめ書店] [PR誌トランスビュー] [ご意見板]
更新:2009/8/31

河合隼雄心理療法家の誕生表紙画像 河合隼雄 心理療法家の誕生

大塚信一[著]
46判上製・349頁・定価2940円(税込)/2009年5月刊行/ISBN:978-4-901510-75-2

この見事な半生をアレンジしたものは誰か?
生まれ育った丹波篠山から、アメリカ・UCLA、さらにはチューリッヒ・ユング研究所へ。日本人初のユング派資格を持つ分析家が誕生するまでを、ともに物語をつむいだ編集者が活きいきと描く。

[著者]大塚 信一(オオツカ ノブカズ)
1939年、東京に生まれる。63年、国際基督教大学卒業。同年、株式会社岩波書店入社。雑誌『思想』編集部をスタートに、岩波新書(青版・黄版)、「岩波現代選書」「叢書・文化の現在」「新講座・哲学」「河合隼雄著作集」など数々のシリーズ・講座・著作集を世に送る。また84年、編集長として季刊誌『へるめす』(編集同人:磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男)を創刊、学問・芸術・社会にわたる知の組み換えと創造を図る。97年〜2003年、代表取締役社長。現在、つくば伝統民家研究会(古民家再生コンサルティング、古材等販売)代表、社会福祉法人日本点字図書館理事、東アジア出版人会議理事。著書に『理想の出版を求めて‐一編集者の回想1963-2003』『山口昌男の手紙−文化人類学者と編集者の四十年』『哲学者・中村雄二郎の仕事−<道化的モラリスト>の生き方と冒険 』(いずれもトランスビュー)がある。

ごちゅうもん お問合せ 電子書籍で「たちよみ」

*送料無料キャンペーン中!詳細は[購入方法]をご覧下さい。
*お問合せ、ご感想などもお気軽にお寄せ下さい。


こちらもオススメ
哲学者・中村雄二郎の仕事 <道化的モラリスト>の生き方と冒険 大塚信一[著]
山口昌男の手紙 文化人類学者と編集者の四十年 大塚信一[著]
理想の出版を求めて 一編集者の回想1963-2003 大塚信一[著]

書評・紹介記事など


関連情報リンク
河合隼雄公式サイト 河合隼雄その人と仕事

目次
序章 物語のはじまり
1 ある新書の依頼
2 的中した戦略

第一章 丹波篠山に生まれて
1 両親の人となりと弟の死
2 篠山、少年たちの宇宙
3 中学時代の本との出会い
4 陸軍士官学校を断り神戸工専へ
5 京大数学科のころ
6 ロマン主義、フロイト、漱石
7 高校教師志望と元祖「河合塾」

第二章 心理学者への道
1 立身出世主義でなく
2 教師兼大学院生
3 ロールシャッハ・テストから臨床心理学へ
4 ロジャーズのカウンセリング
5 アメリカ留学の決心
6 「ロールシャッハの鬼」
7 演劇と音楽を楽しむ

第三章 アメリカの体験
1 英語の特訓
2 クロッパーの背後にユングがいる
3 分析料は一ドル
4 奇跡的な道筋
5 リサーチ・アシスタントとして
6 現象学的方法
7 シンクロニシティの考え方
8 カルチャー・ショック
9 異文化理解の重要性

第四章 ユング研究所の日々
1 家一軒分の旅費
2 スイスの田舎暮らし
3 マイヤー先生の言葉
4 フォン・フランツの昔話の講義
5 精神分析の風土
6 ヴァン・デル・ポストの小説
7 スーパーバイザーにつく
8 知識の伝授ではない
9 さまざまなクライアント
10 ニジンスキー夫人に日本語を教える
11 ディールスドルフ村の「ペンション河合」
12 大きな影響を受けた本

第五章 西欧と日本―神話研究に向けて
1 日本神話を英語で書く
2 アマテラスの誕生とスサノヲの追放
3 世界の始まりとイザナギの魔術的逃走
4 スサノヲの冒険
5 「太陽の女神」の比較神話学
6 トライアッドの構造と「太陽と月」
7 男性と女性
8 女性性の探求
9 対決と妥協
10 四十年の熟成

終 章 新たな物語のはじまり
1 箱庭療法の紹介
2 口頭試問の波瀾
3 生き方のレベルの体験
4 心理療法の核心
5 約束を実行する

あとがき

人名索引


本文より
序章 物語のはじまり序章

 1 ある新書の依頼

 今、私は一冊の岩波新書(青版)を手にしている。河合隼雄氏著の『コンプレックス』である。奥付を見ると、一九七一年一二月二〇日第一刷発行、二〇〇八年五月一五日第五八刷発行となっている。
 この新書の執筆依頼のために、一九七〇(昭和四十五)年の初秋の頃だと思うが、京都駅前のあるホテルで会ったのが、河合氏との最初の出会いであった。私は河合氏の『ユング心理学入門』(培風館、一九六七年)を読んで興味を抱き、氏にユングの思想について、岩波新書で一冊書いてもらいたいと思ったのである。その時私は、新書編集部に異動して二年目の駆け出し編集部員であった。

 当時、私はフロイトや、その展開としてのフロイト左派の人々の仕事に興味を持っていた。特にE・フロムの『自由からの逃走』などには大きな影響を受けたと思う。二十世紀の最大の蛮行とも言うべきナチズムの台頭の原因を、フロムは、当時のドイツにおける下層中産階級の抑圧された心理状況の中に探っていた。またマルクーゼなどの、フランクフルト研究所関係の思想家にも惹かれるところがあった。彼らは現代社会の分析に、フロイトの心理的抑圧という考え方を援用していて、それは当時まだ力を持っていたマルクス主義の欠を補うもののように思えたからである。

