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更新:2007/5/9

高校生からわかる日本国憲法の論点 

伊藤真[著
A5判並製・240頁・定価1890円(税込)/2005年7月刊行/ISBN:4-901510-33-9


「憲法は、個人を尊重し権力に歯止めをかけるもの」。
護憲改憲を論じる前に、憲法の基本の基本、
立憲主義の視点から、改憲論議のポイントを整理し明快に説く。
憲法学の常識を知れば、意識が変る。日本が見えてくる。
著者は、司法試験界では知らぬ人のいない「伊藤塾」塾長。
 

[著者]伊藤真(いとう まこと)

1958年生まれ。81年、東京大学在学中に司法試験合格。95年、「伊藤真の司法試験塾」を開設し、論点ブロックカード、フローチャートなど、「伊藤メソッド」と呼ばれる独創的な学習法を導入し、多くの短期合格者を輩出、高度で親身な講義と高い合格率により、「カリスマ講師」として熱烈な支持を集める。現在は「市民のために働く法律家の育成」を指導理念に、「伊藤塾」塾長、法学館憲法研究所の所長として、司法試験、法科大学院、公務員試験、法律資格試験の受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走する。
著書は『伊藤真の憲法入門』(日本評論社)、『伊藤真の司法試験合格塾!』(中経出版)など多数あり、なかでも『伊藤真の試験対策講座』シリーズ(弘文堂)は受験生の必携テキストとなっている。

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関連情報リンク
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:伊藤真
伊藤塾
法学館憲法研究所

目次 (下線の箇所をクリックすると本文の一部をご覧になれます。) 

はじめに

第1部 明日は国民投票! その前に

第1章 なぜいま憲法改正なのか
・あなたはまだ憲法を知らない ・改正論はどう変わったか ・九条見直しの動機 ・権力者は足かせに外したがる ・「理想の憲法」はない

第2章「国民投票」を知っていますか
・改正のハードルはなぜ高い  ・究極の国民主権  ・改正の限界  ・まだ存在しない「国民投票法」 ・「国民」とは誰か  ・たんなる手続きではない


第2部 もっと知ろう、憲法のこと
 
第3章 「立憲主義」を知っていますか
1 「道具」としての憲法
・国家を縛って国民を守る ・ルーツとしての自然権思想 ・法律は何のためにつくられるか ・民主主義に歯止めをかける ・強者にはわからない
2 日本国憲法の価値観
・国民に憲法を守る義務は無い ・明治憲法の人権論争 ・個人の尊重はリスクを負う ・生き方は自分で決める ・「国柄」と「道徳心」

4章 日本国憲法はやわかり
1 条文には序列がある
・「統治機構」は手段にすぎない ・最高法規である根拠 ・「法の支配」と「法治主義」
2 こんな権利が保障される
・基本的人権の尊重・平和主義・国民主権  ・日本の平和主義の特徴 ・象徴天皇と国民主権の関係 ・徹底した非暴力平和主義 ・「right」の訳語は「権理」だった ・国家からの自由・国家への自由・国家による自由 ・人権を制限できるのは人権だけ ・「新しい人権」をどう保障するか ・「平等」の前提 ・「内心」を表明しない自由   ・なぜ靖国参拝が議論になるか ・「学問の自由」と「大学の自治」 ・「表現の自由」はなぜ重要か ・報道はどこまで自由か ・あえて自由競争を制限する ・裁判所への信頼の根拠とは ・被害者と加害者の人権 ・国家に救済を求める自由 ・教育内容の決定権は誰にあるか ・プロ野球選手のストライキ ・国民の義務はなぜ少ないのか
3 何のための統治機構
・肥大化する行政権 ・公約違反した議員に責任はあるか ・首相はなぜ国民に説明しないか ・裁判で解決できること、できないこと ・安全弁としての国民審査 ・画期的な裁判員制度 ・なぜ違憲審査に消極的なのか ・納税者意識を骨抜きにする源泉徴収制度 ・自治体合併の問題点
4 もしも憲法がなかったら
・実感しづらい「空気」の存在 ・最高裁判例は「もう一つの条文」  ・人権侵害の最後の砦

第3部 自分の頭で考える「憲法改正」

第5章 改正案を読むヒント
・「必要性」と「許容性」 ・根幹と枝葉を見分ける ・法と現実にはズレがある

第6章 「押しつけ論」と九条の問題
1 「押しつけ論」の真意を探る

・一蹴された日本案 ・決着ずみの問題
2 九条は非現実的か
・自衛戦争も放棄する ・自衛隊は違憲か ・集団的自衛権とは何か ・憲法が目指す国際貢献 ・九条改正の考え方 ・空想的防衛論  ・「安保ただ乗り論」のウソ ・歴史のどこに価値をおくか

