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更新:2007/3/25

「マニュファクチャリング・コンセント1」表紙画像 マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学 1

ノーム・チョムスキー,エドワード・S・ハーマン[著] 中野真紀子[訳]
A5判上製・401頁 定価3990円(税込)
2007年2月刊行/ISBN:978-4-901510-45-5(ISBN:4-901510-45-2)
(原書Manufacturing Consent : The Political Economy of the Mass Media, Pantheon Books)

マスメディアはそのシステムのために、事実を伝えることができない。その報じるニュースは、プロパガンダ・モデルの「5つのフィルター」を通過したものだけだ。「合意の捏造」の形成過程を膨大な事例を比較検討して解き明かす。現代メディア論の傑作。
「マニュファクチャリング・コンセント2」表紙画像 マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学 2

ノーム・チョムスキー,エドワード・S・ハーマン[著] 中野真紀子[訳]
A5判上製・291+15頁 定価3360円(税込)
2007年2月刊行/ISBN:978-4-901510-46-2(ISBN:4-901510-46-0)
(原書 Manufacturing Consent : The Political Economy of the Mass Media, Pantheon Books)

ヴェトナムからラオス、カンボディアへ−とどまることなく拡大するインドシナ戦争の実態を、マスメディアはいかにして書き換え、捏造したか。「中立公平」を装うメディアが、必然的にプロパガンダに陥る仕組みを解明する、最もラディカルな現代の古典。

[著者]ノーム・チョムスキー(Noam chomsky)
マサチューセッツ工科大学言語学教授。生成文法理論により20世紀の言語学に「チョムスキー革命」をもたらす。心理学でも、当時優勢だったB・F・スキナーの行動主義的なアプローチを批判し大きな影響を与えた。その一方、60年代のアメリカによるヴェトナムへの軍事介入に反対し、ラディカルな政治批判やメディア批判をくり広げる。著書は80冊を超え、邦訳書も30冊近い。その思想と活動をあますところなく描いたカナダの長編ドキュメンタリー映画『チョムスキーとメディア』(1992)は、世界的な大ヒットを記録した。

[著者]エドワード・S・ハーマン(Edward S. Herman)
ペンシルヴァニア大学ウォートン校名誉教授。金融業界・企業システムの構造や、企業としてのメディアの構造を研究する。60年代にヴェトナム反戦運動を通じてチョムスキーと知り合う。最初の共著 Counter-Revolutionary Violence : Bloodbaths in Fact & Propaganda(Warner Modular, 1973)は、親会社ワーナーによって抹殺されたが、1973年には共著 The Political Economy of Human Rights をサウスエンド・プレスより出版。著書に、The Real Terror Network(1982)など、アメリカの外交政策やメディアに関するものが多数あり、Zマガジンにも定期的に寄稿している。

[訳者]中野真紀子(なかの まきこ)
翻訳家。訳書にエドワード・サイードの『ペンと剣』(筑摩書房)、『遠い場所の記憶』、『バレンボイム/サイード 音楽と社会』、『オスロからイラクへ 戦争とプロパガンダ2000-2003』(以上みすず書房)、イスラエル・パレスチナ問題でバイナショナリズムを論じたチョムスキーの『中東 虚構の和平』(講談社)などがある。佐藤真監督の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』の字幕・監修を担当、監督との共著で同じタイトルのコンパニオンブック(みすず書房)も出版している。

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映画・日本国憲法[DVD]    製作・シグロ   チョムスキーら世界の知識人が憲法を語る。
書評・紹介記事など
・朝日新聞(2007.03.25・朝刊)「書評欄」小高賢氏書評
・読売新聞(2007.03.11・朝刊)「書評欄」佐藤卓己氏書評

関連情報リンク
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
CHOMSKY.INFO -チョムスキーの公式webサイト(英文)
「ZNet」 Noam Chomsky Archive -(英文)
RUR55 Outtlet  −訳者の中野真紀子さんが運営するサイト。エドワード・サイード、ノーム・チョムスキーなどについて。
チョムスキーズ・チョイス  −『秘密と嘘と民主主義』(成甲書房)の訳者、田中美佳子さんが運営するサイト。チョムスキーの講演レポートなど。
シグロ   −『チョムスキー 9.11』『チョムスキーとメディア』『映画日本国憲法』などの製作・配給会社
目次 (下線の箇所は本文をご覧になれます。)
---第1巻---------

新版の序

1.プロパガンダ・モデルとは

2.プロパガンダ・モデルのアップデート
メディアを支配する二十四の企業/グローバル・メディアの誕生/集中砲火の威力

3.ケーススタディのアップデート
価値ある被害者と価値なき被害者

4.第三世界選挙の正統性をめぐって

5.ローマ教皇暗殺未遂事件

6.インドシナ戦争の真実
アメリカは被害者か侵略者か/化学兵器使用と「黄色い雨」キャンペーン/ヴェトナム戦争史を書き換える/ラオスの人為的大災害/カンボディアと東ティモールのダブルス タンダード/メディアが選択肢を制限する/「沈黙の春」を推進する

7.何が民主主義を前進させるか

初版の序

第1章 プロパガンダ・モデル

1.マスメディアの規模、所有者、利益志向 第1フィルター

2.広告という営業認可装置 第2フィルター

3.マスメディアの情報源 第3フィルター

4.「集中砲火」とその仕掛け人 第4フィルター

5.制御メカニズムとしての反共思想 第5フィルター

6.二分法によるプロパガンダ・キャンペーン

第2章 価値ある被害者と価値なき被害者

1.ポーランドの一神父とラテンアメリカの百人の聖職者
報道の数量的比較/ポピエウシュコ事件の報道

2.ルティリオ・グランデの殺害と価値なき七十二人

3.大司教オスカル・ロメロの殺害
図式にはめ込む/暫定政権擁護の方針/ロメロ大司教の見解とその歪曲/上層部の責任追及はしない/でっちあげの神話を採用する

4.エルサルバドルで殺された四人のアメリカ人女性信徒
凶行はどう描写されたか/怒りと裁きの要求の欠如/もみ消し工作に加担する/不条理裁判と資金援助

5.グアテマラで殺された二十三人の聖職者
永続的な国家テロ/ジェノサイド政権はどう報道されたか

6.失踪家族の「相互援助団」の殺害
「相互援助団」の結成/殺人事件の報道のしかた

第3章 第三世界選挙の正統性と無意味さ―エルサルバドル・グアテマラ・ニカラグア―

1.選挙プロパガンダの枠組み

2.選挙の基本的条件は満たされていたか
言論と集会の自由はあったか/出版と報道の自由はあったか/結社の自由はあったか/選挙に出馬する自由はあったか/恒常的な恐怖の有無

3.「自由投票」の強制手段

4.「狂った殺人マシン」を初期民主主義の保護者に仕立てる

5.「グアテマラは穏健派を選択」したか

6.ニカラグア選挙の正統性をいかに剥奪したか
「しらけ」と「恐怖」という中傷/選挙のメカニズムを無視する/闇に葬られた妨害と、高投票率の意味/強制手段への感度の差/幻の「最大野党」253 報道と集会の自由の問 われ方

7.メディアの系統的な偏向の量的証明

8.ニカラグア選挙に合わせた「ミグ危機」の演出

9.プロパガンダ路線を応援する政府「監視員」

10.国家テロリズムの忠実な手先

第4章 誰がローマ教皇暗殺を企てたか―KGB=ブルガリア陰謀説を検証する―
1.SHKモデルの登場
動機の解釈/関与の証明/根拠はイデオロギー的な思い込み

2.SHKモデルの五つの問題点

3.妥当な代案モデル

4.ブルガリアン・コネクションの無批判な受け入れ

5.情報源の著しい偏向

6.問われない質問、使われない情報源


補遺
原注
訳注

---ここより第2巻---------

第5章 インドシナ戦争1 ヴェトナム

1.メディアの「反米的なカルチャー」

2.論争の限界

3.愛国的な前提
自由をもたらすための侵略/住民の安全のための無差別爆撃/南ヴェトナム攻撃は存在しない

4.メディアの無思慮な服従
破られたジュネーヴ協定/内部侵略に「抵抗」するアメリカ

5.残虐行為の報道
「すみやかに彼らを殺して楽にしてやった」/報道されない南ヴェトナムの破壊/メディアの裏切り、というつくり話

6.いくつかの重大事件の見方
トンキン湾事件のニュース統制/テト攻勢に関するフリーダムハウスのテーゼ/パリ和平協定を踏みにじる

7.何のためのヴェトナム戦争
ヴェトナム症候群を克服せよ/「破壊はお互いさまだった」/真実からいかに目をそらすか/インドシナ全体の破壊が目的/報道の「バランス」

第6章 インドシナ戦争2 ラオスとカンボディア

1.ラオス、音のない世界
「サイドショー戦争」/「秘密戦争」の成果/月面の風景

2.カンボディア、「優しい国」のジエノサイド
ジェノサイドの十年/誰がどれほど殺したのか/「優しい国」という神話/第一期のアメリカによる破壊/第一期のメディア報道/難民の声は聞かれない/「記憶は解答となる 」のか/第二期のポル・ポト時代/第三期のカンボディアとヴェトナムの関係/西側の沈黙という突飛な主張/理性的な結論