 と同時に、私には彼らフロイト左派の思想家たちには、共通するある考え方が存在するように思えたのでもある。それは一口で言ってしまえば、フロイトの言うリビドー恒常説を否定する考えであった。フロイトは、性的エネルギーを昇華させることによって、芸術や学問は誕生する、と考えているように思われるのに対して、彼らは性的エネルギーは無限である、だからそれを抑える必要はない、と言っているように、私には思えるのであった。後にライヒの本を読んで、その極端さに反撥を覚えるということはあったが、基本的には長い間同様の考えを私は持っていた。そしてやがて、ユングのリビドーに対する考え方を知り、フロイト派の考え方には限界があると思うようになるのだが、それは少し先のこと。

 それはともかく、当時の日本社会では、フロイトはそれなりに知られていたものの、ユングはほとんど知られていなかった。私は河合氏の『ユング心理学入門』を読んで、初めてユング思想の概略を知ることができた。しかし、ユングの思想をかじればかじるほど、当時の知的状況との懸隔の甚だしさを感じないわけにはいかなかったのである。つまり、マルクス主義の正統性は未だ失われておらず、その間間隙を縫うかの如く、マックス・ウェーバーが論じられ、他方でアメリカの行動主義的な考え方が導入され始めようとしていた日本の思想状況にあって、ユングの思想がそう簡単に受容されるとは思えなかったのだ。

 しかし、私自身、七〇年代の初頭に何をやっていたかと言えば、高橋巌氏の著作によって知った、ドイツの神智学者ルドルフ・シュタイナーの読書会に参加したりしていたのである。カンディンスキーやパウル・クレーをはじめ、多くのヨーロッパの芸術家に影響を与えているシュタイナーの『神智学』を、高橋巌氏の指導を受けながら読んでいくと、そこには正統的なヨーロッパの思想史と並んで、もう一つの思想史とも言うべき思想の流れが、脈々として存在するのを感じないではいられなかった。そしてユングは、明らかにこの思想の流れの中に、位置づけられるもののように思われた。

 そこで私は、一計を案じることになる。当時、競合する他社の新書もほとんどなく、初刷三万―四万部という典型的な啓蒙書のシリーズである岩波新書で、ユングの思想をあまり抵抗を受けずに世に広めるのには、どうしたらよいか。その答えとして、河合氏に「コンプレックス」というタイトルで新書を書いてもらう、という案を考え出したのであった。

 コンプレックスという言葉は、日常的に用いられている。しかし実は、この言葉はユングによって創られ、ユングの思想の基本的なあり方を示すものでもある。とすれば、この言葉を解説することを通して、ユング思想の全体像を表現することが可能ではないか。
 このように考えて、私は天理大学に在籍していた河合氏に、「一度お目にかからせていただきたいのですが……」と手紙を書いた。その結果実現したのが、京都駅前のホテルでの会見であった。・・・・




第一章 丹波篠山に生まれて


 1 両親の人となりと弟の死

 河合氏の父方の家系は、代々、篠山から少し離れた口坂本という所の大きな庄屋であった。父秀雄は次男だったので、検事(『未来への記憶』では弁護士となっているが誤り)の資格を取るべく京都に出る。河合氏によれば、その時秀雄は、「おれは一生白いメシを食える人間になる」と言って憤然として家出した(以下特に断わりのない場合、引用は『未来への記憶』による)。当時の習慣では長男だけが大切にされ、次男以下は差別されていたからである。しかし、勉強を続けていくうちに、どうも検事は自分の性に合わないのではないかと思い始める。それで変更して、今度は歯医者への道を目指すことになる。京都の歯科医の書生となって勉強し、資格を取得した。当時は検定試験に通れば、歯科医の資格を取れたようだ。

 資格を得たので秀雄は、まず歯科医の見習いとして、奈良県の松山(現・大宇陀町)というところに行く。そこで歯科医の修業をしている時に、母静子(戸籍名とは違うようだが、皆このように呼んでいた)と出会う。静子の出身地は奈良県吉野郡吉野村滝野で、家は林業を営んでいた。生家は「山峡にある十数軒の小さな村落の中の、みごとな吉野杉に囲まれた古い屋敷だ」った(河合雅雄『少年動物誌』福音館、一九五七年)。山奥のこの村から、静子は奈良の師範学校に行った。そして卒業すると、同じく師範学校を卒業して教師をしていた兄を頼って、松山に赴任することになる。たまたま歯の治療に行って知り合った秀雄を、「信頼できる青年」と見込んだ兄は、「妹と結婚させたいというんで申し込んだ」。

 当時、静子は、「スカートをはいて、テニスをしたり、ヴァイオリンを弾いたりしていた」「ハイカラなモダンガール」だった。しかし年齢的には静子の方が、秀雄より四歳年上だった。婚約中に秀雄は、東京歯科医専(歯科医学専門学校)で一年間勉強し、研鑽を積む。その後、結婚して、丹波の篠山で歯科医を開業する。
 河合氏は両親の結婚について、次のように言う。「だから、今でいえば国際結婚みたいなものですね。また、母親も丹波篠山へまでよう行きましたよ、教師をやめて行李ひとつの親父のところへ。柳行李ってあるでしょう。金もなにもないのに。ところが、歯科医を開業したらものすごく流行って、それで経済的に安定した」。