第7章 いまの憲法のどこが不十分か
・立憲主義との深いミゾ ・「新しい人権」をどう考えるか ・「家族のあり方」は決められない ・立法・行政の規定を変えるべきか ・憲法裁判所は必要か ・原稿の改正要件は厳しすぎるか

第8章 もしも憲法が変わったら
・批評を許さない社会 ・正しい戦争・正しい暴力 ・蟻の一穴が怖い  ・私が受けたバッシング ・今こそ憲法を選びなおす

日本国憲法全文

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本文より

護憲改憲を論じる前に、必ず知っておくべきこと    ―「はじめに」より


 憲法改正論議がメディアをにぎわしています。世論調査では改憲に賛成する人が6割を超えたと報道した新聞もあります。
 しかし私には、残念ながら政治家も含めて多くの人々が、憲法の本質をわかって議論に参加しているとは思えません。
 憲法の根本的な意義・役割とは何か。それは「権力に歯止めをかける」ということです。そのことは小学校でも中学でも高校でも、教えられていません。教科書にも出てきません。しかしこれは、憲法学のもっとも基本的な常識なのです。
「法律は国民を縛り、憲法は権力を縛る」。だから、日本国民に憲法を守る義務はありません。そして、ときに憲法は、民主主義を制限することもあります。
 そういう、憲法学の最小限の常識を知らずに、子々孫々まで影響のある改憲を行おうとすることは、たいへん危険なことに思えます。
 また、日本には改憲の手続きを定めた国民投票法も存在しません。改憲のための国民投票の「国民」が誰をさすのか、それらすべてを、これから法律をつくって決めるのだということを、あなたは知っていますか。
 この本は、そういう憲法に関わる必要かつ最も基本的な常識を説いたものです。改憲・護憲を論じる前に必ず知っていなければならないことだけを述べました。そして最後に、私自身の意見も書きました。
 けれども私の願いは、私の意見を押し付けることではなく、皆さん自身に自分で考えていただくことです。改憲、護憲、いずれの意見を持つにせよ、そうして初めて、憲法は私たちのかけがえのない財産になると思うからです。

2005年5月  「伊藤塾」塾長 伊藤真


第1部 明日は国民投票! その前に


 第1章 なぜいま憲法改正なのか


 あなたはまだ憲法を知らない

 20××年、×月××日。日本国憲法改正国民投票の当日。
 所定の投票所に行くと、選挙管理委員会の職員から投票用紙をわたされます。
 書くのは〇か×か、どちらか。ほんの数秒ですむことです。それを投票箱に入れれば、あなたは日本国の主権者として、歴史上初めて直接的に主権を行使したことになります。
 
 2005年5月の憲法記念日にあわせて実施された新聞などの世論調査の多くは、憲法改正に「賛成」と答える人が六割を超えたと報じています。国民投票のときにも皆がそのように考えて投票したら、過半数の賛成を得て、憲法改正案は可決されることになります。でも、あなたは本当に自分自身の頭で考えて、〇か×を記入できるでしょうか。たとえ自分ではよく考えて決めているつもりでも、憲法の本質を誤解してはいないでしょうか。また、「まあいいや、適当に〇をしておけば」と思っているあなたは、憲法が変わることで、あなた自身の今の生活も大きく変わるかもしれないとわかっているでしょうか。

 世論調査の結果だけみれば、多くの人が現行の憲法に何らかの不満を感じているようです。でも私には、不満を持つ以前に、そもそも憲法が自分たちの生活とどのように関わっているのかを、自分の問題として理解していない人が多いように思えてなりません。何より「憲法とは何か」、すなわち憲法とは「国民を縛るものではなく、国家権力の行使に歯止めをかけるものである」という近代憲法の大原則を知らない人が多い。

ところが、マスメディアや政治の場では盛んに改憲論議が行われており、かつては机上の空論としか思われなかった憲法改正が、現実のものになりつつあります。政党や各種団体による具体的な改正案も、いずれ次々に発表されるでしょう。

 憲法は、その国の国民の生き方を大きく左右するものです。その決定に関わるなら、その重さに見あった十分な準備が必要です。投票する国民それぞれがしっかり勉強しておかなければ、誰か声の大きな人に従うことしかできないでしょう。でも、自分自身の生き方を、他人の後ろをついていくようなやり方で決めていいものでしょうか。・・・・



 第2章 「国民投票」を知っていますか


 まだ存在しない「国民投票法」

・・・・実際に改憲を行おうとした場合、必要となる手続きは九六条に書かれているものだけではありません。これだけでは、憲法改正を行うことができないのです。

 不思議に思う人もいるでしょう。九六条には、「総議員の三分の二以上の賛成」による「発議」と「国民投票」の「過半数」と書いてありますから、改正案が国会さえ通れば、その翌日にでも国民投票で決着をつけられるように思えます。

