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更新:2008/12/29


花はどこへいった表紙画像 花はどこへいった 枯葉剤を浴びたグレッグの生と死

坂田雅子[著]
46判上製・256頁・定価1890円(税込)/2008年11月刊行/ISBN:978-4-901510-68-4

グレッグの癌は枯葉剤のせい?カメラを手に渡ったベトナムで見た被害者たちの生活。最愛の夫との死別を乗り越え、岩波ホールなどで公開されたドキュメンタリー映画『花はどこへいった』の完成までを綴った書下ろしノンフィクション。

[著者]坂田 雅子(サカタ マサコ)
1948年、長野県須坂市生まれ。京都大学文学部卒業。70年にグレッグ・デイビスと出会い結婚。夫のフォト・ジャーナリストとしての仕事を手伝いつつ、76年から写真通信社インペリアル・プレス勤務、のち社長となる。98年、IPJを設立し社長に就任。2003年、グレッグの死をきっかけに枯葉剤の映画を作ることを決意、アメリカで映画制作を学ぶ。04年から06年、ベトナムと米国で被害者家族、ベトナム帰還兵、科学者らにインタビュー取材、撮影を行なう。2007年、映画『花はどこへいった』を完成させ、東京国際女性映画祭を皮切りに岩波ホールほか全国各地で上映、大きな反響を呼ぶ。

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(終了しました)
◆◆◆刊行記念イベント 坂田雅子さんトーク&サイン会 のご案内◆◆◆
ジュンク堂書店京都BAL店
(京都市中京区河原町通三条下る二丁目山崎町 京都BALビル)
日 時:11月7日(金)18時から/場 所:ジュンク堂書店京都BAL店8階「モーリスカフェ」/定 員:50名様(先着順)・要予約
参加費:一般800円・ 京都シネマの前売鑑賞券(『花はどこへいった』のみ)を持参の方600円  ※いずれもお飲物付
お申込み:ジュンク堂書店京都BAL店5階カウンター(電話予約可:TEL075-253-6460)
参加特典:トークセッションにご参加の方は、映画『花はどこへいった』を通常1800円のところ1500円でご鑑賞いただけます。

(終了しました)平安堂長野店 (長野市末広町1355-5)
日 時:10月18日(土)15時00分(開場14:45)から/場 所:平安堂長野店3F「カフェ ぺえじ」/定 員:30名様(先着順)・要予約
参加費:1200円 ※お飲物付
お申込み:「カフェ ぺえじ」(TEL026-228-8462)


目次(下線部をクリックすると本文がご覧になれます)
1 突然訪れた最期
予期しなかった宣告/枯葉剤が原因?