 このような経歴を見ると、河合氏の両親は「独立独歩の精神の持ち主」であることが、よく分かる。そして「うちの親父がしょっちゅう言っていたのは、自分は絶対に子どもたちを区別しない、長男から下まで全部同じだ、と。長男との差別を経験していますからね」。・・・・





第二章 心理学者への道

 1 立身出世主義でなく 本章では、河合氏が心理学者になるまでの軌跡を明らかにするつもりである。が、その前にどうしても言及しておきたいことがある。

 二〇〇八年五月末、私は思い立って丹波篠山を訪ねることにした。現在、長年住み慣れた犬山市から故郷の篠山に戻って居を構えておられる河合雅雄氏に、面識もないのにご教示いただきたいことがあるのですが″と連絡を差し上げたところ、ぜひ拙宅にお立ち寄り下さい″との返事を頂戴した。

 ご好意に甘えてお訪ねしたところ、雅雄氏ご夫妻はさまざまなことをご教示下さっただけでなく、篠山の町や城跡を案内して下さり、果ては隼雄氏の生まれた家で、篠山在住の隼雄氏のご兄弟、仁、迪雄両氏に引き合わせて下さった。そして仁氏夫人のご案内で、大きな家中を隈なく見て回ることができた。

 新館がそれを囲むように建てられている築山と池。その池は、前章で引用した「蛇わたり」の背景である。二階の子供部屋からは、権現山が見える。
 二階の「洋館」には、今でも小さなオルガンが置かれている。このオルガンの回りに集まって、母親の伴奏で兄弟たちはいろいろな曲を合唱したのだった。
 オルガンの横にある窓から、外にある大きな柿の木を伝って、雅雄少年は二階の屋根に登ったらしい。迪雄氏は、いくら雅雄兄さんでも、あれは危なかったよ″と言い、雅雄氏は苦笑した。

 そのような八十歳を越えた兄弟のやりとりを聞いていて、私は隼雄氏が語った家族の情景を、あれこれと思い出さずにはいられなかった。それらの多くは前章で紹介してある。ここでは雅雄氏の証言を聞いておこう(「隼雄の思い出」)。
 
 両親が生きてる間はもちろんのこと、その後も長兄の仁が跡を継いだ本家に、隼雄はよく帰ってきた。できるだけ兄弟が集って、飲食を共にし、話に興じ、子どもの時のエピソードを語り、冗談音楽を奏でて笑いころげた。妻たちは、初め「男の子ってこんなに笑うのか」と異様な感じを持ったと言うが、そのうち笑いの渦に巻きこまれていった。

 私は六人兄弟の三男、隼雄は五男で、隼雄とは四つ違い、私は早生まれなので学年は五つ違っている。男ばかり六人だが、兄弟喧嘩をした覚えはほとんどない。殴りあいの喧嘩は一度もない。それぞれ性格は非常に異なっているのに、どうしてこんなに仲がよかったのかわからない。親の育て方が上手だったのだろう。大人になってからも、お互いが開けっぴろげで本音で話をし、人生の支えを見出すことができた。
 
 雅雄氏の言うとおり、ご両親の育て方が上手だったのだろう。それはそのとおりだと思う。しかしそれと同時に、私は河合家の家族のあり方に、近代日本の光景のなかではめったに見ることのできない一つの特質を、強く感じないではいられないのだ。

 それは、立身出世主義的ではない、自足した家族のあり方″と言うことが可能かも知れない。
 明治維新以来、日本という国を良くも悪くも支えてきたのが、かつて神島二郎氏が言ったように、立身出世″という考え方であった。地方から東京や大阪という大都会に出てきた青年たちは、そこで身を立て、故郷に錦を飾るのが夢だった。末は大臣か、大将か―中央にある高等教育機関も、このような考え方によってランク付けされた。とすれば、少しでもランクの高い学校に入らなければならない。そして、自らの立身出世は、とりも直さず日本という国の力を増強することに他ならない、と考えられた。

 したがって、故郷は、そこから中央に出て行く出発点としての意味しか持っていない。成功した人の場合には、帰郷する頻度が高くなるかも知れない。しかし、故郷に帰って再び家族と生活することはほとんどなかった、と言えるだろう。なぜなら、出世した人のレベルは故郷のレベルより、立身の度合いが高ければ高いほど、異なったものになってしまうからだ。
 しかし、河合家の場合は違っていた。両親がそうであったように、篠山という場所において自足していた。篠山という町自体が自足したところだった。何よりも、両親と兄弟たちだけで十分に自足した家族だった。それは経済的な自足だけではなく、精神的・文化的な自足でもあったはずである。

 兄弟たちで遊んだり、本を読んだり、合唱や合奏をしたり、議論したりすることができた。だからこそ、これから見るように、雅雄氏が犬山の研究センターに行くか行かないかで、大変な議論になったのだった。事実、兄弟の半分は、故郷の町で医者や歯科医として過ごすことに誇りを抱いていた。
 兄弟のうち三人が京都大学に進んだが、隼雄氏の場合はこれから見るように、高校の教師になって嬉しくて仕方がなかった。両親や兄弟も喜んでくれた。雅雄氏は後に、日本が世界に誇るべき霊長類学の先達と目されるようになったが、その学問の方法が実に独特のものである如く、いわゆる立身出世の世界とは異なる場での、活躍であった。若くして逝った末弟の逸雄氏も、京大助教授の肩書きを投げうって専門の癲癇研究のために尽くした医学者だった。

 つまり、兄弟のうち誰一人として、官僚や企業家になり立身出世を目指した人はいなかったのである。
 このように見てくるならば、河合兄弟はやはり、近代日本の社会では稀有な存在であった、と言えるだろう。そしてこのことが、後の河合氏の仕事を支える大きな原点であり、エネルギー源であったとも思うのだ。・・・・