第7章 プロパガンダ・システムとメディア
服従の範囲内での独立/メディアはみずからの判断で奉仕する/プロパガンダ・システムに対抗するもの

補遺
原注
訳注

訳者あとがき

索引

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本文より

新版の序

1.プロパガンダ・モデルとは

 本書が中心に据えている「プロパガンダ・モデル」とは、アメリカのメディアの働き(パフォーマンス)を、その活動の場となっている基本的な制度構造や関係性の観点から説明するために、わたしたちが考案した分析の枠組みである。

 わたしたちの見るところ、メディアの機能のなかには、メディアに資金を与え支配する有力な社会層の役に立ち、そのための宣伝活動を行なう役割が含まれている。そうした勢力の代表者たちは、特定の政治的な思惑を持ち、推進したい理念がある。彼らは、メディアがめざすべき方向を定め、制約を課しやすい立場にある。それを達成するために露骨な干渉がなされることは、ふつうはない。むしろ、「正しい」考えの人材が選別されていき、メディア機構の方針に一致するニュース性の定義や優先順位を、編集者やジャーナリストが完全に自分のものとして身につけることを通じて、それは達成されるのだ。

 構造的な要素としては、(1)所有と支配、(2)外部の重要な資金源(とりわけ広告主)への依存、(3)ニュースをつくり、意味を限定し、その含意を説明する力を持つ人々と、メディアのあいだの共通利害ともたれ合いの関係、などが挙げられる。
 これらに加えて、プロパガンダ・モデルには、関連性の強い他の要素も含まれている。たとえば、メディアによるニュースのあつかいに苦言を呈する能力(つまり、矢継ぎばやに組織的な非難を浴びせる「集中砲火」の能力)、「専門家」を出演させて、ニュースについての当局の見解を後押しする能力、メディア業界やエリート層のあいだでは当然とされていても一般大衆には受けの悪い基本理念や思想を、定着させる能力、などが挙げられる。

 メディアを所有し、広告主として資金を提供したり、ニュースをまっ先に定義したり、「集中砲火」を浴びせたり、「好ましい」思想を持つ専門家を提供したりする、隠れたパワーソースと同じものが、基本理念や支配的なイデオロギーを定着させるうえでも中心的な役割を果たしていると、わたしたちは考えている。ジャーナリストの行動、彼らが何にニュース性を認め、何を仕事にあたっての当然の前提とみなしているかについては、このような構造の分析から浮かび上がる誘因とプレッシャー、抑制などによって、たいていは説明できるだろう。

 メディアの働きを支配するこうした構造的な要因も、すべてを操っているわけではないし、かならずしも単純で同質な結果ばかりを生むわけでもない。メディア機構のそれぞれの部門が一定限度の自律性を保っていること、個人の価値観や職業倫理がメディアの働きに影響すること、方針の強要は不完全だということ、またメディアの方針そのものが、一般的な見方に疑問をはさむ報道や異議を表明するすきまを容認しているらしいことなどは、すでに広く一般に認められており、本書に示すような制度批判にもある程度は反映されていると言えるかもしれない。こうした配慮によって、反対意見や都合の悪い事実も、ある程度は報道されることが約束されている。

 だが、このシステムの巧妙なところは、そうした異論や不都合な情報も、一定の節度を守ったものにとどまり、つねに片隅に留め置かれることである。その結果、そういうものが存在することによって体制がけっして一枚岩でないことは証明されるのだが、当局の意向が世論を牛耳っている状況を、過度に邪魔だてするような規模にはけっしてならないのだ。

 もう一つ確認しておきたいのは、わたしたちが論じているのはメディアの構造とパフォーマンスであって、メディアが大衆におよぼす影響についてではないということだ。もちろんメディアが当局の方針を支持し、ほとんど異議を唱えなければ、望みどおりの方向に世論が動く可能性は高い。だがそれも程度の問題であって、大衆の利害がエリート層の利害と大きく食い違い、大衆が独自の情報源を持っているような場合には、当局の方針に対する疑問が広がることだってあるだろう。だがここで強調しておきたいのは、プロパガンダ・モデルは、メディアの行動を決定する諸要因を説明するものだということだ。メディアが発するプロパガンダはつねに効果的である、とほのめかすわけではない。

 初版の刊行からすでに十年以上が経過したが、プロパガンダ・モデルも、初版で紹介したケーススタディも、驚くほど有効性を保っている。新たな序文をつけ加えた理由は、このモデルを最新のものに更新すること、収録済みのケーススタディ(その部分についてはいっさい修正していない)を補足する新材料をつけ足すこと、最近話題になった問題の多くにも、このモデルが適用できることを証明すること、の三つである。

2.プロパガンダ・モデルのアップデート メディアを支配する二十四の企業

 第一章で詳述した「プロパガンダ・モデル」は、主流メディアの行動やパフォーマンスを、企業としての性格や、支配的な経済体制のポリティカルエコノミーに組み込まれていることなどを通じて、広範囲に説明するものだ。そのため本書では、メディア企業の規模拡大、メディアの集権化と資本集中の段階的な進展、多数の異種メディア(映画撮影所、テレビ局、ケーブル放送局、雑誌社、書籍出版社など)を支配するメディア・コングロマリット(巨大複合企業)の発達、グローバリゼーションによる国境を越えたメディアの普及、などに大きな関心を払っている。またメディア企業の経営が、従来の同族支配から雇われ経営者による運営へと、次第に転換していることにも注目した。雇われ経営者は、より広い範囲のオーナーに奉仕しており、市場のディシプリンにより強く縛られている。

 こうした傾向や、異種メディア間の垣根を越えた広告獲得競争の激化が、過去十年あまりの期間においても継続・強化されており、収益性重視の傾向がいっそう強まる結果になっている。したがってメディアの集権化と寡占は加速しているのだが、それに対して、共和党政権も、民主党政権も、規制当局も、事実上なんの反対もしてこなかった。ベン・バグディキアンは、『メディアの支配者』Media Monopoly〔藤竹暁訳、光文社、一九八五年〕の初版を一九八三年に出版したとき、五十社の巨大企業がほぼすべてのマスメディアを独占していると指摘した。だが、わずか七年後の一九九〇年には、そのような地位にある企業の数は二十三社に減っていた。

 一九九〇年以降は、大型企業合併の嵐とグローバリゼーションの急速な進展によって、メディア業界の寡占化はさらに進み、九社の多国籍コングロマリットが出現した――ディズニー、AOL = タイム・ワーナー、ヴァイアコム(CBSを所有)、ニュース・コーポレーション、ベルテルスマン、ゼネラル・エレクトリック(NBCを所有)、ソニー、AT&T = リバティー・メディア、ヴィヴェンディ・ユニヴァーサルである。これらの巨大グループは、世界中の大手映画制作所、TVネットワーク、レコード会社、ケーブル放送の最重要チャンネルのかなりの部分、ケーブル・システム、雑誌、大型市場向けテレビ局、書籍出版社などを、すべて所有している。最近の合併でできた最大グループのAOL =タイム・ワーナーは、インターネット・ポータル最大手を、伝統的なメディア・システムに統合したものだ。