 でも九六条には、その国民投票を具体的にどのように実施するかについては、何も書かれていません。たとえば「過半数」といっても、有権者の過半数なのか、投票数の過半数なのか、有効投票数の過半数なのか。それによって賛否の結果が違ってくる大問題ですが、憲法の条文ではそれが決められていません。

 分母を何にするかによって、改正のハードルは高くも低くもなります。有権者の過半数となると、改憲はかなり難しくなりますが、投票数の過半数であれば、そうでもありません。たとえば有権者の大半が投票所に足を運ばず、投票率が20パーセントしかなかったとしたら、有権者の10人に1人が賛成すれば憲法改正が実現します。有効投票数の過半数なら、もっと少ない賛成で可決されます。・・・・


第2部 もっと知ろう、憲法のこと

 第3章 「立憲主義」を知っていますか


 1 「道具」としての憲法 

 国家を縛って国民を守る

 本書の冒頭で、「憲法とは国民を縛るものではなく、国家権力の行使に歯止めをかけるものである」というお話をしました。これは、近代憲法の一つである日本国憲法を理解する上で、たいへん重要な意味を含んでいます。

 ひとくちに「憲法」といっても、その言葉が意味するものは一様ではありません。たとえば憲法学の分野には、「憲法と名のつくものが憲法である」という、何の説明にもなっていないような考え方もあります。
 一般的には、「憲法=国家の基本を定めた法」という理解でいいでしょう。その国の国家権力の組織やはたらき、それぞれの国家機関の関係といった「国家のあり方」を定めた法のことです。

 このような憲法のことを、憲法学的には「固有の意味の憲法」と呼んでいます。ここには文章の形で記された成文法だけでなく、慣習法のように文章の形をとっていないものも含まれます。また、君主制でも民主制でも、その内容は問いません。ですから、いつの時代であっても、およそ国家と呼べるものが存在するかぎり、そこには「固有の意味の憲法」が存在します。

 たとえば古代のギリシャやローマにも、国家のあり方を定めた「固有の意味の憲法」が存在したといわれています。日本でいえば、聖徳太子の「憲法十七条」や、明治維新の際に天皇が発布した「五箇条の御誓文」などがこれにあたります。
「固有の意味の憲法」は、その内容がいかなる価値に基づくかは問わないのですが、次に述べる「立憲的意味の憲法」と対比させると、権力者が自分の支配を正当化する道具の意味で用いられる場合が多いことがわかります。

 では「立憲的意味の憲法」とはどういうものでしょうか。
 これは、自由主義という特定の価値観に基づいて定められた、国家の基礎法です。すなわち、国家権力を制限して国民の自由と権利を保障するための法のことをいいます。そして、このように国家権力を法的に制限した憲法に基づいて政治を行うことを、「立憲主義」といいます。この「立憲主義」こそが、日本国憲法も含めた、すべての近代憲法の本質と考えられています。・・・・


 2 日本国憲法の価値観
 
 国民に憲法を守る義務はない

・・・・一般の人はあまり意識していないようですが、日本国憲法が、個人を尊重するために国家権力に歯止めをかける「立憲的意味の憲法」であることをとりわけよく示しているのが、九九条です。九九条にはこうあります。

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」

 ご覧のとおり、憲法を尊重し擁護する義務を負う者のなかに「国民」は含まれていません。憲法を守らなければいけないのは、国の象徴である天皇と、公務員、すなわち国家権力を行使できる強い立場にいる人間だということが、ここには明記されています。国民に憲法を守る義務が課せられていないことから、この憲法が国民の自由を縛るものではなく、国家権力への歯止めであることは明らかです。

 憲法も法律も同じようなものだと考えている人が多いので、「国民に憲法を守る義務はない」といわれてビックリした人もいるでしょう。しかし公務員以外の国民に、その義務はありません。法律は国民の行動を規制しますが、憲法は違います。国民が憲法を守るのではなく、憲法が国民を守るのです。

 とはいえ、国民が憲法に対して無責任でいいというわけではありません。国民には、公務員に憲法を守らせる責任があります。自分たちの権利を守りたければ、国家に歯止めをかけ続ける努力を怠ってはいけません。それが、権力の側にない国民が憲法を守るということの意味です。

 ともあれ、憲法が公務員を縛るものだと知れば、そのなかに国民の義務や責任を定めた条文がほとんど見当たらない理由がわかるでしょう。国民の人権を保障することが憲法制定の目的なのですから、それが「人権の規定ばかり」になるのは当然のことです。