2 七〇年代、京都で

ベトナム帰還兵/自由の風に乗って/韓国への旅/写真通信社の仕事

3 ベトナムへの帰還

フィリップ・ジョーンズ=グリフィスとの出会い/戦後ベトナムからのレポート/私のベトナム・カンボジア紀行/ベトちゃんドクちゃんを取材する

4 揺れ動くアジアを行く

地雷の国、カンボジア/クーデターとポル・ポトの死/不思議の国、北朝鮮/スー・チーさんへの単独インタビュー/中央アジアへ向かう視線

5 「9・11」以後の世界

アフガニスタンからの報告/グレッグの写真論と作品/中央アジア・ダイアリー

6 枯葉剤の実態をドキュメンタリー映画に

哀しみをのりこえるために/映画作りを学ぶ/枯葉剤の調査

7 ベトナム取材の衝撃

被害者たちに会う/元アメリカ兵の建てた施設/中部高原地帯の村/ツーズー病院「平和村」/ロンタン基地をさがして

8 『花はどこへいった』の誕生

パーソナル・レクイエム/試行錯誤の編集作業/アメリカでの追跡調査/あるベトナム帰還兵の回想

9 ベトナム再訪

裁判の結果/被害者たちのその後/新たな発見の旅へ

あとがき
  △ページの最初へ
































本文より
1 予期しなかった宣告

二〇〇三年四月十四日、月曜日。
 夜中に目が覚めた。いったい何時なのだろう。隣りのグレッグはよく眠っているようだ。きのうの午前中にパリから戻ったばかりなので、こんな時間に目が覚めた
のだろうか?
 朦朧とした頭にようやく現実がもどってくる。
 数カ月まえから胃のぐあいが悪いと言っていたグレッグだが、もう治るだろうと思いつついっこうに快復しないのを押し切って、イギリスに住む姉の結婚三十周年
のお祝いに行って来たところだ。帰りのパリ滞在中も、あんなにワインやフランス料理が好きだった彼が、ほとんど食欲がわかず、ふさぎ込んでいた様子を思い出し
、楽観的な私も、不意打ちのように悪い予感に襲われた。がん? という思いがはじめて頭をよぎった。
 眠れない夜に思いはどんどん膨らむ。もし、最悪の事態でがんだったとしても、このごろは周りの友人にも、がんを克服して元気に暮らしている人がたくさんいる
し、胃がんだったら、ほとんどの人が手術に成功しているじゃないか、と言い聞かせる。切れば治るんだと、安心しようとするが、その一方、もし体を開けてみて、
がんがいっぱいにひろがっていて、もう手の施しようがないと言われたらどうしようと思い始めると、もう悲しくて悲しくて、体の中心から嗚咽がひろがってくる。グレッグに気づかれないように、一生懸命こらえようとすればするだけ、どうしようもない絶望に襲われる。
 その後、私は眠ったのだろうか?
 朝になって、グレッグがけろりとして何事もなかったように起き上がるのを、半分期待していたが、そうは行かなかった。足のむくみが増して、しかも氷のように
冷たい。
 とにかく病院に行こうと促して、ふだんは医者通いを拒む彼と山王病院へ向かう。
 数週間まえから診てもらっていた医師は、今回も患部にふれもせず、胃炎でしょう、もう少しガスターを処方しておきましょう。それから念のため、食道と大腸の
検査も入れておきましょう、と言う。
 足の腫れは別に外科で診てもらうことになり、私は会社へ行くことにする。一緒に残りたかったが、グレッグは頑に一人でいいという。もともと頑固なところがある人ではあったけれど、なぜこんなに頑ななんだろうと、ふと不安になる。
 それから数日、もう治るだろうと思いながら、会社にあった分厚い医学百科で胃炎、胃がん、胃潰瘍など、可能性のありそうなところをいろいろ見てみる。が、どうもこれだと当てはまる症状はないようだ。とはいえ、いつもは楽観的な私にも、時々不安がよぎる。
 パリから帰国して五日目、会社から電話すると、ぐあいが悪いと言う。病院で大量にもらった何種類もの薬を飲んでも、効き目はない。気持ちも沈むので抗鬱剤を
もらえないだろうか、西洋医学ではなく、ホリスティック医学のほうがいいのではないか、と言う。
 その日、帰宅すると、グレッグはむくんだ脚をいたわりながら、テレビで映画『シェルタリング・スカイ』(ポール・ボウルズ原作、ベルナルド・ベルトルッチ監
督)を観ていた。
 ふと顔をみると涙ぐんでいる。
「どうしたの、映画を観て泣いてるの」
 びっくりして聞くと、
「だってこんなに感動的じゃないか」
 と言う。
 いまもあの時のことを思い出すと、どうして彼の涙をもっとよく理解しなかったのだろうと、後悔の念が湧く。
 抗鬱剤を処方してもらうためもあり、またあまりに症状が改善しないので、帰国してから六日目、四月十九日に再び山王病院を訪れる。
 そのときグレッグは自分で車を運転して、診察がすんだらそのまま、群馬県にある山荘に向かうつもりでいた。
 診察に当たったM医師は足のむくみをみて、静脈瘤の疑いがある、血栓が心臓に飛ぶ恐れがあるので、月曜日にでも済生会病院に入院するよう手続きをしようとお
っしゃる。
 その手続きを待っている間に血液検査の結果が出るが、驚くほど悪い数値だ。肝機能が非常に落ちている。すぐに入院の手続きをするという。
 それからは、CTスキャン、MRI、レントゲン、超音波……と、検査、検査の連続である。
 グレッグが怖がってなかなか受けようとしなかった大腸の内視鏡の検査では、私は最悪の事態を覚悟していた。しかし内視鏡が腸を通っていく間、医師がここもき
れい、ここも何もないと言いながら進んでいくので、勇気づけられた。結局、大腸がんではないということで安心する。だが、グレッグは不安を拭いきれないようだ