 この他に十五の企業がこの業界を構成しており、つまるところ二十四の会社が、アメリカ市民に到達するメディアのほとんどすべてを支配していることになる。バグディキアンは、「これらの企業が一体となったときの、企業体の連携や、統一された文化的、政治的な価値観などを背景とした圧倒的な力は、アメリカの民主主義に個人がはたす役割について、不安になるような疑問を提起する」と結んでいる。

 メディアの世界を支配する九つの巨大企業のうち、GE〔ゼネラル・エレクトリック〕以外はすべて、メディア産業の枠内で広い範囲にわたる複合企業体を形成しており、コンテンツの制作と配給の両面において重要な機能を担っている。そのうちディズニー、AOL =タイム・ワーナー、ヴァイアコム、ニュース・コーポレーションの四社は、映画、書籍、雑誌、新聞、テレビ番組、音楽、ビデオ、おもちゃ、テーマパークなどをプロデュースしており、同時にまた放送局やケーブル・システムの所有、小売店や映画館チェーンなどを通して、広く流通させる能力を持っている。

 ニュースや政治にかかわる調査報道、ドキュメンタリーもときどきは提供しているものの、このようなポップカルチャーの巨大企業では、経営者たちの主要な関心はエンタテインメントだ。ABCテレビの「大金持ちになりたい人は?」(Who Wants to Be a Millionaire)やCBSテレビの「サバイバー」のようなショー番組、あるいはディズニーの『ライオン・キング』のような映画によって、大勢の視聴者を獲得し、それをもとにした関連商品の販売(クロスセリング)による相乗効果を実現することが、これらの企業が最重要とする目標なのだ。・・・・



初版の序

 本書の目的は、「プロパガンダ・モデル」について概要を説明し、それを合衆国のマスメディアのパフォーマンスに応用することだ。この企ての根底にあるのは、メディアの働きについて長年研究してきた結果、わたしたちが到達した次のような考えだ――メディアは国家や民間の活動に支配的な影響力をもつ特定利益集団のために、一般の人々の支持をとりつける役割をはたしておりメディアが何を選択し、強調し、省略するかは、このような観点から分析するといちばんうまく説明でき、時には目をみはるような明瞭さと洞察をもたらしてくれる。

 こんなことは今さら指摘するまでもないのかもしれないが、民主主義が当然のこととして想定しているのは、メディアは独立した主体であり、真実をつきとめ、報道することを使命としており、たんに有力集団の望み通りに世界を映し出すだけの存在ではないということだ。メディア業界の第一人者たちは、自分たちのニュース選択は偏見のない、職業的で客観的な基準に基づいていると主張する。彼らのこのような主張は、知識人社会からも支持される。

 しかし、もし有力な人々が言説の前提となるものを固定し、一般の人々が見たり、聞いたり、考えたりすることが許されるものを決定し、定期的なプロパガンダ・キャンペーンによって世論を「管理」できるとすれば、システムがどのように働いているかについての標準的な理解は、現実と深刻な齟齬ををきたすことになる。

 ウォルター・リップマンが「合意の捏造」(マニュファクチャー・オブ・コンセント)と呼んだものに、プロパガンダが特別な重要性をもつことは、世論やプロパガンダ、社会秩序の政治的な必要条件などを論じる人々のあいだでは、昔から認識されていた。リップマン自身が、一九二〇年代初期の著作で、プロパガンダはすでに「民衆を基盤とする政府の常設機関」になっており、着実に高度化し、重要性を増し続けていると主張していた(5)。なにもそれだけがマスメディアの仕事だと主張するつもりはないが、プロパガンダ機能はメディアが提供するサービス全体の中で、非常に重要な側面だとわたしたちは考えている。

 第一章では、プロパガンダ・モデルについてくわしく説明した。これはマスメディアにプロパガンダの役割を演じさせる力、偏見を高めさせるプロセス、その結果として起こるニュース選択のパターン、などを説明するものである。それに続く各章では、具体的な事例に照らして、このプロパガンダ・モデルがメディアの実際の反応にあてはまることを証明している。本書で展開したような体制批判は、体制派の評論家からは一般に「陰謀説」として退けられることが多い。だが、それはただの言い逃れだ。わたしたちはマスメディアのパフォーマンスを説明するために、いかなる「陰謀」仮説も使っていない。実際、わたしたちの処理の仕方は「自由市場」分析の方にずっと近く、得られる結果はおおむね市場要因の働きによって決定されている。メディアに偏った選択が起こってくる原因は、ふさわしい思想の持ち主をあらかじめ選んでいることや、先入観を身につけてしまうこと、そこで働く人々が、オーナーや組織や市場や政治権力によって課される制約に、慣れてしまったことなどにある。

 検閲はおもに自粛のかたちでなされており、それを遂行するのは、メディアの組織上の必要や情報提供者の現実に適応した記者や解説者たち、あるいはメディア組織の上層部にいる管理者たちである。後者は、オーナーや市場や政府中枢の権力がおしつける(しばしば自分でもそれを信じているが)制約を実行に移すために、その地位に選ばれた人々である。

 ニュースを定義し、方向づけ、メディアが一定の線を踏み外さぬよう保つことに、率先して力を発揮する重要な役者たちがいる。本書で描いているのは「誘導市場システム」であり、それを誘導するのは政府や企業社会のリーダー、メディア企業の大株主や役員、彼らが選別した個人やグループであり、建設的な提言を行なうよう任されている、あるいは許されている人々だ。これらの提唱者は数が少ないので、機会あるたびに共同歩調をとることができる。ライバルが少ない市場で売り手にできることと同じだ。とはいえ、たいていの場合、メディアのリーダーたちの行動は、どのみち同じようなものだ。彼らは同じレンズを通して世界を見ており、似たような制約と誘因を与えられているのだから。その結果、あるテーマは大きく報道し、他のものについては一斉に沈黙するという、暗黙のうちの共同行動と、独走者のない競争におちいってしまうのだ。

 マスメディアは、あらゆる問題に一枚岩で反応するわけではない。有力な人々のあいだで意見が分かれているような場合には、メディアの議論にもそれが反映されるだろう。ただし、そこに見られる多様性は戦術的なレベルでの判断の相違にすぎず、それを通じて達成される目的はおおむね共有されている。根本的な大前提の正当性に疑問をはさむような見解や、国家権力の実際の行使はシステムの要因に基づいていると示唆するような議論は、たとえエリートのあいだで戦術論争が白熱していたとしても、マスメディアからは排除されるだろう。

 本書では、そうしたケースをいくつも検討していくことになるが、じっさい、このパターンは広く浸透している。たまたま今これを書いている時点でニュースを独占しているものを例にとると、ニカラグアが挙げられる。アメリカから攻撃を受けているニカラグアが、どのように描き出されているかを考えてみよう。この場合、エリートのあいだの意見の相違がある程度大きいため、テロリストである軍部を支援することが、ニカラグアを「より民主的に」して「隣国への脅威を弱める」ために、有効な手段なのかと問うことが可能になっている。

 だが、マスメディアはほとんど意見らしいものを示さないし、ニュースコラムの中に、ニカラグアは、エルサルバドルやグアテマラよりも民主的である(オーウェル語法以外では、どこからみても)と示唆する記事が登場することもない。また、ニカラグアでは、エルサルバドルやグアテマラのように、政府が一般市民を毎日のように殺しているわけではないし、エルサルバドルやグアテマラとは異なり、ニカラグアの政府は国民の大多数にとって重要な社会経済改革を実施したということ、ニカラグアは隣国に軍事的な脅威など与えておらず、実際にはむしろアメリカとその従属者や代理人からの継続的な攻撃にさらされていること、またアメリカがニカラグアを恐れるのは、その長所のためであって、短所とされるもののためではないこと(10)、などが示唆されることもめったにない。

 マスメディアはまた、背景にある事情を論じるのを避けており、また非常に類似した事件として、アメリカが一九五四年、グアテマラに「民主主義」を持ち込むために、CIAの後ろ盾による侵略を企てたことを紹介し、その結果について語ることも避けている。この侵略によって途絶えたグアテマラの民主主義は、いまだに復活していない。アメリカは、数十年にわたってグアテマラの(他の多くの国々でも)少数特権階級による統治を支持して、国家テロの組織化を助けてきたし、ブラジルやチリやフィリピンでは(これも、他の多くの国々においてと同様に)民主主義体制の転覆を承認したり、実際に転覆させたりしており、世界中のテロ政権と「建設的につきあい」、ニカラグアでも、残虐なソモサ体制が揺るがなかったうちは、同国の民主主義になんの関心も持たなかった。それにもかかわらず、メディアは、ニカラグアの「民主主義」について懸念しているというアメリカ政府の主張を、額面通りに受けとっている。