第三章 アメリカ体験

 1 英語の特訓

 一九五八(昭和三十三)年にアメリカ留学が決まったので、河合氏は翌年の出発に向けて準備を始めた。六〇年に発効する「日米相互協力および安全保障条約」(新安保条約)に対する賛否の激しい動きが国内に充満しようとしていた矢先に、アメリカ行きを決意した河合氏の気持ちはどんなものであったろう。おまけに当時の為替レートは、一ドル=三六〇円だったし、円の海外への持ち出しには限度があった。

 河合氏は、次のように冗談めかして言っているが、実際には大変だったと思う。「交通公社の人がきて「先生、ドルはお持ちですか」言うから、「うーん、ぼくは円[縁]がないんやけど」と言ったら、「それは当社ではどうもいたしかねます」と言われた」。

 雅雄氏の話によれば、アメリカ留学がきまってから、その資金獲得のために母親が奔走したという。
 当時、フルブライトの試験に受かった人たちは、ほとんどの人が船で太平洋を渡った。ところが、どうしたわけか、河合氏ともう一人の二人だけが飛行機で行くことになった。それで河合氏は、生まれて初めて飛行機に乗った、プロペラの付いた飛行機に。

 アメリカ本土に入る前に、ハワイで六週間のオリエンテーションが組まれていたのだが、当時の飛行機はハワイに直行することができずに、ウェーク島で給油しなければならなかった。「ウェーク島に降りるときはまさに敵前上陸という感じでしたよ。というのは、前に言ったように私は英語ができないでしょう。それで試験に受かっているわけだからもう大変でね、なんともいえんかったですよ」。

 ウェーク島に降りて、朝食を食べることになった。英語のできそうな日本人がいたので、河合氏はその人の後について行った。ウェイターが彼に何か言うと、「オー、イエス」とその人は答えた。河合氏も同様に「イエス」と言ったのだが、実は何のことだか分からなかったので、その人に、ウェイターは何と言ったのかたずねた。すると、「いや、わたしもわかりませんでした」と答えた。それで河合氏は「すごく安心したですね、なるほど、こんなものかってね」。結局、ウェーク島では朝食を食べただけだった。

 このような状況だったので、ハワイでの六週間のオリエンテーションは、非常に役に立った。その六週間のあいだに、アメリカの大学ではどういうことを習うのかを教えられたり、英語の訓練を受ける。
 例えば、速読の練習は、次のように行なわれた。まず、『リーダーズ・ダイジェスト』のようなものをあてがわれて、「できるだけ速く読みなさい」と言われる。「読んだあと〇×テストをやって、そして九〇点とったら、九〇点の人はもっと速う読めるはずだというんですよ。つまり一〇〇点とらなくてええから、八〇点でええから、もっと速く読め、速く読めってやるんです。そうするとだんだん速く読めるようになるんですね。/いまでも覚えていますけど、ハワイへ行った当初、ぼくは一〇分間に二三〇語だったかでしたが、後には六〇〇語ぐらいまでいったんです」。
 具体的に言うと、例えば“in the morning”を「イン・ザ・モーニング」と読むのではなく、「インザモーニング」と一つのまとまりとして見るのだ。そうすると速く読めるようになる。

 発音に関しても、教わることが多かったという。例えば、単語について言えば、アクセントがついているところの母音だけ強調し、あとは全部半母音にする、ということなど。「ぼくはなんでもカタカナ読みをして、たとえば「ビ、ハ、イ、ン、ド、」(“behind”)とかやっているでしょう。それは「バハインド」―「ハイン」とやって、「ビ」は半母音で「バ」に近くなるわけですね。てなことを系統的に習った」。
 その他、本の読み方、レポートの書き方、英作文、などを習った。アメリカの歴史もあった。
 オリエンテーションを受けたなかで、日本人は二人だけだった。他に韓国、インドネシア、タイ、ビルマ、それに沖縄(当時はまだ日本に復帰していなかった)の人たちがいた。教える側のアメリカ人は、日本人はどういうことが苦手か、ちゃんと研究していて、例えば発音については、「sとthの差とか、lとrの差とかいうのを日本人は徹底的にやられる。そういう点でアメリカ人の教え方は非常にうまかった。ぼくはあのときに習った英語の教育はすばらしかったと思いますよ」と河合氏は言う。・・・・




第四章 ユング研究所の日々

 1 家一軒分の旅費


 アメリカから帰って、河合氏は再び天理大学に戻った。一九六二(昭和三十七)年にスイスに向けて出発するまでの一年間、セラピーも研究もした河合氏だったが、他人の夢の分析をすることはなかった。シュピーゲルマンによる分析を体験してはいたが、まだ十分に自信が持てなかったからだという。
 しかし、「おもしろいのは、ふつうにカウンセリングしている場でも、前よりも理解が深まっているっていう感じがしましたね」。ロールシャッハも、カウンセリングもしたが、以前に比して格段によく分かるようになっていたのだ。
 一方、スイスに行くための準備を、いろいろとしなければならなかった。ドイツ語を勉強したり、アメリカで仕入れてきたユングの本を読んだりした。

 ところで今回、いちばん大変な準備は、家族全員で三年間もスイスで過ごすためのものであった。UCLAでは、基本的に大学院生という立場で過ごしたのだが、ユング研究所の場合はまったく違う。そして研究所からは、必ず家族と一緒に来るように、と言われていた。なぜかと言うと、「分析を受けて、いろんな体験をするなかで、家族との関係、家族をどうするかということをやっていかないと、人間的に成長しませんからね。だから、家族といることが大事だから、家族と一緒に来なかったら意味がないといわれたし、行くことになったんです」(『深層意識への道』)。

