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2003年03月24日

[N・14] 私はなぜ池田晶子さんに『14歳からの哲学』の執筆を依頼したか[2]

「自力で出版」篇

 問題は、こういう恐るべき中学に行き当たったとき、子どもがどういう判断をするか、である。独力で生活している年齢ではない以上、事態を自力で変えられるかどうかはわからない。というより、それは非常に難しいだろう。しかし事態をどう考えるか、それに対してどういう自分なりの判断をもつかは大変大事なことだ。それがすなわち文部科学省のいう「生きる力」である。

 そういう力を身につけるためにはどうすればよいか。もちろん、方法はただ一つ、本を読んで考えるしかない。そこで何か適当な本を見つけて与えようとしたのだが、これがないのである。十代前半から読めて、自分と世界について、あるいは生きているということ、考えるということ、その道具である言葉について、はたまた自分、他者、社会、規則、自由、善悪、死、存在というようなことについて、正面からどう考えたらよいのかを語った本は、皆無なのだ。

 当代名前のよく知られた方々の書かれた「青年のための哲学」という類の本もあるにはあるが、読んでみると、それなりに考えさせるものの、私にはイマイチぴんと来ない。もう少しはっきりと、切迫した問題に  対するものとして、言い換えれば回りくどくなく、直接的に書いてほしいのだ。
 そこで、近所の増田書店のオヤジさんに訊いてみることにする。
 「中学・高校生が世の中や生き方を考えようとするとき、どんな本があるんでしょうか」
 「そうねえ、いろいろあるけど、でも定番となると、これしかないかなあ」
というので棚から持ってきてもらったのは、なんと岩波文庫・吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』である。これ、文庫の初版は1982年だけど、ほんとの初版は1937年ですよ。巻末の解説を読むと、新潮社が山本有三編で刊行した『日本少国民文庫』の最終回配本とある。「少国民」でっせ。
 「本当にこんなの今でも読まれてるんですか」
 「なに言ってんの。奥付見てごらんよ」
 なるほど2001年4月、ついこの前に第47刷とある。
 「今でも夏休みとか冬休みの前に積んどくと売れるね」
いやあ、マイッタ。活字離れとかなんとかもっともらしいことを言いながら、こりゃあ出版社の怠慢だわ。ということはつまり、自分の怠慢だ。
 実はこれ以外に、偉人伝というジャンルも探した。関川夏央さんがニガい郷愁をこめて語り、斎藤美奈子さんが、そうは言ったって、女の子の読むものはジャンヌ・ダルクとかナイチン・ゲールとか、つまるところウルトラマンに出てくる地球防衛隊の男の集団に奉仕するアンヌ隊員の話しかないじゃないの、とからかったアレである(これは正確な要約ではない。興味のある方は斎藤さんの『紅一点論』ちくま文庫、をお読みください)。
 引っ越す前に住んでいた市の図書館に探しにいくと、偉人伝のコーナーにあったのは、たったの3冊。ビートルズとココ・シャネルとガンジー。ガンジーはともかく、ビートルズとココ・シャネルじゃなあ。

 仕方がないので、『君たちはどう生きるか』を35年ぶりくらいで読み直す。文庫の解説は、かの丸山真男先生である。読んでみると、なるほどよくできている。以下は、こちらで企画を立てるために下準備として作った、この本についてのノートである。

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『君たちはどう生きるか』はなぜこのジャンルの王様なのか(2002年4月17日)

吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』は、1937年以来のロングセラーとなっているこのジャンルの定番、というより王様であるが、これには何が書かれているか。
まず人間の捉えかたとして、社会科学的認識が不可欠であると説く。具体的には、
    世間および人間の多様性について
    世界の広さについて
上記を前提にした上で、以下のテーマが取り上げられている。
    貧富の差、いじめ
    働くということ(手伝い)
    真理あるいは発見の社会的共有の必要について(真理の社会性)
    生産と消費
    人間の強さについて
    卑怯について
       反省するということ
       汝自身を知れ、意味と意義
       成長とは何か

また上記の事柄を叙述するにあたり、仕掛けとして同年代の主人公を登場させるというフィクショナルな方法をとる。そして、この主人公の行動と内面を「おじさん」なる人物に批評・批判させることにより、弁証法的に話を進めてゆく。
この本がなぜ、かくも長く読まれているかといえば、その本当の理由は、最後の、「卑怯」から出発し、死ぬほどの後悔と反省を経て、再生を果たす、すなわち友情を取り戻し、一回り大きく成長を遂げる「物語のクライマックス」のリアリティと普遍性によると思われる。
『哲学の教科書』の場合、人間と世界の「社会科学的認識」は「存在論的認識」に換わることになろう。それを語る上で、補強的な仕掛けを作るべきなのかどうか。」

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 以上の事柄を踏まえて、「中学生からの教科書」の執筆を今お願いするとすれば、私には池田晶子さん以外の方は浮かばなかった。読者を十台の前半からと想定すれば、何かの知識に拠りかかって書く人はダメである。素手で考えることのできる人でなくてはならない。のみならず、子供向けの内容をと考えて書けば、必ず失敗する。この年代は子ども扱いした瞬間に、ソッポを向く。子どもにも読めるが、大人が読んでも名著である、そういう本でなければならない。
 この本を書くときの意図と苦労を、池田さんは小社のPR誌『トランスビュー』第5号にこんなふうに書いておられる。