 入院後二日目に、どうも肝臓に異常があるようだ、画像になにか、飛んでいる虫のようなものが映っている。ここの医者のチームもみたことのないケースだ。もう
少し調べて、場合によっては肝臓専門の病院に移った方がいいかもしれない、と言われる。
 これを聞いたグレッグは訴えるように、「僕はジャーナリストで、世界のいろいろな国に行った。どこかで、何かに感染したのかもしれない。どうか、そこも考慮
にいれて原因を探ってほしい」と嘆願する。・・・



2 七〇年代、京都で 

1 ベトナム帰還兵

 私たちが出会ったのは一九七〇年の京都。日本は大阪万博に沸いていた。
 私は京都大学の学生で、文学部哲学科に籍を置き、人類学か社会学を勉強しようと思っていた。高校時代にAFS交換留学生として一年間アメリカに行き、日本に
帰って来たものの日本社会になじめず、新しい価値観を模索する中で、人生の根源的なものを探求するのには哲学の勉強が必要だと思ったのだ。
 一九六七年四月に入学したのだが、五月の連休の頃には、大学には入ったものの授業には魅力が感じられず、人生に目的を見いだせず、いわゆる「五月病」にかか
り鬱々としていた。
 当時、学生運動が盛んだったが、私自身はそのために何かしようとか、運動に加わろうと思うことはなかった。どうやって参加したらよいかもわからなかったし、
活動家になるというようなはっきりした考えはなく、その道を選ぶことはなかった。いろんな意味で消極的で、いったい自分は何をしたらよいのか、なんとなく右往
左往していた。本当に世の中のことを知らなかったし、将来どう生きて行ったらいいのかと自分のことを考えるばかりで、社会的なことがらを考えることはなかった

 私が大学に入学して「五月病」に悩んでいたころ、グレッグは彼なりの道を歩み始めていた。そのころのことを、雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋、一九九一年六
月号)にこんなふうに書いている。
 
「一九六七年五月十七日。ベトナム。僕らをのせたボーイング707は夜間警報の中をタンソンニャット空港に着陸しようとしていた。飛行機の小さい窓からそのよ
うすが見えた。ロケット弾が炸裂し、曳光弾――赤い軌跡は民主主義を象徴し緑は共産主義を表す――が飛び交っていた。(発光することで飛んだ軌跡がわかるよう
になっている弾丸。アメリカ陸軍やNATO軍の標準規格では、ストロンチウム塩類と金属燃料(マグネシウム過塩素酸塩の混合物)であり、これは明るい赤となる
。ロシアや中華人民共和国の曳光弾はバリウム塩を使用しており、緑の光となる。)
 炸裂するロケット弾や曳光弾の軌跡は、夢の中のように美しく、音もなく、現実ばなれした光景だった。
 パイロットは急遽予定を変更し、中部高原地帯のプレイクに向かった。銃撃をさけるため、おもいきり急降下して着陸した。戦争のさなかのベトナムはアリスの不
思議の国のようだった。そして、僕らは無垢だった少年時代に別れを告げた。
 サイゴンの土を踏んで間もなく、僕は十九歳の誕生日を迎えた。ロスアンゼルスの保守的な高校を卒業したばかりの少年にとって、サイゴンは喧噪に満ちた魅力的
な街だった。戦争の匂いに興奮し、道行く女の子が皆きれいに見えたものだ。しかし何がどうなっているのか、まだ少しも把握できなかった。
 子供のころから、悪いやつは殺せと言われてきた。例えばインディアンを殺してきたように。・・・