 だから河合夫妻は、「スイスでなにも買わなくてもいいように、着るものなんかは完全にこちらでそろえたりし」たという。兄弟は皆大賛成で、「それこそやりたいことをやれと。それで、もし金に困ったら援助してやると言ってくれました。みんな医者ですからね。しかし、援助してもらうのはスイスから帰ってからのことです。土地を買ったり家を買ったりするときにね。スイスへ行くときはあまり頼ることはありませんでした」。
 とは言え、最大の難問は航空運賃の高額なことだった。滞在費は研究所の方で出してくれることになっていたが、旅費は自分で工面しなければならない。当時、スイスまでの飛行機代がどれほどのものであったかと言うと、家族全員の旅費で「奈良の学園前の土地付きの家が一軒買えたんですよ」。

 だから、河合氏に向かって真剣に「スイスなんかに行くな」と注告してくれる人が何人もいた。ある先生は「おまえはもうアメリカへ一年半も行ってきたんだ。しばらく待っていたら京大に移れるだろう。それをいまから三年もスイスに行ったら日本に戻ってきたとき、もうどうなるかわからない。それよりも土地付きの家を買うて日本におるほうが賢明じゃないか」という内容のことを言った。

 しかし、河合氏の気持ちはまったく動かなかった。アメリカで、クロッパーやシュピーゲルマンをはじめ、さまざまな心理療法家を見ているので、「世界的にみれば、自分のレベルは低いということがはっきりわかっています。世界的にみても、この人間は臨床心理学をやっていて大丈夫、と言えるような人間になろうと思うと、行かざるを得ない」(『深層意識への道』)と考えていたからである。

 当時、ユング研究所に留学すると友人に話すと、ユング研究所なんて聞いたこともないので、本式に勉強するのはいいね、といった程度の反応しか返ってこなかった。「しかし、専門に心理療法をやっている人たちは、まあ、日本人でも一人ぐらい資格をとってくればいいなという、そういう感じでした。だから、そういう人たちの期待は強かったですよ、とくに若い人たちはね」。
 幸いに、天理大学では、もちろん給料はもらえなかったが、三年後に帰ってきたらまた勤めてもいい、と言ってくれた。ただし、休職期間が終わって復帰した場合には、何年間か天理大学にいることが条件であった。

 それでいよいよ、スイスに向けて出発することになった。出発に当たって河合氏は、ユング研究所での資格取得の最低年限である三年で、資格を持って帰ろうと心に決めたのであった。「三年間も日本を離れるなんて、その頃のことですから、ほんとにすごい覚悟だったんです。しかも、家族連れでスイスに行くなんて、当時は大変でしょう。だからいっぱい親類が見送りにきましたよ、出征兵士を送る感じでね」。
 ユングは、河合氏が出発する一年前の一九六一年に死んでいた。だから河合氏は、ユング自身に会うことはできなかった。それは残念なことであったが、ユングの逝去によって「ユング派全体が自由になった」のでかえってよかった、という人もいないではなかった。


2 スイスの田舎暮らし


 スイスに着いて、河合氏はユング研究所に出向いた。研究所といっても、ごくふつうの民家で、講義室と面接用の部屋があるだけの小規模なものだ。その横に女学校があるのだが、後に研究所を訪ねてきた日本人は、初めはみんなそっちへ行ってしまった。おまけに先生は誰もいない。みんな分析家として開業しているので、講義があるときだけやってくるのだ。
 だから、「初めはびっくりしました。「これか?」と思った。おまけに看板も小さいのがかかっているだけです」。河合氏が・・・・




第五章 西欧と日本―神話研究に向けて―

 1 日本神話を英語で書く


 いよいよ資格論文を書くことになった河合氏は、そのテーマに日本の神話を選ぼうと思い始めた。とは言え、その当時は、河合氏自身のうちに、強い抵抗があった。なぜなら前に見たように、河合氏は軍隊に対して否定的で、ひいては日本の神話そのものに対しても、抵抗を感じずにはいられなかったからである。にもかかわらず、夢のなかではどうしても日本神話がテーマになってくるのだった。

 それであれこれと日本神話を読んだ。そのなかで、河合氏がもっとも親近感を感じたのがスサノヲだった。スサノヲは、反体制的でとんでもない悪事を働いたりして、破壊的な存在であるが、場合によっては、新しい秩序の創造にも関わるような存在である。つまりトリックスターなのだ。
 そこで、河合氏は「スサノヲをエジプト神話のセトとか、北欧神話のオーディン(ウォータン)とかロキとかと比べるとおもしろいなどと考えて、世界の神話をいっぱい読」んだ。

 そして、夢分析の経過のなかで、マイヤー先生に対して、河合氏はとうとう次のように言うことになる。日本神話については抵抗を感じざるを得ないのだが、「こうなったらもう日本の神話で論文を書くよりしかたないんじゃないかと思う」と。するとマイヤー先生は、「日本人が日本の神話で論文を書くのはあたりまえじゃないか」と答えた。さらに先生は「ケレーニイに会え」と言った。