 改憲論のなかには、「現行憲法は人権の規定ばかりで、国民の義務や責任に関する規定がほとんどないのでバランスが悪い」という意見も目につきますが、これは近代憲法というものを理解していない、ピント外れな意見です。国民の義務や責任を規定するのは、憲法ではなく法律の役割です。国民が負わなければならない義務があるなら、それを憲法に盛り込むのではなく、そういう法律をつくればいい。たんにそれだけの話です。そして憲法は、そのようにしてつくられた法律が人権を過剰に規制しないよう、歯止めをかけているのです。・・・・



 第4章 日本国憲法はやわかり

 1 条文には序列がある 
 
 「統治機構」は手段にすぎない

 ここからは日本国憲法の中身をより詳しく見ていくことにしましょう。何度もお話ししているとおり、その最大の特徴は「個人を尊重するために国家権力を縛る」ことですが、それは憲法全体の構成にも表れています。
 憲法は一般に、「前文」と「本文」から構成されますが、日本国憲法の場合、「本文」をさらに大きく二つの内容に分けることができます。「人権」を規定した部分(第三章)と、「統治機構」のあり方を規定した部分(第四章〜第八章)です。この二つは「立憲的意味の憲法」の大きな柱です。

 フランス人権宣言の一六条は、「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」と明言しています。権力分立が人権保障に並ぶ柱とされるのは、権力を分散させたほうが、人権がより守られると考えられるからです。

 この権力分立を定めているのが、「統治機構」のあり方を定めた第四章から第八章までなので、日本国憲法は、フランス人権宣言の定義に沿った憲法であることがわかります。

 ただし、二本の柱である「人権」と「統治機構」は、憲法のなかで同じ比重を持っているわけではありません。憲法の目的は、あくまでも個人の権利を尊重して国家権力から守ることにありますから、もっとも重要なのは「人権」について規定した第三章です。「統治機構」のあり方を定めた第四章から第八章までの条文は、人権保障という「目的」を達成するための「手段」を示したものにすぎません。「人権と統治」は、「目的と手段」の関係にあるのです。

 その意味では、同じ憲法の条文でも、重要性の差による序列があるといえます。どの条文も大切なのですが、国会や内閣や裁判所といった統治機構をつくることが、憲法の目的ではありません。また、統治機構を成り立たせるために、国民の権利や義務が定められているのでもありません。あくまでも国民の権利や自由を守るという目的のために、国会や内閣や裁判所が必要なのです。憲法改正を議論する場合、これは絶対に忘れてはいけないポイントです。・・・・


 2 こんな権利が保障される
 
 日本の平和主義の特徴

 憲法前文の第二段落では、三原則の一つである「平和主義」について述べられています。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

 ここは日本国憲法が持つ独自な特徴の一つです。九条の改正を主張する人たちからは「このパワーポリティクスの時代に、外国を信頼して戦力を放棄するとは何事だ」などと強く批判される部分ですが、私は安全保障の根幹は相互信頼にあると考えています。近隣諸国との信頼関係を築かずに、国民の生命と財産を守れるはずがありません。しかも憲法は、相手の「国」を信頼するのではなく、そこに住む「国民」の「公正と信義」を信頼するといっているのです。・・・・


 なぜ靖国参拝が議論になるか 

・・・・政教分離の大きな目的は、少数派の「信教の自由」を保障することにあります。特定の宗教が国家と結びつくと、それとは違う宗教の信者が肩身の狭い思いをしますし、心安らかに自分の信仰を持ち続けることができません。特に日本では、戦前の政府が宗教を利用して、軍国主義に走ってしまったという過去の歴史への反省から、政教分離が厳格に定められています。

 もう一つ、政教分離には「政府を破壊から救う」という目的もあるといわれます。いささか大げさな言い方ですが、これは宗教が民主主義となじみにくいものだからです。というのも、民主主義の根底には「何が正しいか絶対的には決められない」という価値相対主義があり、だからこそ、みんなで議論して物事を決めるという方法をとります。他方、宗教とは、あらかじめ絶対的に正しい価値が決まっていて、教義にしろ運営方法にしろ、すべてその価値に基づきます。政治と宗教が接近すると、その絶対的な価値観の影響を受けてしまって、民主的な決定がやりにくくなると考えられるのです。

 あともう一つ、宗教が国家に依存して堕落することを救うという目的もあります。

 政教分離を規定しているのは、二〇条だけではありません。八九条の前段には、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益」のため「これを支出し、又はその利用に供してはならない」とあります。公金や公の財産を宗教的な目的で使ってはいけないと、財政面から政教分離を規定しているのです。ですから、たとえば公人が靖国神社に参拝する際の玉串料を、国や地方自治体が払ったり、式典の際に公金を拠出したりするのは、憲法違反になります。