 ニカラグアにどう対処するかという、エリート層のあいだでの戦術的な意見の相違は、一般の論議にも反映されている。だが、マスメディアはエリート層が重視することをそのまま受け入れ、彼らと癒着したニュースづくりによって、アメリカの政策を意味をもつ前後関係の中で説明することを怠り、アメリカが行使する暴力と侵略の証拠をシステマティックに隠蔽し、サンディニスタの印象を極端に悪く描いた。その逆に、エルサルバドルやグアテマラは、ずっとひどい経歴を持つにもかかわらず、「穏健派」の指導者のもとで民主主義に向けて苦闘していると描かれ、それゆえ同情的に承認されるにふさわしいとされる。こうしたやり方は、中央アメリカの現実についての一般大衆の理解を歪めており、そればかりかアメリカの政策目標についても、重大な虚偽を伝えている。これは、ジャック・エリュールが次のように強調する、プロパガンダの本質的な特徴である。

 
――プロパガンダを行なう者は、当然ながら、自分が奉仕しているおおもとの真意を明かすことはできない……そんなことをすれば、計画を公開の議論の俎上にのせてしまい、世論の詮索を許すことになり、結果として目的の達成を妨げることになるだろう……プロパガンダの使命はまさにその逆で、そのような計画の隠れ蓑となり、真の意図を隠すことにある。
 
 理論の枠組みや議題を決定し、不都合な事実を民衆による点検の対象から排除する政府の力は、本書の第三章で論じた中央アメリカ諸国の選挙に関するメディア報道の中で、みごとに実証されているし、それ以降の章であつかった個々の事例のいずれにおいても、はっきりと示されている。

 政府の政策にエリートの側からは異議がほとんどないときでも、マスメディアには、手違いによって若干の異論が入り込む余地はあるし、政府の主張の信憑性を損なうような事実(きちんと理解されればの話だが)が見つかることもある。通常は、三面記事の中だ。これが、アメリカのシステムの優れたところの一つだ。不都合な事実の報道量が増大することもないわけではない。ヴェトナム戦争中に、批判的な勢力の拡大(一九六八年からはエリート層の中にも広がった)に伴って、実際にそういうことが起こった。しかし、この例外的なケースにおいても、ニュースや時事評論が公認のドグマ(情け深いアメリカの目的とか、アメリカは侵略やテロに対処しているという思い込みを、自明の前提とする)に準拠していない場合は、マスメディアに登場するのはきわめて稀だった。それについては、第五章〔第2巻〕で論じている。

 ヴェトナム戦争中も、戦後にも、国家の政策を弁護する側にまわった人々の共通した手法は、不都合な事実の報道、メディアの識者たちの周期的な「悲観論」、戦術をめぐる論争、などをとりあげて、メディアが体制に「敵対的」であり、あげくには「負け戦」に導いたことの証拠であると主張することだった。そんな主張がばかげているのは、本書の第五章および補遺3で詳述した通りだが、それでも、こういう主張をすることには、二つの利点があった。マスメディアのほんとうの役割を隠蔽することと、メディアに圧力をかけて国策プロパガンダの前提にいっそう頑強に固着させることである。

 長年わたしたちが主張してきたのは、このプロセスの「自然さ」――不都合な事実も、ごく控えめに、また適切な前提の枠内にとどまるかぎりは、容認されるが、根本的な異議の申し立ては、事実上マスメディアから除外される(だが、重要視されない印刷物には許される)――が、当局による検閲制度よりもずっと効果的に、かつ信頼されるかたちで、愛国的な優先課題を伝達するプロパガンダ・システムを支えているということだ。

 メディアの優先事項や偏向を批評するために、本書では、少なくとも若干の事実については、しばしばメディアそのものから引用した。このことは、典型的な「不合理な推論」におちいる可能性を招いている。すなわち、マスメディアを批評する者が、主流マスメディアから事実を引用していることは、それ自体が決定的な「証拠」として、その批評がみずからの主張を裏切るものであり、また係争中の問題についてのメディアの報道は、じっさい妥当なものであることを証明している、という矛盾である。

 だが、メディアがある問題について一部の事実を提供していることは、その報道の適切さや正確さについて、なにひとつ証明するものではない。実際、マスメディアは、この後の各章で詳述するように、多くのことを文字通り隠蔽している。
 だが、ここでもっと重要なのは、ある事実に向けられる注目のしかたの問題だ――その位置づけ、論調、反復頻度、それが提示される分析の枠組み、それに付随して意味を与える(あるいは理解を妨げる)関連事実などである。ある特定の事実を探している注意ぶかい読者が、熱意と鑑別力によってそれを突きとめることはあるだろう。だがそのことからは、その「事実」に、ふさわしい注目と前後関係が与えられていたのかどうか、読者に理解できるかたちで提供されていたのか、それとも実質的に歪められ、隠蔽されていたのかは、なにひとつわからない。どの程度の注目がふさわしいかについては議論の余地があるだろうが、ある特定の事実が、熱心で懐疑的な研究者によってメディアの中に発見されたからといって、それをもって、極端な偏向や、事実上の弾圧が存在しないと実証されたかのように言うのは、意味がない。

 本書の中心テーマの一つは、義憤キャンペーンと隠蔽、ぼかしと強調、前後関係や前提や問題設定の取捨選択などにみられる明瞭なパターンは、支配権力にはきわめて有用であり、政府や主な権力集団が必要とするものに敏感に対応しているということだ。共産主義の被害者への不断の注目が、敵の邪悪さを民衆に確信させるのに役立ち、ひいては干渉や破壊活動やテロリスト国家への支援、はてしない軍拡競争、軍事衝突への道を開く――すべては、気高い目的のためなのだ。また同時に、この限られた一連の被害者に対して、わたしたちの指導者やメディアが示す熱意あふれる献身は、国や国民の本質的な人間らしさを証明するものとして、民衆の自尊心と愛国心を向上させる。

 民衆は、アメリカの庇護する国による被害者については、沈黙が守られていることに気づかない。自国の政策に奉仕するうえで、これは、敵国による被害者に関心を振り向けるのと同じ程度に重要なものだ。グアテマラ政府は、過去十年間に何万人もの殺害を実施したが、もしそれに対してアメリカのマスコミが、アンドレイ・サハロフの苦境やポーランドの神父イエジ・ポピエウシュコ(第二章参照)に与えたような種類の報道を行なっていたならば、その実施は難しかっただろう。南ヴェトナムに対して、またインドシナの他地域に対して残忍な戦争をしかけ、けっして回復できないかもしれない惨状を後に遺したことは、もしもメディアがお国の大義にはせ参じ、凶悪な侵略をあたかも自由の防衛であるかのように描いてみせ、予想収益に比してコストがあまりに高くなってようやく、戦術的な意見の不一致に対してのみ反論の扉を開くようなことをしなかったならば、とうてい実行不可能だっただろう。
 本書で論じた他のケースにおいても、また論じることのできなかった他のあまりに多くのケースにおいても、同様のことがあてはまる。
 
 本書の出版に際して、次の方々の援助を賜ったことに、感謝を申し上げたい。James Aronson, Phillip Herryman, Larry Birns, Frank Brodhead, Holly Burkhalter, Donna Cooper, Carol Fouke, Eva Gold, Carol Goslant, Roy Head, Mary Herman, Rob Kirsch, Robert Krinsky, Alfred McClung Lee, Kent MacDougall, Nejat Ozyegin, Nancy Peters, Ellen Ray, William Schaap, Karin Wilkins, Warren Witte, Jamie Young. なお、本書の内容についての責任は、すべて著者たちが負う。



第1章 プロパガンダ・モデル

 マスメディアは、メッセージとシンボルを一般庶民に伝達するシステムとして働いている。その役割は、なぐさみや娯楽や情報を与え、それと同時に個人に一定の価値観や信条、行動規範を教え込み、それによって、より大きな社会の仕組みに彼らを溶け込ませることである。富の集中が進み、階級の利害が大きく対立するような世界においては、この役割をはたすために組織的なプロパガンダが必要となる。