 カール・ケレーニイは有名な神話学者だが、河合氏はもちろん会ったことはなかった。マイヤー先生はケレーニイの親しい友人らしいが、河合氏にとってはケレーニイと言えば大先生である。「そんな、ぼくが会うなんて……」と河合氏は驚いてしまった。
 しかしマイヤーはそんなことには関わりなく、「いまケレーニイと話したけれど、何月何日にチューリッヒの中央図書館の閲覧室に行ったら、ケレーニイがいるから会え」と言う。河合氏が「そんな……、だいたいケレーニイには一度も会うたことがない」と言うと、先生は「いや、行ったらすぐわかるよ」「閲覧室に入ったらすぐケレーニイだとわかる、なんともいえない人物だから」と答えた。

「それでぼくはケレーニイに会いに行ったんです。そうしたら、たしかにマイヤーの言ったとおりだった。やっぱりオーラかなんかがあって、普通とはちょっとちがうおっさんがいました。背は低かったけれどもね。/もうそのときはだいぶ年でした。それですごい白髪でね。入って行って「河合です」と言ってパッと見たときに、ほんとにリスみたいな目をしている人やと思いました。クリクリッとした目で、すごく輝いた顔をしていました」。

 二人は中央図書館の近くにある喫茶店に入った。ケレーニイが何語で話そうかと聞いたので、河合氏は英語でと答えたのだが、ケレーニイは「まあ、しゃべれないこともないが」と言うので、ドイツ語で話すことになった。ケレーニイのドイツ語による第一声は、「どんな夢があなたをここに導いてきたか」というものだった。

 びっくりした河合氏は、自分の見た夢のことを語り、なぜ日本神話を資格論文の対象に選んだかについて話した。ケレーニイは「ぜひやれ」と言う。そして「ところで、テーマは何にするのか」と質問した。それに対して河合氏は思わず「ゾンネン・ゴッデス」と答えてしまった。スサノヲで書くつもりだったのに、どうしたわけか、「太陽の女神」と答えてしまったのだ。「なぜそういうふうに答えたのか、自分でもわかりません。これもおもしろいことでしょう。ケレーニイの力でしょうか」。

 それを聞いたケレーニイは大喜びで、「それはぜひやったらいい、なぜなら世界のなかで太陽の女神はほとんどいないから」と言った。そして続けて「ギリシアの場合も太陽は男だ。しかし、ギリシア神話では太陽の娘たちという格好で太陽のもつ女性性が描かれている。だから太陽も女性性をもっている。けれども、そういう格好でしか描かれていない。日本の場合は、太陽が女性で、直接的にそのことが語られている。ぜひ書きなさい」と励ましてくれたのだった。

 それで河合氏は、いろいろと勉強したことを含めて、自分のアイデアをしゃべった。例えば、ネイティヴ・アメリカンの神話には太陽の女神が出てくるとか、メキシコの場合はどうだ、といった具合に。ところがケレーニイは突然、「あなたは詩を書くか」と言いだした。河合氏は正直に、「詩はぜんぜんわかりません」と答えた。詩を読むことすら苦手だったのだ。
 それに対してケレーニイは、「文献はあまり読まなくてよろしい。日本の神話を繰り返し繰り返し読みなさい。何度も何度も読んでいたら、あなたの心に自然に詩が生まれてくる。それを書いたら、それが最の論文である」、と言った。

 ケレーニイの著作自体、そういうふうにできている、と河合氏は言う。「だから文献学的には批判されますね。しかし、ケレーニイは自分の詩を書いているわけです。そう考えたら、ケレーニイの文章はようわかります。あれはなんともいえんものですよね」。
 それで河合氏は、資格論文をアマテラスについて書くことに心を決めた。

 しかし、不思議なことに、英語の論文がなかなか書けない。これまでさまざまなレポートを英語で書いてきて、どれもスラスラ書けたのだが。それで河合氏は、なるほどと納得する。つまり、「日本的なことがらを英語にするのは難しいのだ」。とりわけ日本神話の内容を英語にするのは、困難をきわめる作業であったと思われる。

 資格論文“The Figure of the Sun Godess in Japanese Mythology”の構成を見るならば、そのことが如実に分かるはずである。つまり論文は、第一部と第二部から成っているのだが、第一部はアマテラスにまつわる神話を、『古事記』の記述を中心に再構成したものなのである。第二部では、第一部で明らかにされた日本神話について、どのように考えることができるか、まことに大胆な仮説が展開される。そして驚くべきことに、その仮説はほぼ四十年後に刊行されることになる河合氏の主著、『神話と日本人の心』(岩波書店、二〇〇三年)の核心をなすものに他ならないのだ。

 つまり、その後に展開される多様で膨大な河合氏の著作活動の原点が、この資格論文である、と言って過言ではないのである。
 以下、具体的に第二部の内容を検討することを通して、そのことを明らかにしていこう。しかしその前に、第一部を書くことが、どれほど困難な作業であったか、追体験してみようではないか。
 まず、資格論文の第一部の目次を、英文そのままの形で見てみよう(二四八頁)。・・・・




終章 新たな物語のはじまり


 1 箱庭療法の紹介


 最終的な資格試験について述べる前に、ここで帰国して以降、河合氏の仕事の上で大きな意味を持つことになる、箱庭療法との出会いについて記しておこう。

 それは河合氏がユング研究所に留学して、一年ほどたった頃のことだった。河合氏は、当時箱庭療法の個人開業をしているドラ・カルフさんと出会った。
 河合氏は、その著『トポスの知――箱庭療法の世界』(中村雄二郎、明石箱庭療法研究会との共著、TBSブリタニカ、一九八四年)の「箱庭療法と〈私〉」で、その出会いについて書いている。