 しかし、国や自治体と宗教の関わりあいを、100パーセント否定することはできません。たとえば教会やお寺が火事になれば、地方自治体は消防車を出さないわけにいかない。あるいは、京都や奈良などの神社仏閣を文化財として保存するためには、ある程度の補助金を出さざるをえません。また、私学助成金は、ミッション系や仏教系など宗教系の学校にも必要です。形式的にあてはめれば、政教分離の原則に反しているといえないこともありませんが、それを一律に禁じたのでは、かえって国民に不利益が及びます。どの程度の関わりあいまで許されるのかは、憲法上の非常に大きな問題なのです。・・・・


 プロ野球選手のストライキ

 労働者と企業の関係とは、労働者が労働力を提供する代わりに、企業が賃金を支払うという契約関係であり、その契約内容は本来、双方の合意に基づき自由に決められるのが原則です。しかしそれはあくまで建て前で、たとえば労働者が給料のアップを求めても、会社側に「うちの条件が気に入らないなら他の会社に行け」と言われてしまったら、立場の弱い労働者としては、不利な条件を受け入れて泣き寝入りするしかありません。そこで労働者側にストライキ権などを認めて、対等な立場で交渉ができるようにしているのです。

 労働基本権を認めることの具体的な意味は、行使したことによって刑事的にも民事的にも責任を問われないということです。たとえば、ストライキによって企業が通常の営業活動を行えなくなったとしても、労働者側が刑法の業務妨害罪によって罰せられることはありません。また、かってに職場を放棄して仕事をしなければ、通常ならば労働契約違反として会社から損害賠償を請求されてしまいますが、労使交渉の一環として行ったのであれば、免責されます。

 さらに近年は、立場の弱い労働者を使用者と対等の立場にするためだけでなく、労働基本権を「自己決定権」として位置づける考え方も有力になってきました。労働基本権は、経済的には必ずしも「弱者」と呼べない労働者にも認められるべきだ、と考えられるようになってきたからです。

 たとえば年俸五億円のプロ野球選手や高賃金のパイロットなどは、決して「経済的な弱者」ではないのだから、ストライキ権を認めるべきではないという意見があります。しかし、先にもお話ししたように、憲法は一三条で「自分のことは自分で決める」という自己決定権を保障していると考えられています。ここには、自分が働く職場環境や労働条件を自分で決めることも含まれます。すなわち、リーグ戦を六球団で行うのか五球団で行うのかといった、自分たちの職場環境に関わる重要事項を、オーナーに任せっきりにするのでなく、自分たちも参加して決めたいと選手たちが考えるのは、自己決定権の考え方からすれば当然の要求です。したがって、経済的な強者であっても、団体交渉などを通じて労働環境の決定に参加する権利は、認められる必要があります。・・・・


 3 何のための統治機構
 
 肥大化する行政権 

・・・・重要なのが「権力分立」の原理です。国家の作用を単独の国家機関に集中させると、権力が乱用されて国民の自由が侵害される恐れがあるので、それを分散させるというのが、この考え方です。日本国憲法はこの原理に立って、国家権力の作用を立法作用、行政作用、司法作用の三つに分離し、相互に抑制均衡(チェック・アンド・バランス)を保たせる制度を採用しました。あくまで国民の権利や自由を守るのが目的ですから、これはきわめて自由主義的な制度です。

 また、作用が分散させられているのは、立法・司法・行政の三つだけではありません。そのうちの一つである立法府(国会)が衆議院と参議院の二つに分かれているのも、権力分立の原理によりますし、政治を中央の政治と地方自治に分けているのも、その一つといえます。警察権力なども、明治憲法時代は中央の内務省に集中していましたが、現在は中央の警察庁と各都道府県警とに分散されています。戦前に警察権力が乱用され、数々の人権侵害が起きたことに対する反省から、そこにも権力分立の考え方が持ち込まれました。

 権力分立を理解する上で大切なのは、「懐疑」や「不信」を前提にした原理であること、すなわち、権力を信頼するのではなく、疑ってかかることから始まった考え方だということです。

 自分たちが選んだ代表を疑ってかかるというと、あまりよい気持ちのしない人もいるでしょう。ですが、当初は人望を集めた権力者であっても、次第にその地位に溺れ、国を誤った方向に導いた例は、歴史上数多くあります。それは、国民の信託を受けた者が権力を行使する民主主義においても同じことです。そのため近代憲法の根底には、「権力の盲信は民主主義の敵だ」という基本的な発想があります。またアメリカ独立宣言の起草者の一人であるジェファーソンは、「信頼はどこまでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される」という言葉を残しました。・・・・


 4 もしも憲法がなかったら
 
 人権侵害の最後の砦

  憲法で不明確な部分を解釈によって明確化していく以外にも、最高裁の判例には重要な役割があります。「多数派」や「強者」から人権侵害を受けた「少数派」や「弱者」を救済することです。この違憲審査権の趣旨を、裁判を通じて実現しているのが判例です。