3 ベトナムへの帰還


 1 フィリップ・ジョーンズ=グリフィスとの出会い

 本格的にフォト・ジャーナリストとして活躍しはじめたばかりのグレッグにとって、当時写真家集団マグナムの会長だったフィリップ・ジョーンズ=グリフィスとの出会いは、その後二十五年間つづく友情の始まりであり、写真についても世の中のさまざまな不正についても、尽きることなく話し合える師、同僚との出会いだ
った。
 フィリップは、グレッグとの出会いを次のように語っている。
「グレッグと最初に会ったのは、七〇年代の後半だった。たしか七七年だったと思う。韓国でのことだ。たまたまソウルの街角で出会った。第一印象で、なんてアメ
リカ人らしくない男だろうと感心したことを覚えている。高級ホテルに滞在する多くのアメリカ人ジャーナリストとちがって、彼は韓国式の安宿で、床に寝るのを何
とも思わなかった。親しくなるにつれ、彼こそ本当の、一番いい意味でのアナーキストだと思うようになった。彼は人の言葉を鵜呑みにせず、その裏側を追求し、必
ず疑問を投げかけた。私は彼に惹かれた。」
 フィリップ・ジョーンズ=グリフィスはウェールズ出身のイギリス人の写真家で、一九七一年に発行された写真集『べトナム・インク』は反戦のメッセージを強
く訴え、ベトナム戦争反対の世論を呼び起こす大きな力となった。そのころの様子を思い出してフィリップは、「とにかく、たくさんの人たちに実情を知ってほしか
った。立派な写真集でなく、トイレットペーパーに印刷してでも、戦場の実際をより多くの人々に伝えたかった」と語っている。・・・


4 揺れ動くアジアを行く

 1 地雷の国、カンボジア

 最初のうちは恋に落ちたかのように機会があればベトナムに行っていたグレッグだが、八〇年代の後半からは、いよいよカンボジアに魅せられていったようだ。ベ
トナム社会がだんだん落ち着きはじめ、秩序を取り戻すなかで、カンボジアの混昵は心情的にも視覚的にも彼を刺激した。
 ベトナムとカンボジアは歴史的にも地理的にも切っても切れない仲だ。一九七四年から繰り返されたクメール・ルージュによるベトナムへの侵攻、二国間の領土争
いの後、七八年のベトナム軍のプノンペンへの侵攻以後、カンボジアは実質的なベトナムの占領下に置かれる。一九八〇年代を通じて紛争は続いたが、八九年にベト
ナムは撤退を表明し、一九九一年十月二十三日、パリ和平協定が調印された。
 一九九一年十一月、グレッグは、集英社が発行していたグラフ雑誌『バート』の取材でカンボジアを訪れ、写真と文が、「笑顔なき平和、カンボジア」と題するス
ペシャルレポートとして掲載された。
 導入部には「日本の援助で明日はくるか? タイ、シンガポール、マレーシア……日本人の海外旅行の行き先としてすっかり定着したアジア。――その旅行地図か
ら、なぜかすっぽりと抜け落ちてしまっている国がある。それがカンボジアだ。しかし、われわれはカンボジアについて、いったい何を知っているのだろうか? ど
んな援助が彼らのためになり。どんな金の使い方が彼らの自立への努力を妨げるのか。かりそめの平和を迎えたこの国の、待ったなしの現実を、頭ではなく、肌で理
解してもらうためにBARTは現地へととんだ。笑顔を忘れた人々に迎えられて」とある。・・・