 権力行使の手段が官僚機構の手に握られている国々では、メディアの独占的な支配や、それを補完することの多い当局による検閲のおかげで、メディアが支配的なエリート集団の目的に奉仕するものだということは明らかである。だがメディアが民営化され、正式な検閲制度が存在しないような国々では、プロパガンダ・システムが働いているのを見抜くのは、はるかに難しい。それが特にはなはだしいのは、メディアがさかんに競争し、間欠的に企業や政府の不正行為を糾弾し、あばきたて、言論の自由と一般的な社会の利益の代弁者として、みずからを描いている場合である。はっきり見えてこないのは(そしてメディアの俎上にのぼらないのは)、そのような批判が限定的なものであること、また資金や手段を行使する力には巨大な不平等があり、その違いが民間のメディア・システムを利用する力に反映され、その行動やパフォーマンスに影響を及ぼしていることである。

 プロパガンダ・モデルは、このような富と権力の不平等と、それがマスメディアの利害と選択に与える重層的な影響に焦点をあてる。いかにして資金と権力が、ニュースをフィルター(濾過装置)にかけて活字にするにふさわしいものだけを残し、反対意見を故意に小さく見せ、政府や大手民間企業のメッセージを一般民衆に浸透させることを可能にするか、という流れを追跡するのである。わたしたちの考案したプロパガンダ・モデル(一揃いのニュース「フィルター」と言ってもよい)の基本的な構成要素は、次のような項目に分類される。
(1)マスメディアの有力企業の規模、所有権の集中、オーナーの富、利益志向性、(2)広告というマスメディアの主要収入源、(3)政府や企業からの情報、またこうした権力の源泉や代理人が資金と承認を与える「専門家」からの情報への、メディアの依存、(4)メディアを統制する手段としての「集中砲火」、(5)国家宗教と化し、統制手段となっている「反共産主義」。

 これらの要素は互いに影響し、補強し合う。なまのニュース素材は、一連のフィルターをくぐらせて、活字にするにふさわしいものだけを残して浄化されなくてはならない。これが会話や解釈の前提条件を定め、そもそも何に報道価値があるかということを規定する。これらにもとづいて作成、運用されているものが、つまるところプロパガンダ・キャンペーンとなるのである。

 このような濾過装置の働きによる、エリート層のメディア支配と、反体制派の存在の軽視は、あまりに自然に起こるので、メディア報道にたずさわる人々(多くの場合まったくの誠実さと善意に基づいて動いている)は、自分たちは「客観的に」、プロの目で見た報道価値を基準として、ニュースを選別し、解釈しているのだと思い込むことができる。この濾過装置による制約の枠内であれば、たしかに彼らは客観的であることも多い。この制約はとても強力で、きわめて基本的なところでシステムに埋め込まれているため、ニュースの選択には他の基準もありうるということが、ほとんど想像できなくなっているのだ。

 たとえば一九八四年十一月五日に、ニカラグアに向けてミグ戦闘機が出荷されたというアメリカ政府の緊急声明があったとき、メディアはその報道価値を査定するに際して、政府が提供するニュース材料に優先的なあつかいがなされることに内在する偏向や、政府がニュースを操作して、みずからの優先課題を押しつけ、意図的に他の材料から目をそらせようとはかっているかもしれない、という可能性を熟考してみようとはしなかった。系統的な偏向やごまかしのパターンを見抜くには、メディアの働きについて、ミクロ的(個別のニュースごとの)視点と同時に、マクロ的な視点も必要となる。
 それではここで、「プロパガンダ・モデル」の主要な構成要素をひとつひとつ詳細に説明していくことにしよう。このモデルが、この後の各章で具体的な事例に応用され、検証されることになる。・・・



第5章 インドシナ戦争 T ヴェトナム 

 アメリカがインドシナ各地でくり広げた戦争について、メディアがいかに報道したかをめぐっては、かなり多くの激しい論争がまき起こった。いくつかの個別の事件をめぐる報道が詳細に分析され、戦争報道全般についての研究も、二、三は発表された。一般に浸透している見方は、メディアが「負け戦に導いた」というものだ。戦争の恐ろしさを一般大衆にあばきたて、一九六〇年代の「対抗の文化」を反映して、公平を欠き、不適切で偏向した報道を行なった、というのがその理由とされる。体制側の権力に対する、メディアのそうした敵意をよく表わしている事例として、まっ先に取り上げられるのが、テト攻勢についての報道である。メディアのそんな姿勢は、民主主義の制度を足元から脅かすものであり、ゆえに抑制されねばならないとされる。メディアが自主的に規制するもよし、さもなければ国家の手で規制するべきである、とそういう議論がなされてきた。

 だがプロパガンダ・モデルからは、それとはちがった姿が浮かび上がる。それが示唆するのは、この戦争を報道し解説するにあたって、メディアはあたりまえの前提として、アメリカの干渉は物惜しみのない理想主義に基づいたものであり、南ヴェトナムを侵略とテロリズムから守り、民主主義と民族自決を推進するために行なわれていると、あたまから決めてかかるということだ。

 この根本的な問題にくらべれば、メディアのパフォーマンスに関して起こった論争には副次的な意味しかないが、プロパガンダ・モデルによる予想では、メディアが「アメリカの善意」という教義を無批判に受け入れ、重要問題ではすべて政府の説明に忠実に従っているからといって、それを非難する声はあがらないだろうし、それどころかメディアの反応にそうした特徴があることさえ、気づかれないだろう。アメリカ政府は、インドシナで追求した目標をすべてにわたって達成できたわけではないので、そこからすると、むしろ議論されそうなのは、メディアがかたくなに「対抗」姿勢をつらぬくあまり、公正さや客観性を逸脱してしまい、結果としてこの気高い戦争の大義をだいなしにしてしまったことを、非難すべきかどうかということであろう。
 以下で明らかにされるように、これらの予測はいずれもじゅうぶんにあたっていた。

1.メディアの「反米的なカルチャー」

「前代未聞のことだが、戦争のゆくえが決まったのは戦場ではなく、紙面や、とくにテレビ画面においてだった」――ロバート・エレガントは、これがヴェトナムにおけるアメリカの敗北につながったと主張する。メディア、なかんずくテレビが、アメリカ政府の失敗に責任があったという意見は、あちこちで聞かれる。この見方を裏書きしているのは、「アキュラシー・イン・メディア」(AIM)という右翼のメディア監視団体が制作した、『ヴェトナムをめぐる論説』(Vietnam Op/Ed)という一時間のテレビ番組だ。これは、PBSがインドシナ戦争について十三回シリーズの特別番組を放送したことを踏まえて、それに対する応答としてAIMが制作したものであり、それをPBSが自局のネットワークで放送した。

 もう少し「おだやか」な表現をとれば、メディアは一九七〇年までには、全般的な「民主主義のいきすぎ」の風潮の一翼をになう、「新たな国家権力の源泉として瞠目される」ようになっており、国内では「政府の威信の低下」にひと役買い、ひいては「海外における民主主義の影響力の低下」にも貢献したとされている。「政府や社会全体の、より広範な利益」を考えるならば、「政府とメディアのあいだのバランスを回復する」必要があるだろうし、そのためにジャーナリストが自主的に「職業倫理」をみずからに強制しないというのであれば、「それに代わる措置は、政府による規制」であろう、ということになる。

 フリーダムハウスの常任理事レオナルド・サスマンは、フリーダムハウスが出資した『ビッグ・ストーリー』という、テト攻勢のメディア報道についての研究書にコメントして、報道機関と政府のあいだに「対抗的な側面」があるのは「正常」なことだが(そんな対立があったということが、論証もなしに前提とされている)、「自由な社会制度が、みずからが維持する自由によって打倒されねばならないのだろうか」と問う。
 もっと過激なのはジョン・ローチェで、「ジョンソン政権に反対するという使命感」を追求するあまり情報をゆがめてしまった「私設の政府の働き」には、「連邦議会の調査が入るべきだ」と主張する。とはいえ議会は、メディアのすさまじい威力に「恐れをなして」、この不可欠の使命を果たさないかもしれないと、彼は懸念している。