 たとえば以前、こんな裁判がありました。「エホバの証人」という宗教の信者だった高等専門学校の生徒が、「絶対的平和主義」という信仰上の理由から、体育の剣道の授業を拒否したところ、最終的には退学になってしまった事件です。その生徒は、実技をやらない代わりにレポートを書くなり何なりすると申し出て、授業でも準備体操などはやっていました。ただ、実技だけは拒否したために単位がもらえず、二年続けて留年した結果、退学処分となりました。そこで生徒側が退学処分の取り消しを求めて裁判を起こしたのですが、これについて最高裁は、信教の自由に反して、代替手段を講ずることもなく退学に追い込んだ学校側の対応は違法である、という判断を示しています。

 ほかにも、たとえば「愛媛玉串訴訟」と呼ばれる裁判では、地方自治体が宗教的な組織に公費を出すのは、政教分離の原則に反しているので違憲だということを、最高裁が明確にしました。
 また、柳美里さんの『石に泳ぐ魚』という小説をめぐる裁判では、モデルにされた女性のプライバシー権を守るために、出版の差し止めと損害賠償を認める判決を出し、出版の自由や表現の自由は、個人の生活を犠牲にしてまで認められるべきではない、という判断を示しています。・・・・


第3部 自分の頭で考える「憲法改正」

 第5章 改正案を読むヒント

 
「必要性」と「許容性」

・・・・お話ししたいのは、「必要性」と「許容性」に着目するということです。これは、なにも憲法改正について考えるときにだけ求められることではありません。あらゆる物事について意思決定を行うときに、役に立つ考え方です。「必要性」とは文字どおり、どれぐらいそれをする必要があるのかということ、「許容性」とはそれをしても大丈夫なのか、あとで何か問題が生じないかということです。たとえば、私は司法試験の受験勉強をしている間は貧乏学生だったので、食費をずいぶん切りつめていました。それで「そろそろ焼き肉でも食べて力をつけないと倒れちゃうな」というのが必要性、「でも金はあるのか、次のバイト代が入るまでもつのか」というのが許容性です。

 最終的な意思決定は、この「必要性」と「許容性」のバランスを考えて行うのが合理的です。必要性もあって許容性もある、つまり「食べなければ今にも倒れそうで、とりあえず金もある」なら、「食べる」という意思決定をすることになりますし、必要性も許容性もない、つまり「もうしばらくは生協の素うどんだけでもちそうだし、それより先に電気代を払わないと電気が止まっちゃうぞ」だったら「食べない」ことになります。私たちはふだん無意識のうちに、このような判断をして意思決定を行っていることが多いのですが、じつはこれは法律家的なものの考え方の出発点でもあります。

 もっとも、焼き肉を食べて金欠になったぐらいなら、日払いのアルバイトを探したり、とりあえず親に助けてもらったりと、いくらでも取り戻すチャンスがあります。しかし憲法改正のような重大問題は、そういうわけにはいきません。改正してしまってから、「やっぱりやめておけばよかった」と悔やんでも遅いのです。したがって、それぞれの国民が自覚的に、改正の「必要性」と「許容性」について、じっくり考えてみなければいけません。

 改憲論者の主張する憲法改正の必要性は、人によってさまざまです。ですから私たちは、誰が何をしようとして、すなわちどこに必要性を感じて憲法を改正しようとしているのかを、しっかり見きわめるべきです。「古くなって現実と乖離しているから」「閉塞感に満ちた世の中の心機一転を図りたいから」「新しい人権を保障しなければいけないから」などの多様な目的について、それぞれの「必要性」がどの程度のものなのかを、一つひとつ慎重に吟味する必要があります。たとえば「国防軍を持ち、集団的自衛権が認められるようにすべきだ」という意見があるなら、防衛や国際貢献のために本当に軍隊や集団的自衛権が必要なのかどうかを、じっくり考えるべきです。・・・・



 第6章 「押しつけ論」と九条の問題

 
1 「押しつけ論」の真意を探る

 
一蹴された日本案

・・・・新憲法がアメリカからの「押しつけ」だという批判が、はっきりした形で出てきたのは、施行から七年後の1954年、自由党の憲法調査会でのことだったといわれています。そこで、GHQに自分の草案を拒否された松本烝治氏が、押しつけの事実を証言し、それを受ける形で、翌年の保守合同で結成された自由民主党は、 「自主憲法制定」 を前面に打ち出しました。ちなみに1954年は、自衛隊が創設された年です。

 その意味で、いわゆる「押しつけ論」の出発点は、戦前の「国体護持」という目的を果たせなかった人たちの怨念のようなものだといえるでしょう。他国による占領によって受けた屈辱を晴らしたいという、民族的な欲求もあっただろうと思います。