 それによれば、当時ユング研究所に留学していたアメリカ人の友人に、最初カルフさんを紹介された。カルフさんは大金持ちの夫人で、チューリッヒ郊外のツオリコンという所にある由緒ある家に住んでいた。その入口には、「一四八五」という年代が記されていたと言う。カルフさんは鈴木大拙と親しく、彼から贈られたという棟方志功の涅槃図の版画が壁にかけられていた。彼女はかつてピアニストを目指したこともある人で、メニューヒンや海野義雄氏なども友人だった。

 たまたま、ユングが彼女の別荘の近くに、孫たちを連れて避暑に来たことがあった。孫たちはよくカルフさんの家へ遊びに出かけたが、ある時ユングは、そのことによって子どもたちが大変よい影響を受けることに気がついた。それで二人が最初に会った時、ユングは彼女に、「あなたは子どものための治療者になるべきです」と言った。

 心理学とは全く関係のないカルフさんだったが、ユングの言葉をきっかけにして、いろいろと勉強することになる。その当時、ロンドンの小児科医であるマルグリット・ローエンフェルトが、子どものための心理療法として、“World”あるいは“The World Technique”(世界技法)という方法を考案していた。その頃、子どものための心理療法としては、メラニー・クラインやアンナ・フロイトなどの精神分析理論に基づく「児童分析」が盛んに行なわれていた。しかしローエンフェルトは、その分析の方法があまりにもフロイト理論を当てはめて解釈しすぎる傾向があることを批判し、「解釈や転移なしに治療できる方法として、この箱庭療法を思いついた」と言う。

 カルフさんは、ローエンフェルトのもとに赴き、この技術を学び発展させた。というのは、ローエンフェルト自身は、その後も「モザイク・テスト」などいろいろな技法を発表したが、世界技法そのものを深く発展させることはしなかったからである。そうした経過を経て、カルフさんは箱庭療法の技法を確立し、それを武器に子どものための治療者としてチューリッヒで開業した。そしてユングの直観どおりに、彼女は極めて優秀な箱庭療法の治療者になる。

 河合氏によれば、カルフがローエンフェルトの方法を発展させたこととして、次の二点があると言う。
 一つは、治療者と患者との関係に注目したこと。箱庭をつくるという一見簡単に思えることも、患者自身の内界を開示することであるので、それを行ないうる安定した基盤が必要になる。その基盤となるのが、治療者と患者の関係であり、カルフはそれを「母子一体性」(Mutter-Kind-Einheit)と呼ぶ。そのような関係があってこそ、治療は進む。とすれば、治療者の存在が決定的な役割を占める。
 もう一つは、彼女がユング心理学を用いて、箱庭の表現を象徴的に解釈する道を開拓したことだと言う。ユングの「自己実現」の考え方によって、治療者と患者の間に右に見たような関係が成立すれば、患者の自己実現の過程が促進される。換言すれば、「患者は自分自身による自己実現の力に頼ることによって、みずから治ってゆくものであるということを明確にしたことである」。

 カルフの力によって飛躍的に発展したこの技法は、現在“Sandplay Therapy”として国際的に定着している。
 河合氏はカルフと初対面の折に、彼女の前で箱庭をつくった。それについてカルフさんは簡単なコメントをくれたが、それらは実に興味深く、河合氏にとって考えつづけなければならない課題を与えてくれるようなところがあった。そして「あなたのように木をたくさん使う人は、こちらでは珍しい」と言われた。これは、河合氏の意見では、一般的傾向のようで、日本人は欧米人に比して、はるかに多く植物を用いるという。
 河合氏は箱庭をつくりながら、この技法はとても日本人向きにできていると考えた。日本には「盆栽づくり」の伝統があるし、大人でも子どもでも抵抗なくできるだろうということ。また、ユング派の分析では、イメージやシンボルを重視するが、患者に絵を描いてもらうのは難しい場合が多い。さらに日本人にとって、「言語」よりも、このような非言語的コミュニケーションの方が得意であることが多いので、この技法は日本人に適しているだろう、ということであった。その後、河合氏はしばしばカルフさんを訪れ、箱庭療法の技法を身につける。

 それで河合氏は、一九六五年に帰国して後、さっそく箱庭療法を紹介すべく、在職していた天理大学の教育相談室などで、この療法を使ってみた。その結果、相当に治療効果があがることが分かった。というわけで、河合氏は積極的にセミナーなどを開いて、全国的にこの療法を広めていった。
 そうした活動で得られた成果を、河合氏は『箱庭療法入門』(誠信書房、一九六九年)にまとめた。しかし、箱庭療法が相当広まりを見せたにもかかわらず、河合氏はすぐに学会のようなものをつくろうとはしなかった。なぜなら、日本で「学会」をつくると、特有のヒエラルキーができて、真の発展のさまたげになる、と考えたからであった。学会の代わりに、日本各地で自由な「研究会」がつくられ、活発な活動を行なっているという。

 一九八二年には、カルフさん主催の第一回国際箱庭療法学会がスイスで開かれた。スイスはもちろん、アメリカ、イギリス、イタリア、オーストリア、日本から多くの参加者が集まり、多数の事例発表と熱心な討議が行なわれた。やがて河合氏はカルフの後を継いで、第二代目の国際箱庭療法学会会長になる。
 ここで、『未来への記憶』で箱庭療法について語った最後の部分を引用しておこう。・・・・




あとがき

 一九九八年五月一日、私は、後に岩波新書『未来への記憶』(上・下)としてまとめられることになる、雑誌『図書』連載の最初のインタビューを行なった。

 それは京都でのことだったが、その後足かけ四年間に約十回、東京をはじめいろいろな所で、つまり多忙を極める河合氏の都合に合わせて、インタビューを続けた。多くの場合、簡単な食事をとりながらのことだったので、昼食か夜の食事の時間をあてていたのだと思う。