 「中学生向けの道徳の本といえば、六十数年前に発刊された吉野源三郎の 『君たちはどう生きるか』 以来、ほとんどないのだそうだ。
 そう言われて、今なお版を重ねている岩波文庫を購って読んでみたけれども、なるほど名著である。十五歳の少年の日常と心境とが、彼のおじさんとのノートのやり取りという物語形式で綴られてゆくのだが、 思春期の人が抱く疑問や関心、躊躇などが正確に提示され、答えられている。ただ、吉野氏は哲学者ではあるけれども、 やはり時代的に物の見方が社会科学に大きく偏っており、人間は生産関係によって生かされているとか、貧乏な子を馬鹿にしてはいけないなどのくだりが、いかにも古い。

 思春期の人が抱く疑問というのは、今や、さらに哲学的な、正確には存在論的なものへと純化されているのではなかろうか。すなわち、「君たちはどう生きるか」と問うより先に、「生きているとはどういうことか」。 論理的には、 確かにそうであるはずである。そして、そう問うことが、それほど唐突ではなくなってきているのではなかろうか。

 で、書き下ろしたのが『14歳からの哲学―考えるための教科書―』。語り口こそ工夫を要したが、内容的なレベルは少しも落としていない。 落とせるはずがない。ともに考えようとしているのは、「生きている」もしくは「在る」、 この絶対的な謎である。謎は謎なのだから、謎に難しいも易しいもないからである。しかし、大人向けに語る時にきわめて便利な、逆説や反語、諧謔や意地悪が禁じ手である。これが苦しかった。専門用語こそ私は普段から使わないけれども、「観念」や「精神」くらいの言葉ですら慎重を要する。謎を語るに際し制限を課するということがいかに苦しいものか、改めて味わった。

 けれども、やはりこれは必要な仕事なのではなかろうか。それふうの哲学入門書はいくらも出回っているけれども、 人生の謎を捉えた形跡もなく人生を教えようとは無理に決まっている。 甘口もしくは愚痴みたいな人生哲学に騙されてしまう前に、 存在の謎を明確な知で捉えてもらおうというのが、 意図である。 「どう生きるか」 はその後から必然的に出てくるはずである。 また、そのような道徳だけが、正しく効力をもつはずなのでもある。」
 
 できあがってみれば、これは初めに自分で考えていたよりもはるかに大事な本になった。
話は唐突に飛ぶが、アメリカのイラク攻撃をめぐって、川口外務大臣は、日本は態度を曖昧にしたままで行くと言い、もしアメリカがイラクを攻撃したら日本はどうするのかと野党の議員に訊かれて、仮定の話には答えられないと、言葉を発しなかったのに対し、フランスのシラク大統領は、反対の論陣を張り、世界を説得しようとしている。ことにおよんで、言葉を持たないあるいは持てない国と、アメリカという唯一の超大国にはっきり反対を言う国の違いは何か。フランス著作権事務所のカンタン・コリーヌさんに聞いたところでは、フランスではリセ(高等学校)で文科系を選択すると、じつに週8時間、哲学の時間がある。理科系でも週に3時間である。

 どっちがいい悪いとは必ずしも言えないが、しかし両者の言葉の使い方や姿勢には、はっきり教育の影響があると思う(カンタンさんは、フランス人と日本人のちょうど中間くらいが良いのだけど、とおっしゃっていたが)。
沈黙は金というのも、なるほど文化の一つの形ではあるが、それは考えた末に選ばれた沈黙の場合であろう。考えがないから言葉を発することができないというのでは、ただのアホである。そして公教育が、その考えるということを教えないのなら、これは自力でやるほかない。
そういう次第で、『14歳からの哲学―考えるための教科書―』は世に出ることになったのである。
だから、ここからは半ば本気の大風呂敷になるが、池田さんのこの本がどれほど多くの人に、どのように読まれるかには、私たちの将来の世界がかかっているのである。

[後日談]
 子どもが転校した先の中学のクラス担任は数学の先生で、子どもは塾には通わせないという方針だった。教科書は使わず、教材はすべてこの先生の手作り。そのすさまじい問題の量を見たときはどうなることかと思った。自信のない人は、冬休みに先生の家に通ってきなさいといわれて、手を挙げたのはうちの子供だけだった。それで、正月の前後4日間、子どもは先生の家に通って個人指導を受けた。この先生は、家では二人の子どもの母親であり、一家の主婦である。年末年始の4日間はとても忙しかったはずである。公立の先生が一人だけを相手にそんなことをすると、あとあと厄介なことにならないだろうかと思って、恐る恐るその旨申し上げると、私は教えるのが仕事ですからと一蹴された。謝礼を払いたいと申し出たが、お金は受け取られなかった。
 この学校の校長は、教育の方法をめぐって市議会議員に公開質問状を出し、表立って闘っている人だった。学年の変わり目に、担任の先生と校長は、何が原因かは知らないが対立し、担任の先生は、なんと退職されてしまった。ことに当たってはっきり主張する人同士というのも、これはこれで難しいのである。
 前の中学でことの起こりとなった相手のO君は、しばらくして近くの他校の生徒を恐喝し、重傷を負わせて、矯正施設に入れられた。元の中学に戻ることはできなかった。小学校の頃から自損行為を繰り返し、集団にうまく適応できなかったO君は、中学に入って、他人を傷つけるようになった。もちろん責められるべきは、本人とその親である。しかし見せかけの適応を強制し、信じてもいない嘘の言葉を吐き続けた教師たちが、それを助長したことは間違いない、と私は思っている。しかし、彼らの責任は決して問われることはない。

投稿者 n : 2003年03月24日 00:00

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