 とはいえ、当時、すべての日本国民がGHQによる占領を「屈辱」と感じていたとはかぎりません。一方では、それを「解放」と感じていた人もいたはずです。おかれている立場によって、その感じ方は、まったく異なるものだったでしょう。旧体制を維持したいと考えている権力側の人間にとっては、「屈辱」であり「押しつけ」だったかもしれませんが、旧体制によって戦争に駆り立てられ、人権を抑圧されていた国民の側にとっては、「解放」だったにちがいありません。つまり「押しつけ論」とは、権力側の人間による感情論という色彩の濃いものなのです。・・・・


 2 九条は非現実的か 

 憲法がめざす国際貢献

・・・・国際的な軍事活動にはいくつかの種類がありますが、憲法に従うかぎり、いずれの活動にも、日本は「軍隊」として参加することができません。ちなみに国内では「軍隊ではない」とされている自衛隊も、国際法上は「軍隊」として扱われます。たとえば自衛隊員が業務のために乗った旅客機は「民間機」ではないので、相手国からは当然攻撃の対象にされます。

 自衛隊が国際法上は軍隊として扱われることは、政府の見解でもあり、そのため以前は「自衛隊の海外派遣はできない」とされていました。それが現在では、「武力行使と一体にならなければ海外に自衛隊を派遣することも可能」「多国籍軍への協力も可能」という見解に変わっています。

 そもそものきっかけは、1990年の湾岸戦争でした。日本は巨額の資金提供によって多国籍軍を支援したものの、「金だけ出して人を出さない」といわれて、あまり感謝されませんでした。これを残念に思った人たちが、自衛隊を海外に派遣できるように整備したのが、九二年に成立したPKO協力法です。この法律によって、自衛隊はカンボジア暫定行政機構に参加しています。

 ただしPKO協力法は、あくまでも紛争当事者間で停戦が合意されている地域への派遣だけを認めるものでした。ところが2001年、米国で発生した9・11テロ事件を受けて、さらに踏み込んだ内容の法律が成立します。それが「テロ対策特別措置法」で、当事者間の停戦合意のみならず、国連決議も不要、たとえ戦争中であっても、後方支援ならば派遣できるという内容でした。これによって、自衛隊は、物資の空輸や洋上での燃料補給などの後方支援を行い、アメリカから「日本が戦後初めて現在進行中の戦闘行為に協力した」と高く評価されました。

 こうした活動は、たとえばNATO(北大西洋条約機構)が集団的自衛権の名のもとにやっていることと同じです。それを日本は、テロ対策特別措置法によって可能にしました。事実上、集団的自衛権の行使に道を開いたという意味で、この法律は大きな転換点になったといえます。・・・・



 第7章 いまの憲法のどこが不十分か

 
「家族のあり方」は決められない

 人権規定に関しては、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」を定めた二四条を改正しようとする動きもあります。

 二四条は、一項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定し、続く二項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と定めています。これは一三条の「個人の尊重」を踏まえた上で、家族生活において男女が対等な立場であることをうたったものです。明治憲法時代、「家制度」の下で、女性が個人として尊重されなかったことに対する反省が、その根底にあります。この規定を条文に盛りこんだのは、現行憲法の草案作成にたずさわったベアテ・シロタ・ゴードンさんという、当時22歳のアメリカ人女性でした。じつはアメリカ合衆国憲法には、男女平等規定はありません。彼女は、日本に世界の先駆けになってほしいとの願いをこめて、この条文を提案したといいます。

 いまや家庭における男女の平等を定めるのは、世界の趨勢です。韓国でも、2005年3月に民法が改正され、男性中心の家制度を支えてきた「戸主制」が廃止されることになりました。これまで韓国では、父親が家父長として大きな権威を持ち、戸主の継承も男系が優先されていましたが、この制度が憲法裁判所から事実上の違憲判決を受けたことで、民法を改正せざるをえなくなったのです。

 ところが日本では、家族が崩壊しつつあるという危機感から、二四条を見直して、家族の尊重を憲法で明確に規定すべきだと主張されるようになりました。たとえば自民党試案は「国民は夫婦の協力と責任により、自らの家庭を良好に維持しなければならない」という内容の「家庭等を保護する責務」を定めていますし、読売試案でも、現行二四条にあたる条文の第一項に、「家族は、社会の基礎として保護されなければならない」という規定をおいています。・・・・



 第8章 もしも憲法が変わったら

 
批判を許さない社会

・・・・改憲論にもいろいろな流れがありますが、私たちが、とくにその動向に注意すべきものが二つあります。世界共通の価値である「個人の尊重」を後退させようとする流れと、日本固有の価値である「平和主義」を後退させようとする流れです。