『ニューヨーク・タイムズ』のテレビ評論を担当するジョン・コリーは、メディアは単に「無頓着な」だけであって、辛口の批評家の言うように「愛国心がない」わけではないと弁護する。対抗姿勢をとってはいるけれど、メディアは「反米的な」わけではない。むしろ、「ジャーナリズムや文筆や政治の世界にまたがるカルチャーの、ある有力な要素を反映している」だけなのだ。そこではいつも「左翼が勝つことになる……戦わずして」。というのは「左翼思想が、ほぼこのカルチャーの知的、道徳的な枠組みになっている」ので、「テレビがニュースの判断にこの文化を反映させるとき、左翼との共犯関係が成立する」からだ、と彼は述べている。
 一方、メディアの代弁者たちは、独立性をつらぬこうとする自分たちの決意の正しさを主張しながらも、番犬の役目にいそしむあまり、政府に説明を求める声がときに行きすぎたものになり、あやまちを犯す可能性もあるだろうと認めている。

 メインストリームのなかでは、議論は一定の枠内にとどまっている。それをよく物語っているのが、PBSとアキュラシー・イン・メディアが、公共テレビ放送の場で交互に番組を流すというかたちでなされた意見交換である。アキュラシー・イン・メディアが制作した『ヴェトナムをめぐる論説』という番組は、「故意にゆがめた説明」をするなどの弊害があるとして、PBSのドキュメンタリーを非難する。これに対し、くだんのドキュメンタリーのプロデューサーたちは、その報道の正しさを弁護した。この論争に意見をそえた十人あまりの論者たちの立場は、主戦派から、ダグラス・キナード将軍のようにやや戦争に批判的な人々までにまたがっていた(7)。番組の最後には、三人の「識者」をスタジオに招いて総括的な議論が行なわれた。陸軍大学のハリー・サマーズ大佐は、軍事戦略についてのタカ派の評論家であり、ピーター・ブレストラップは、メディアの戦争報道についての、もっとも手きびしい批判者の一人である。フイン・サン・トンは、司会者の紹介によれば「南ヴェトナム社会」の代弁者であるが、それによって司会者が指しているのは、アメリカに亡命したヴェトナム人の社会のことだ。

 およそ考えられないこととして議論の枠組みから外されていたのは、プロパガンダ・モデルから導かれる次のような仮説である。アメリカのインドシナ戦争をあつかうに際し、メディアはたしかに「不注意」であったが、同時にきわめて「愛国的」でもあった。なぜならメディアは、ワシントンの政府筋やそれと結託する企業エリートたちの見解に、(例によって)ぴったり寄りそっていたのだから。それは一般的な「ジャーナリズムや文筆や政治の世界にまたがるカルチャー」から、ちっとも外れていたわけではない。わたしたちの見るところ、このカルチャーからは「左翼」(好戦的な愛国主義の決めつけに疑問をはさむ反対意見がそう呼ばれる)が、ほぼ排除されているのだから。

 プロパガンダ・モデルによれば、そのことが一般的にあてはまるのは、単にトピックの選択や、それをどう報じるかについてばかりではない。問題を組み立ててニュースを提示するときの、関係枠を決定する一般的な前提についても、あてはまるはずなのだ。これははるかにゆゆしき問題である。支配エリートたちのあいだに意見の対立があるかぎりにおいては、その対立はメディアに反映される。この狭い意味においては、メディアは地位のある人々がみせる「対抗の姿勢」を引きうけ、現行の政策へのエリート層の不満を映しだす鏡となることもあるだろう。

 だが、そういう場合を除いては、メディアがエリート層のコンセンサスから外れることは、ごくまれに、限定されたかたちでしか起こらない。たとえ一般大衆の多くが、教条的なシステムによって押しつけられた前提をふり切るようなことが、じっさいに起こったとしても(インドシナ戦争中にとうとう現実となったように)、展開しつつある歴史についてのオルターナティヴな解釈に基づく真の理解を生み出すことができるのは、このうえなく勤勉で懐疑的な人たちが、多大な努力を注ぐことによってのみである。そのように真摯で、多分に個人的な努力を通じてのみ到達しうるような理解は、維持していくことも、他のところに応用することも、容易ではないだろう。これは、国内の民主主義や「海外における民主主義の影響力」について、その言葉のほんとうの意味において本気で関心を持っている人々にとっては、とても重要なことだ。

 メディアの順応主義についてのこういう判断は、主流派のメディア批評家にも部分的には受け入れられている。たとえば、フリーダムハウスのレオナルド・サスマンは、「一九六五年のアメリカの干渉は、ほとんどすべての論説欄で支持されていた」と述べる。だが一九六五年の「干渉」では、アメリカの戦闘部隊がヴェトナムに送り込まれ、北ヴェトナムは定期的に爆撃され、南ヴェトナムの爆撃も三倍の規模に拡大された。「国土を文字どおりこなごなに粉砕する無制限の空爆」が計画されていたのだ。その当時も、それ以前も、アメリカがヴェトナムに干渉する根拠がはたして正当なものなのだろうか、あるいは全面「干渉」に進む必要性があるのだろうか、という切り口から疑問を挟むような発言がまったくみられなかったのは、きわめて重要な事実だ。

 もちろん、その頃にはもう、異論の余地があるのは戦術や経費についてだけになっており、主流メディアの議論は、この狭い領域にほぼ限定されていた。一九六五年以降は、反戦派の存在や国内における論争がメディア報道の中心になったが、それでも反対勢力や抵抗派のじっさいの見解そのものが伝えられることはまずなく、ほぼ報道から排除されていた。こういう人々は、なによりもまず秩序を脅かすものとして描かれ、彼らの戦術が論じられることはあっても、その見解が論じられることはなかったのだ。「反戦運動はメディアにとって、まっとうな政治的主体のヒエラルキーの、底辺に位置していた。この人たちがニュースを利用したり、ニュースに影響したりする力は、さらに限られていた」と、ダニエル・ハリンは、テレビ報道についての調査を行なった結果から(活字メディアもほとんど違わない)結論づけている。これらのことはみな、まさしくプロパガンダ・モデルの予測にぴったり一致している。・・・



訳者あとがき 

 ジョージ・オーウェルの『動物農場』は、スターリンの全体主義体制の絶妙な風刺であると一般に受けとられている。それはそのとおりなのだが、見落とせない事実がひとつある。じつはそこには、出版社が採用を拒否した序文が付されていた。オーウェルがそこで論じたのは、自由主義を標榜するイギリス社会においても、自主規制のかたちで思想統制はおこなわれているということ、またその背後にあって、それを正当化している思想は、異なる意見の表出に対する不寛容という点では、全体主義とさほど違わないということだった。その一部を読んでみよう。
 
 自由とは、ローザ・ルクセンブルクが言ったように、「相手にとっての自由」なのだ。「貴君の発言には辟易していますが、それでも貴君がそれを言う権利だけは、命にかえてもお守りします」というヴォルテールの有名なせりふにも、同じ原則がつらぬかれている。知的自由という、西洋文明を際立たせてきた特徴に意味があるとすれば、それは、自分が真実だと思うことを口に出し、出版する権利を誰もが持っている、ということだろう――そのために共同体の他の人々に、あきらかな危害が及ぶのでないかぎりは。資本主義体制の民主主義も、欧米型の社会主義も、最近までこの原則を当然とみなしてきた。イギリス政府は、いまもそれを尊重する姿勢を誇示している。一般庶民も、不寛容の推進にはあまり興味がなく、たぶんぼんやりと「だれにも自分の意見を持つ権利がある」と思っているだろう。問題なのはもっぱら、書物や自然科学に通じたインテリたちだ。こういう、まさに自由の後見人たるべき人々が、理論においても実践においても、自由を軽視しはじめているのだ。