5 「9・11」以後の世界

 1 アフガニスタンからの報告

 二〇〇一年九月十一日、私たちはパリからロンドンへ向かうユーロスターの車中にいた。隣りの乗客は、騒々しいビジネスマンで、車中でも傍若無人に大声で携帯
電話をかけまくっていた。私たちは辟易していたのだが、そのうちに彼の声色が変わった。
「え、なに、パレスチナ?…テロリスト?…爆撃?…」といった単語が、切れぎれに伝わってくる。変な人だと思っていたが、だんだん、どうも大変なことが起こっ
ているらしいことに気づいた。しかしいったい何なのか、見当もつかない。ユーロスターは海底トンネルを通過中で、なんのニュースも入らない。車掌さんたちも訝
しげに首をかしげるのみ。こうなると、隣りのうるさい乗客が唯一の情報源だ。彼のオフィスとの会話を通じて、少しずつ概要がわかってきた。
 ウォタールーの駅につくと異様な雰囲気だった。みなそわそわと落ち着かず、かといってテレビや新聞に見入っているわけでもなく、具体的な情報はまだつかめな
い。
 チェックインするのももどかしくホテルの部屋に入り、テレビをつける。そのとたん画面に、炎につつまれた貿易センタービルがあらわれ、隣りのビルに飛行機が
突っ込んでいった。世界中の皆がその時そうだったように、しばらくの間ふたりとも、テレビに釘づけになった。
 夕食は友人の写真家、ギャリー・ナイトの家に呼ばれていたので、そのためにパリで特別なワインも買って来ていた。ギャリーから電話で、『ニューズウィーク』
の取材でアフガニスタンに行くので、ディナーはキャンセルだと言う。貿易センタービルの崩壊に呆然としていた私は、なぜアフガニスタン、どうして、この事件が
アフガニスタンと関係があるの? とあっけにとられたが、彼らにとっては当然の推測だったらしい。いつものことではあるが、いかに私が国際情勢に無知であった
かを思い知らされる。
 東京のオフィスから電話が入り、『週刊ポスト』の三浦和也氏がマルクスに、アフガニスタンに行ってほしい、オサマ・ビン・ラーディンらの動向を探ってほしい
という。結局彼は、日本のメディアのレポーターとしては異例の早さで、九月十四日に北部アフガニスタンに入った。
 東京に帰ってからの数日は慌だしかった。日頃、国際ニュースの写真にはほとんど関心のない日本のメディアだが、この時だけは違った。当時私は、勤めていた会
社を引き継ぐかたちで、アイピージェー(IPJ)という写真通信社を経営しており、主要な多くの海外写真通信社と契約していた。それで他の新聞社や通信社の手
に入らない、世界貿易センタービルを攻撃する瞬間を撮った衝撃的な写真が、たくさん送られてきたからだ。
 なかでも、セブン・エージェンシーのジム・ナクトウェイが撮ったものは、後々までもこの事件を象徴的にあらわす力強いものだった。・・・


6 枯葉剤の実態をドキュメンタリー映画に

 1 哀しみをのりこえるために

 グレッグが急にいなくなってしまって、私は途方にくれた。一人で生きていく意味を見いだせなかった。これからの一人の人生が茫漠と目前に広がり、限りなく時
間が続いていくように思えた。
 ただ、会社はまだ存在しているし、日々しなくてはならない事がある。どんなに空虚な気持ちでいても、朝起きて会社に行かなければならない、そのことが救いだ
った。会社にいてもふとしたことで涙がこみあげて、どうしようもない状態がしばらく続いた。が、そのころ会社の経営が逼迫していたことも、なにか絶望的な中で
エネルギーを生み出す力になったのかもしれない。
 経営していた写真エージェンシーの業績が悪化していったのは、企業の吸収合併が世界的に進んでいたのと、写真の送信方法がインターネットによって変わったこ
とが、大きな理由だった。
 九〇年代の半ばまでは、写真といえばスライド(ポジ)かプリントで、毎日のように大きな封筒がエアメールや国際宅配便で送られて来た。それを選別し、タイト
ルをつけ、カテゴリー別にわけ、コンピューターが普及する以前は図書館のカードのようなものに情報を記載し、雑誌社や出版社、広告代理店などに、営業担当がも
っていって紹介していた。
 それがデジタル・カメラの普及とともに画像のデジタル化がすすみ、写真がインターネットで送受信されはじめたのは、二〇〇〇年ころだった。写真業界のありさ
まは、あれよあれよという間に変わっていった。写真家たちにとって、デジタルに移行するか否は大きな課題だった。グレッグも迷っていた。時々試験的にデジタル
・カメラを使ってはいたものの、最後まで本格的な仕事はフィルムを使っていた。
 そしてインターネットによる写真の売買がすすんだことにより、ITに巨額の投資ができる大企業だけが生き残れるという図式が、だんだんできあがってきたのだ
。契約していた主要な海外のエージェンシーが次々に、ビル・ゲイツや石油資本のゲティーなどに買収され、私たちの手を離れていってしまった。・・・