 まず、前者の流れに沿った改憲は、私たちの生活をどのように変えるでしょうか。個人の尊重が後退するとは、逆に「公共性の尊重」が前面に出てくるということです。自由よりも秩序、個人よりも国家や集団が重視される世の中になる。それによって生じる大きな変化は、二つ考えられます。

 一つは、私たちの「内心」に国家が介入してくるということです。道徳や愛国心といったものを、国家が個人に押しつけることが許される。これは大変に窮屈なことでしょう。そのような生き方を受け入れていると、やがて私たちは自ら律し自ら立つという、「自律性」と「自立性」を失い、自分の頭で物事を考えることができなくなってしまいます。国家が提示してくれる価値観や生き方に従うことで、日々の生活や安全が保障されたとしても、それは「奴隷の幸福」にすぎません。

 もう一つの変化は、他人との「違い」が認められなくなることです。「個人の尊重」とは、「みんなと違う個人」であることを認める考え方ですが、それが後退すれば、いわゆる「異端」を許さない社会になります。現在は、他人に迷惑をかけないかぎりは基本的に何をしても自由ですが、公共性が重視されるようになれば、たとえ他人に迷惑をかけなくても、あまりみんなとかけ離れた行動は許されません。服装やヘアスタイルなども含めて、ライフスタイルが一定の枠にはめられてしまう可能性が高いのです。・・・・


 私が受けたバッシング

 とはいえ、そういう私自身、若い頃は、憲法の価値をしっかりと認識していませんでした。学生時代は法学部でしたが、アメリカ人の友人に「自分はこれからロースクールに入って弁護士を目指すつもりだ。ついては、日本の憲法で一番大切なことを一つだけ教えてくれ」と質問されて、まともに答えられなかった。その友人に「おまえはそれでも日本人なのか」とあきれられて、そこで初めて、憲法をちゃんと勉強しようと思い立ちました。

 学んでみると、個人の尊重が憲法の中核的な価値であり、法律と憲法は役割が違うこと、そして憲法は国家権力に歯止めをかけるものであることなどを知って、たいへん驚くとともに、なんて緻密に考えぬかれた体系なんだろうと感動しました。法律家を目指したのも、その憲法の価値を、現実の生活の中で実践したいと思ったからです。

 ですが、それはやはり頭のなかだけの理解だったように思います。とくに、憲法が「弱者」を守るために国家権力に歯止めをかけるものだということは、実感できなかった。前述したとおり、それは私がずっと「強者」の側の人間だったからです。

 憲法の本質を、やっと肌で感じたのは、自分が初めて「弱者」の側に立ったときでした。私は、司法試験の合格直後から受験指導に携わり、弁護士とのかけ持ち時代を経て、現在はこの仕事に専念しています。これは法学教育の世界において、決して主流派とは呼べない立場です。塾を立ち上げた当時から、大学の法学部こそが本当の学問の場であり、受験テクニックを教えるだけの予備校なんて百害あって一利なし、というのが多くのかたの考えでした。

 しかし、私はそうは思いませんでした。もちろん大学の法学教育は学問として重要ですが、一方で、法律の実務家を養成するための教育も必要です。日本には、そのための教育機関が存在しないから、自分は受験指導というかたちで、真の法律家を育成する実務教育を実践しているのだ、受験テクニック偏重の予備校なんかじゃない、という自負がありました。

 幸い私の考え方に共感して、多くの学生が集まってくれるようになったのですが、そのぶん風当たりは強くなりました。大学の法学教育を空洞化させた元凶とまでいわれて、さまざまなバッシングを受けました。長年の夢だったプロジェクトを諦めなければならなかったときは、どうして一民間企業の一個人のすることにそこまで、という思いでした。この国で、少数派の立場で、既存の勢力に対抗してやりたいことを貫く難しさを痛感させられつづけたことは、憲法の存在意義を身をもって知るという意味で、たいへん貴重な体験でした。

 このように、憲法の価値を「学習する」ことと「体験する」ことのあいだには、かなりのギャップがあります。しかし、ずっと「強者」の立場にいる人が、憲法の価値を実感できないわけではありません。欧米の人は、憲法をかちとった先人の苦闘を語り継ぎ、自らの体験として受け入れることを、意識的に行っています。日本人は、そういったことにあまり自覚的でないように思えますが、現在の日本国憲法も、個人が尊重されない社会のなかで、抑圧され、命を落とした先人の犠牲の上に成り立っているものです。

 待っていてできる体験には限りがありますが、意思とイマジネーションによる体験は、誰にも開かれています。私も、戦争被害者のかたをはじめとして、私などとは比べものにならない苦しい体験をなさってきた方々のお話を聞き、憲法の価値をますます確信するにいたりました。今度は私がそれを語り継ぎ、若い世代の人たちが憲法の価値を体験するお手伝いをしたいと思っています。それがこの国の、この憲法の下に生まれた者の責任だと考えるからです。
























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