 現代に特有の現象が、自由主義者の変節だ。「ブルジョワ的自由」など幻想だとするマルクス主義の主張にあきたらず、いまや民主主義を守るには全体主義の手法が不可欠だとする風潮が広まっている。民主主義を尊ぶなら、手段を選ばず敵を壊滅せねばならないというのだ。では敵とはいったいだれのことか。民主主義を公然と意識的に攻撃する者だけではなく、誤った思想を流布して「客観的」に民主主義を危うくする輩も、つねにそこに含まれているらしい。つまり、民主主義の擁護には、独立した思想を撲滅することが含まれるのだ。そういう議論は、ソ連における粛清を正当化するのにも用いられた。筋金入りのソ連びいきは、粛清の犠牲者がみな告発どおりの罪を犯したとは信じていない。むしろ彼らの異端的な意見が「客観的」に体制を脅かしており、ゆえに抹殺するだけでなく、偽りの罪を着せて信用を貶めるのがふさわしいとみなしているのだ。……こういう人々は、全体主義的な手法を奨励すれば、やがては同じ手法が自分に対しても用いられるかもしれないことがわからない。ファシストを裁判ぬきで牢屋にぶち込むのを習慣にすれば、ぶち込まれるのはファシストだけにはとどまるまい。
――オーウェルが提案した序文「(イギリスにおける)言論出版の自由」
(The Times Literary Supplement, 15 September 1972)

 
 民主主義が高度に発達した「自由主義社会」において、全体主義国家にひけをとらぬような思想統制が行なわれているなどということが、いったい本当にありうるのだろうか。検閲制度も、取り締まる法律もない自由な社会において、具体的にどのようにして思想統制が行なわれるというのだろう。それを知るには、自由主義市場におけるマスメディアの制度機構を、構造的に分析することが必要だ。チョムスキーとハーマンは主にアメリカのマスメディアを参照して、体制側エリートが率いる誘導市場システムとしての「プロパガンダ・モデル」を考案し、実際のメディアの反応にあてはめて、その有効性を検証している。


 商品としての視聴者

 自由市場におけるマスメディアの行動を考えるにあたって、本書はまず、マスメディアは大企業であるというところから出発する。しかも寡占化の進んだ業界を支配する少数の独占的な巨大企業である。その行動様式は他業界の企業と変わるところはなく、基本的には商品を生産し、販売することで利益を得ている。ただしマスメディア企業の場合、生産するのはニュースや娯楽番組だが、販売する商品は、それにひきつけられた視聴者である。テレビ局の場合、それぞれの購買力や消費パターンによって細かく階層分けされた視聴者(という商品)を買うのは、広告主という大企業である。彼らの選択がメディア企業の業績を決定するため、その意向が番組のラインアップや内容を大きく左右する。視聴者の意見が反映されるのではない。このビジネスモデルにおいて、視聴者は番組の消費者ではあっても買い手ではなく、したがって影響力を行使する余地は小さい。新聞にしたところで、広告収入が大きな位置を占めるため、購読収入だけにたよる経営は競争力を持ちえない。ここでも自由市場が生み出すのは、購読者の選択が決定権を持つ中立的システムではなく、広告主の選択がメディア企業の浮沈を決定するしくみだ。
 自由市場のもとでは、受動的な存在にとどまり、与えられるものをたえまなく消費することこそが、大衆に期待される役割なのだ。法律は「言論の自由」を保障しているが、その権利が行使できる場は公共の手からもぎとられ、高値で落札したものの私物となる。アルンダティ・ロイが言うように、ネオリベラル資本主義は、たんに資本の(少数者による)蓄積だけでなく、権力や自由の(少数者による)蓄積をうながす制度であり、そこでは「言論の自由」も、「正義」や「人権」や「飲料水」や「清浄な空気」と同じように商品となり、金を払えるものだけがそれを享受する。「言論の自由」を買いとったものは、それを使って、自分たちの目的にそった「世論」という製品を製造し、流通させる。それが厳密にどのようなプロセスを踏んでおこなわれるか、それを究めるのが本書の主旨である。
 

 協力から生まれたメディア論

 本書、Manufacturing Consent : The Political Economy of the Mass Media, Pantheon Books は、一九八八年に初版が出たが、二〇〇二年に改訂された新版は、五十四ページにおよぶ新たな序文を加えて十数年の経過を織り込んだアップデート版だ。二人の著者、エドワード・ハーマンとノーム・チョムスキーは長年にわたる協力関係にあり、これ以前にも二巻にわたる共著 Political Economy of Human Rights を七〇年代末に出版しており、ワーナー社によって握りつぶされた小品を別にすれば、本書は第三冊目の共著となる。当時たまたま二人とも、メディア関係の本の出版企画を抱えていたことから、これを一本化して互いのアイディアを補填しあい、相乗効果を追求しようという案が浮かび、結果的にそれぞれのもとの企画より格段にスケールの大きい、優れたメディア論が構想されたらしい。

 じっさいの執筆分担については、ハーマンの説明によれば、序章や第一章、結論の部分はおおいに議論を重ねた完全な共著であり、ケーススタディについては、中南米と教皇暗殺計画(第二、三、四章)はハーマン、インドシナ戦争(第五、六章)はチョムスキーが、それぞれ中心になって執筆を担当し、相方は意見を述べる役割にとどまったそうだ。メディア業界の構造分析に基づいた「プロパガンダ・モデル」を考案し、メディアの(偏向した)行動を予測し、具体事例にあてはめてその精度を測るという手法は、経済学者であるハーマンの発想である。

 プロパガンダ・モデルに関しては、第一章に詳述されているのであまり深入りしないが、基本的には、マスメディアにプロパガンダの役割を演じさせる力や偏見を高めさせるプロセス、その結果生じるニュース選択のパターンなどを説明するために考案されたものだ。その核心をなすのは、なにがニュースに取り上げられるか(ひいては言説を支配し世論に影響するか)を決定する装置として、公表にふさわしい素材を選別する5段階のフィルターだ。すなわち、
 (1)メディア企業の所有と支配の構造から生じる利益志向
 (2)収入源を広告にたよることの影響
 (3)政府や大企業など、お墨付きの情報源への依存と、権力に奉仕する「専門家」の重用
 (4)集中的な攻撃キャンペーンによるメディア統制
 (5)国家宗教と化した「反共主義」
である。こうしたフィルター装置による呵責なき選別によって、既存体制の維持と強化に適するニュースだけが残される。このしくみにおいては、真実の報道をめざす個々の記者や編集者の真摯な努力も大勢に影響をあたえることはなく、むしろ中立性の見かけを与える補完的な役割をはたすのがおちである。
 第二章から第六章までは、このプロパガンダ・モデルの有効性を、具体的な事例にあてはめて検証するためのケーススタディである。おおまかに分けて、中米、南欧と東欧、インドシナという三つの地域について、一九六〇年代から八〇年代にかけて(「新版の序」のアップデートを含めれば九〇年代にも)起こった出来事と、そこにおいてアメリカがはたした役割を取り上げ、アメリカのメディアがそれをいかに報道したかを、執拗なまでに徹底的に検証している。その手法は、『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』、『ニューズウィーク』、「CBSニュース」という、アメリカを代表する四つの主流メディアの記事を網羅的にサンプリングし、一定期間のうちになにが掲載され、なにが掲載されなかったかを綿密に調べるという、気が遠くなる作業である。

 MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究室に、膨大な切り抜きを収めた資料庫があるのを映像でみたことがあるが、コンピュータ化以前の(もちろん Google もない)時代に、個人の努力でこれほどのことをなしえたことには、驚嘆すると同時におおいに勇気づけられる。チョムスキーもハーマンも、けっしてジャーナリストやインサイダーとして情報にアクセスできたわけではなく、正確で膨大な彼らの知識は、基本的にメディア(オルターナティヴを含む)を介した二次情報の丹念なチェックの成果だからだ。彼らほどの天賦の才はないにせよ、一市民としてのわたしたちも、自らの思考と好奇心を働かせることによって、マスメディアがつくり上げる虚構の網から逃れることができるはずだ、と思わせてくれる。
 そうしたサンプリング分析から浮かび上がるのは、マスメディア報道の、まさにオーウェル的な特質である。八〇年代の中米のエルサルバドルやグアテマラでは、アメリカで反ゲリラ戦の訓練を受けたテロ組織をつかって、内乱鎮圧の名のもとに、一般市民の拉致と殺人(国家テロである)を常套的な政治手段とする残虐な親米軍事独裁政権が、めまぐるしく交代したが、アメリカのマスメディアにそのような歴史は存在しない。メディアはこうした独裁者を好意的に描き、彼らへのアメリカの援助が議会で承認されるよう協力する。クーデターで新たな親米政権が登場するたびに、メディアは新政権を持ち上げる。「ここには明らかに、法則に近い一貫したパターンがある。アメリカ政府が「建設的な関係」を築きたいと考えるテロリスト国家の場合、ものごとはいつでもうまくいっており、事態は改善しつつあるとされる。けれども、いったん政権が崩壊すると、その記録は過去にさかのぼって悪辣なものに書き改められ、新たに権力を握った人物の人道的で思いやりのある性格に比べれば、極悪なものに映るように変形される。テロリストの代替わりごとに、後継者へのそっくり同じ弁護と、失脚者への遡及的な中傷がくりかえされる。」(第T巻一七六〜一七七頁)。
 