7 ベトナム取材の衝撃

 1 被害者たちに会う

 フィリップをさそってベトナムへと旅立ったのは、このあと間もなく、二〇〇四年七月だった。私にとっては十五年ぶりのべトナムだ。十五年間で、なんという変
わりようだろう。一九八八年に来た時には、電気も車もほとんどなく、タイムスリップしたように感じられたものだが、空港は近代的になり、車、ことにオートバイ
が街に溢れている。(でも私には、あのころの暗い街が懐かしい。)
 私たちは、ハノイの中心部にあるホアンキエム湖畔のホー・グオム・ホテルに投宿した。欧米や日本の資本によって豪華なホテルが次々と建設される中で、少し古
びた小さなこのホテルは、一泊三〇ドルと値段も手ごろだ。
 メーン州のワークショップで、いちおうビデオ撮影の手ほどきを受けたとはいうものの、実際に現地で撮影するのは初めてだ。路上マーケットの、朝の賑わいを撮
りにいく。色とりどりの花、果物、野菜など、おしゃべりに興じながら売り買いする人々の群れにすっかり魅了され、あれもこれも撮りたいのだが、どこに焦点を当
てたらいいのかわからない。露出やフォーカスなど、すべての設定をチェックするのは大変だ。どこかボタンを押し忘れていたり、セッティングを間違えていたりと
いうことが、しょっちゅうだった。そして迷っているうちに、撮りたかったものは瞬時にして消え失せてしまう。
 グレッグがいつか言っていた「よく観察していれば、人々の次の行動は予測できるもの」という言葉を反芻する。
 それでも、つぎからつぎへと展開するものめずらしい光景を撮影するのに、私は興奮した。日の出前から起きて、フィリップと一緒に町の様子を撮影にいった。フ
ィリップはかつて映画の撮影もしていたことがあるので、ビデオの撮影についてもいろいろ手ほどきをしてくれる。ハノイの町を散策しながら、彼から多くを学んだ
。戦争博物館などめぼしいところでは、ベトナム戦争の歴史、彼が実際に見たり経験したりした貴重な話などを、話術巧みに話してくれ、いくつかの会話はビデオに
も収めた。
 フィリップがぜひ見るべきだと連れていってくれた戦争博物館では、ベトナムの侵略された歴史、一九五四年のディエンビエンフーでの対フランス軍勝利、アメリ
カ軍とのケサンの戦い、それに続くテト攻勢での勝利などが、フィルムと模型で誇らしく語られ、観客は熱心に見入っている。中庭に展示されている追撃された米軍
機のまわりを回りながら、戦後生まれであろう若い父親が、四、五歳くらいの息子に何か指差しながら説明している。戦争はもう過去のものになったのだろうか。こ
うして私は、ベトナムの空気に少しずつなじんでいく。
 グレッグとフィリップは、一九八〇年代後半から九〇年代にかけてのべトナムに、もっとも精通していたジャーナリストたちだといえるだろう。ふたりは東南アジ
ア各地の取材旅行を、たびたび共にしていた。グレッグに『タイム』誌から潤沢な経費が出た時などは、運転手、通訳を共有し、お互いに見聞きすることをとことん
話し合ったという。・・・