 河合氏には、あえて何の準備もせずにインタビューに臨んでもらうようにしていた。初回だけは、話をまとめるのに少し時間がかかった。が、それはあたかも記憶の底からいろんな事象を汲みあげる″ための回路を構築するために必要不可欠な時間のように、私には思えた。二、三本のビールを飲み終わる頃には、その回路を通って興味尽きないさまざまな事象が、眼前に展開された。そう、実際に目の前にそうした事象を見る思いだった。以後、河合氏の回想は途切れることなく続いた。

 インタビューをしている最中に、私は幾度となく、インタビューを専門にする心理療法家に対して問いを発することの意味を、考えずにはいられなかった。だから、本になった時に、河合氏が「あとがき」で次のように書いてくれたので、本当にホッとしたことを覚えている。
 
何しろ、大塚さんが聞き手ということなので、興に乗ってどんどんと話すことができた。不思議なことに、話しはじめると眠っていた記憶がつぎつぎと起こされてきて、やはり、「聞き手」の力というのを感じさせられた。話をしながら、その内容が結構、未来へもつながっていると感じ、「未来への記憶」というのは、本当にいい題だと思った。
 
 本書は、『未来への記憶』を中心にして、その他の河合氏の著作を助けとしながら、河合氏が心理療法家となるまでの過程を辿ったものである。その過程を可能な限り具体的に辿ることによって、インタビューの時にはその意味が分らなかった多くの事象の真の意味が、理解できるようになった。

 例えば、ロールシャッハについて。ロールシャッハの実践と研究が、河合氏にとってどんなに大きな意味を持っていたのか、私は本書を書き終わって初めて理解することができた。それは、ロールシャッハ研究がきっかけとなってクロッパー教授の所へ留学することになったという実際的なことだけではない。ロールシャッハ・テストを読み解くという営為は、ユング心理学の本質的理解と根底においてつながっていたのだ。

 このように、今まで四十年近くも河合氏の仕事を見てきたのにもかかわらず、本書を書いたことによって初めて思い至るようになったことが、何と多いことか。とすると、本書を書くように仕向けたのは、ひょっとすると河合氏なのではないか。そして河合氏の兄弟に引き合わせてくれたのも、他ならぬ河合氏の力だとも思う。河合雅雄氏に会ったことで、どれほど深く私の河合氏理解が進んだか、とても言葉では表現できない。

 本書を書き終わって考えざるを得なかったのは、すったもんだの資格取得の口頭試験の後にマイヤー先生が発した言葉のように、河合氏の半生をアレンジしたのは誰か?″ということだった。それは本書で書いた如く、両親であり、兄弟であり、篠山や京都、ロサンゼルスやチューリッヒというトポスであり、多くの友人たちであり、家族であり、さらには近代日本のありようであったかも知れない。また、クロッパー、シュピーゲルマン、マイヤーといった先生たちであり、ひいてはC・G・ユングその人であったかも知れない。

 そうした人々、トポス、時代がコンステレーション″となって、河合氏の生き方をアレンジしたのだろう、と私は思う。同時に、河合氏の人知れぬ努力が、河合隼雄という稀有の心理療法家を誕生させたのに違いない。
 本書を書きながら、『未来への記憶』のためのインタビューを、そのあれこれの場面を思い出さずにはいられなかった。換言すれば、約一年間ずっと河合氏と対話を重ねてきたとも言える。その意味では、なんと幸せな一年間であったことか。改めて、河合氏に心からのお礼を申し上げたい。

 私が本書をまとめたいとお伝えすると、ご遺族の方々、とくに嘉代子夫人と河合雅雄氏はたいへん喜んでくださった。そして格段のご助力を頂戴することができた。お二人からご教示いただいたさまざまな事柄が、本書の骨格を成している。また河合氏の著作からの多くの引用と私信の公開を許してくださり、さらに未公刊のユング研究所の資格取得論文を読ませていただけたのは、実にありがたいことであった。加えて嘉代子夫人、河合俊雄氏、河合雅雄氏には、本書のゲラに目を通していただくことができた。そして貴重なご教示をいくつも頂戴した。(とは言え、万一本書に不備な点や誤りがあるならば、それはすべて私の責任である。)このお三人には、感謝の言葉を見つけることができない。深く頭を垂れるだけである。

 少年時代の篠山の地図をつくり、その本書への掲載を認めてくださった河合雅雄・迪雄両氏に、衷心より感謝したい。
 ご著作からの引用を許諾してくださった、河合雅雄、中井久夫、富山太佳夫氏およびその他の方々に、あつくお礼申し上げる。
 本書もまた、トランスビュー社の中嶋廣氏にお世話になった。中嶋氏のおかげで、この困難な時代にもかかわらず、私の編集者体験に関わる四部作を完成させることができた。ありがたいことである。改めて衷心よりお礼申し上げたい。四冊の本すべてを手がけてくださった校正の三森・$3476・子さん、装幀の高麗隆彦氏にも深謝する。


二〇〇九年 春
大塚信一 
  △ページの最初へ














































  △ページの最初へ


















































  △ページの最初へ






























  △ページの最初へ































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ

































  △ページの最初へ
































  △ページの最初へ



































  △ページの最初へ





























  △ページの最初へ



































  △ページの最初へ








△ページの最初にもどる



株式会社トランスビュー
〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2-10-1 日伸ビル2F
tel03-3664-7333  fax03-3664-7335
e‐mail :info@transview.co.jp