 新型の戦争概念


 六〇年代からアメリカが直接の軍事介入をしたインドシナにおいては、「戦時体制」におけるメディアが、どこまで露骨に国家に奉仕するために虚構をつむぎだしたかが示される。端的に言って、アメリカは南ヴェトナムに傀儡政権を建て、それに抵抗する現地勢力を一掃するために軍事侵略をおこない、南ヴェトナムの農村を攻撃し、住民を大量に虐殺した。七〇年代には侵略対象をラオスやカンボディアにも拡大し、インドシナ全土を爆撃して数百万人の死者を出し、国土を荒廃させ、長期にわたる壊滅的な損傷を遺した。
 だが「アメリカの侵略」という基本的な事実は、アメリカのメディアの歴史認識においては、今日に至るまで存在しない。彼らの認識では、あくまでもアメリカは「南ヴェトナムを防衛」していたのであり、それに抵抗した南ヴェトナムの大多数の住民たちは、「敵の勢力範囲」とされ、南ヴェトナム人とはみなされなかった。こうした転倒した世界観に立った報道が垂れ流されるなか、アメリカ人の大多数は真実をありのままに見ることを許されず、「南ヴェトナムの村を救うために、それを破壊しなければならない」という倒錯した言辞さえ、まかり通るしまつだった。おまけに、戦時メディアのこれほど卑屈な体制への追従でさえも、支配エリート層の目には不十分に映ったらしく、「メディアの裏切りが負け戦に導いた」という俗説が流布することになる。こんな主張をする人々が要求しているのは、冒頭に引用したオーウェルの言葉にあるとおり、全体主義的な絶対忠誠である。

 ケーススタディの各章は別々の地域・時代に起こった歴史的事件をあつかっているが、それらのあいだに有機的なつながりを見て取ることもできる。そこに一貫して流れているのは、反ゲリラ戦争、国際テロ戦略などと呼ばれる、新型の戦争概念の発達と宣伝であり、そのポイントは従来の国際戦争法規に拘束されない(つまり非戦闘員を攻撃し、民生施設を破壊し、戦争捕虜の人権をみとめない)ことにつきる。9・11以降、ブッシュ政権が推進してきた「テロとの戦争」のロジックや手法は、すでにみな出そろっており、敵とされるものの前提が、共産主義者からイスラム原理主義の国際テロネットワークに代わっただけのようだ。
 その転換点のひとつは、メディアによる架空の陰謀の捏造を描いたブルガリアン・コネクションの章で、背景として登場するエルサレムのヨナタン研究所の創設であり、ここで開催された一九七九年の国際会議が、アメリカとイスラエルがそろって国際テロの脅威を声高に討えはじめる契機となった。左派から転向したいわゆるネオコン勢力が台頭するのも、この時期からだ。また六〇年代のヴェトナム戦争時代にみられた、住民の抵抗を防ぐために彼らを「戦略村」に追い込み、自警団を編成して監視するという手法は、五〇年代のマレーシア植民地におけるイギリスの政策を手本にしたものであり、さらにその源流は三〇年代の満州国にあったようだ。これが八〇年代の中米でもふたたび採用されており、反ゲリラ戦がじつは植民地戦争の延長であることを示唆している。これらはみな、第二次大戦後のアメリカの外交政策は、共産主義からの防衛というイデオロギーの陰で、実際には第三世界を間接的な植民支配下に置き、資源をコントロールすることを主な目的としていた、という見方に合致する。

 ただし、こうした考察は本書の目的ではない。本書のケーススタディは、あくまでもプロパガンダ・モデルの有効性を測るためのものである。ここで論じているのは、事実そのものの真偽ではなく、それについてその時点で知りえた情報(真偽はどうあれ)を、マスメディアがどのように伝えたかという問題なのだ。それぞれの事例については、二人の著者が共同あるいは個別に著わした別の著作が存在しており、事実関係や著者たちの解釈の妥当性を論じる目的であれば、そちらを参照すべきである。
 

 オルターナティヴ・メディアとパブリック・アクセス

 マスメディア論の古典的な名著として、本書はいまも多数の読者を得ている(Amazon. com のサイトをみれば、チョムスキーの多々ある著作のうち、つねにベスト5に入っている)。その影響をはかるすべはないが、一つ挙げるならば、この本に感銘を受けたカナダの映像作家が、メディア論を中心にチョムスキーその人を描くドキュメンタリーの制作を思い立ち、寄付を中心に多大な資金の調達に成功し、数年にわたってチョムスキーを追跡し、膨大なフィルムを費やして完成させたことがある。一九九二年に完成した映画『チョムスキーとメディア』は、独立系のドキュメンタリーとしては異例の興行成績をおさめ、世界中で数々の賞を受賞した大傑作となった(この映画も、ようやく日本でも公開されることになった)。

 この映画が大成功を収めた背景には、六〇年代からカナダやアメリカで広まった独立系メディアの運動と、彼らの草の根的なネットワークが受け皿として存在していたことが指摘される。北米ではケーブルTVの普及に伴って、パブリック・アクセスとかコミュニティ・チャンネルと呼ばれる概念が発達した。私企業であるケーブル会社は、公共のものである道路の脇を利用してケーブルを敷設し、営利目的を追求する見返りとして、住民に一定チャンネルを開放し、住民がみずから番組を制作・放送できるよう、設備やノウハウを提供するという取り決めである。これにより、住民の手づくりによる情報発信の可能性が飛躍的に向上した。ここで重要なのは、パッケージ化された編集済みのニュースを届ける従来型のマスメディアが、大衆を受動的な存在にとどめておこうとするのに対し、パブリック・アクセスは、大衆に発言力を与えて能動化するものだということだ。それが保障するのは、マイノリティや女性など、従来型のマスメディアではおおむね客体化され、代弁されてきた人々が、みずからの声をとどける能力である。つねに主流社会の支配的な価値観をとおして解釈され、描かれてきた人々が、直接発言すること、異なるものの見方や価値観を尊重し、議論を活性化することが、オルターナティヴ・メディアの本質であろう。

 マスメディアが民衆を現実から隔離して、管理された別の現実の中に囲いこむのは、かれらの素朴な意見が専門家の決めた政策に影響を及ぼすのを避けるためだ。一般大衆は、つねに利己的で残酷であるとはかぎらないので、真実を知れば良心に従った行動をとるかもしれないからだ。そうしたマスメディアの統制を逃れるためには、テレビや新聞に代わって、自分の感覚をたよりに、世の中を筋の通ったものとして理解しようとする努力が必要だ。マスメディアが伝えないニュース、そこから人々の目をそらせようとするものに、耳をすます必要がある。

 本書の出版企画がはじめて浮上してから、かれこれ四年以上が過ぎようとしている。これほど長くかかったのには、いろいろな理由があるが、その間、模範的な編集者として辛抱強く支えてくださったトランスビューの中嶋廣さんには、じゅうぶんな感謝を表わすことばがみあたらない。おかげさまで、仕上がったのは二冊だけなのに、すでに何冊も一緒に仕事をしてきたような気がする。
 これを書いている現在、国会ではマスメディアの沈黙に守られて十分な議論もないままに、教育基本法「改正」が強行採決されようとしている。ふたたび住民の精神を「恭順な国民」の鋳型にはめて、祖国への奉仕に動員しようとする、時代を逆行するような動きが急速に強まるなか、わたしたちの声をとどけるメディアを自分たちで確保することは、これまで以上に切実な問題となってきた。その意味でも本書は、まさに今こそ多くの人々に読まれるべき本である。ここに描かれたマスメディアのありようは海の向こうのものではあるが、日本の権力者たちがそこから学んでいないことなど、まずありえないのだから。

二〇〇六年十二月  中野真紀子 
























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