8 『花はどこへいった』の誕生

 1 パーソナル・レクイエム

 二〇〇四年夏と、その後単身で行なった同年暮れからお正月にかけての取材で、私はミニDVテープ八〇本分ほどを撮った。およそ、のべ八〇時間分だ。
 予想していた以上に多くの被害者に会ったし、それぞれの出会いに感動した。
 これから、撮ってきたテープを映像ソフトを使ってコンピューターに取り込み、編集するという大仕事が待っている。
 日本に戻り、仕事が終わってジムに行ったりして、帰宅するのが十時頃。それから毎朝二時、三時までコンピューターに向かい作業を続けた。
 メーンのインストラクターだったビル・メガロスのアドバイスにしたがって、まずは貴重な映像が消えたり破損したりした場合に備えて、すべてのテープのコピー
を作る。これは撮ってきた実時間と同じだけかかるので、八〇時間近くかかったことになる。普通の会社での仕事に換算すると、約二週間分ということだ。まあ、こ
れならできるなとタカをくくっていた。
 コピーをするという単純な作業でさえ、ビルに国際電話をかけて、どんなワイアーで二台のカメラを接続すればいいのか指示を仰ぎつつ、というくらい私は何も知
らなかった。
 次にテープを一本ずつ見ながら、タイムコードを記録し、使えそうな映像とその内容をノートに控える。この作業はさっと一度見ればいいというのではなく、可能
性がありそうな場面は巻き戻して何度も確認するので、けっこう手間がかかるのだ。しかもベトナム語の部分は、聞き取りにくい通訳の英語に頼るしかないので、な
かなか進まない。
 そしてタイムコードと内容を、映像ソフトを使ってコンピューターに記録し「取り込み!」(capture!)の命令ボタンを押して、あとは皿洗いなり、テレビを見るなり解放される……はずだった。
 ところが皿洗いが終わって、もう全部すんでいるだろうと見てみると、なんと途中でエラーメッセージ。たとえば「タイムコードが見つかりません」「タイムコー
ドが切れています」などが出ていて、すべてやり直し。あるいは夜中にボーンという音がして、映像データを保存していたハードディスクが壊れてしまったなど、情
けない思いを繰り返した。ああ、なんでこんな思いをしながら続けなければならないのだろう、と思いながらも、これを続けることのみが生き続けることだと、「歯
を食いしばって」作業を続けた。心の中の悲しみと虚しさがそれだけ強く、それに比べればこんなトラブルはとるに足りない、と思えたのも事実だ。・・・


9 ベトナム再訪

 1 裁判の結果

 二〇〇八年二月二十四日。
 ハノイは、テト(旧正月)が過ぎたというのに灰色の空におおわれ、二十年前とおなじ冷たい霧のような雨が降っている。冷たい霧雨はテトの訪れを告げると聞いていたが、終わりの徴しにもなるのだろうか。
 二十年前をなつかしく思い出していた私にとって、ハノイのノイバイ空港は、成田かJFK空港かと見まがうくらいにモダンな建築になっていて、なにか冷たい金属的なもので背中をなでられるような気がした。
 しかしハノイの町に近づくにつれ、昔とは比べものにならないものの、四年前の訪問時とあまり変わらず埃っぽく、混昵としているのに安堵する。世界中が東京の都心のように、ガラスとプラスチックとセメントとスチールに覆われた無機質なものになってしまったらどうしよう、と心配している私にとって、混昵と有機的な薄汚なさは救いなのだ。
 いま住んでいるカリフォルニアのバークレーを発った先週の金曜日、おりしもニューヨークの第二巡回控訴裁判所(Second Circuit Court of Appeals)で、ベトナム枯葉剤被害者の会の起こした訴訟が、ふたたび却下されたというニュースがはいった。
 理由は以下のようなことだ。
 1 枯葉剤は米国の兵士を守るために使われたのであり、そこに住む人々に害を加えることを目的としたものではないので、戦争犯罪ではない。
 2 主権国家である米国は罪を問われない。化学薬品会社は国家の命令にしたがっただけなので、罪に問われない。米国の「軍事請負人保護法」(military contractor defense)によれば、政府との契約事項を遂行するにあたった請負人は責任を問われない。
 3 三〇〇万人のダイオキシン汚染による被害者と、枯葉剤散布の因果関係は証明されていない。
 被告の化学薬品会社のひとつ、モンサントは次のような声明を出した。「我々がかねてから主張してきたように、べトナム戦争の枯葉剤使用については、当該政府間の話し合いに委ねるべきだ。」
 まるで罪のなすりあい、責任逃れの悪あがきとしかいいようがない。
 ハノイの第一日目は、この訴訟の結果が出る前から約束をしていた枯葉剤被害者の会(VAVA)の、グエン・チョン・ニャン氏とのインタビューで始まった。
 オフィスはただならぬ緊張の様子で、ちらりと垣間みた会議室は、まるでかつて写真でみた北ベトナムの戦略会議のような雰囲気を漂わす。新聞やテレビの記者が慌だしく行き交う中、ニャン氏は一時間ほど貴重な時間を割いてくださった。
 彼には二〇〇四年の夏にもインタビューをしたのだが、それは第一回目の訴訟の半年ほど前だった。そのときにも「強力な米国の会社を、米国において、米国の法律にしたがって訴える」ことの難しさを強調していた。今回の結果は予測していたとはいえ、ベトナム側にとっては失望を新たにするものだった。今回も、最高裁まで持ち込み闘いつづけるとの決意が窺えた。
 ニャン氏は映画『花はどこへいった』を高く評価してくださり、二〇〇六年八月十日のエージェント・オレンジ記念日には、彼の力添えでべトナム国営テレビで放映され、かなりの反響を呼んだという。・・・


あとがき

 映画を作る前といまでは、何が変わりましたか、とよく聞かれる。
 大きな悲しみも時とともに薄らぐとはいうものの、グレッグの不在が残した空洞と、もういまや私の心の基調となってしまった悲しみ、寂しさは変わらない。
 でも、何かが変わったし、変わりつつあるのを感じる。それは、自分の殻から出て、人とつながろうという気持ちかも知れない。
 このことは、私にとっては大きな意味を持つ。枯葉剤の被害者に会ったり、その事実を調べたりしていくうちに、遠い過去、遠い国で起こったことも、私たちの日々の生活と密接に結びついているということ、夫の突然の死という個人的な悲しみも、連綿と続く歴史の流れの中にあり、私一人の悲劇なのではないということに目を開かれ、そこから何か、次の一歩を踏み出せそうな気持ちでいる。
 映画を通じて多くの新しい出会いがあった。そしてこの本を通じてまた、新しい出会いがあることを期待している。
 私のつたないメッセージを受け止めて、それぞれの中でそれをより膨らませてくださる多くの方々と出会い、私たちは皆つながっているのだという思いをあらたにするとともに、メッセージを発信することの責任も感じる。責任を感じるということは、また生きがいにもつながる。
 枯葉剤という問題を通して多くのものが見えてきた。いま世界で起きている悲惨な出来事の多くは根を同じくしているということ、それは利益を優先する企業の論理であり、それに支えられている政府と軍隊だということだ。根が見えてくると、そこから派生しているものに惑わされにくくなる。
 グレッグはよくこう言っていた。
「より多くのことを見ることによって、より多く知ることができる。より多く知ることによって、私たちを取り巻く世界を変えることができる」。
 私たちは戦争を繰り返してきた。そしてそれは、これからも無くなりそうもない。でも、だからといって口を閉ざすわけにはいかない。
 私はまだ、声を大にして叫ぶ活動家にはなりきれない。でも、グレッグの死を通して知り得た世の中のさまざまな矛盾や悪を、私にできるところから変えていく努力をしたいと思っている。遅くなりすぎないうちに。
 人は亡くなっても無になるのではない。新しい形で生き続けるのだと思う。
映画『花はどこへいった』の制作に大きな力を貸してくれたグレッグの親友、フィリップ・ジョーンズ=グリフィスも、二〇〇八年三月十八日、長年のがんとの闘いの末に亡くなった。私は彼らから、ものごとを批判的に見る目を授かった。彼らの灯したたいまつを守り続けるのが、これからの使命だと思っている。
 花はどこかにいってしまっても、希望の種までは無くなっていないことを信じて。
 
 二〇〇八年十月 著 者
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