『近代思想と仏教』 本文 一部抜粋                           更新:2005/4/15

1 近代思想と仏教


1・日本の近代はなぜ仏教を必要としたか

日本近代の重層性

 そもそも「近代」という語は何を指すか、きわめて曖昧である。英語の modern、およびそれに同義の欧州語は、指示する幅が非常に広く、日本語に充てれば、近世・近代・現代のいずれをも包括しうる。それゆえ、どこに典型を求めるかで、イメージが大きく変わってくる。

 西欧における近代は、常識的には、ルネサンス、地理上の発見、宗教改革などに源流が求められる。そこから展開してゆく過程で、神に依存しない人間の個の確立が果たされたとされる。古典的な近代の精神はカントに理念的な完成を見、ドイツ観念論の展開を通して、ヘーゲルの壮大な体系に至ったが、自我の肥大化は同時にその崩壊を生み、十九世紀後半以後、マルクスやニーチェによって、近代以後(ポスト近代)へと突き進むことになる。社会史的に言えば、産業革命以後の市民[ブルジヨア]社会の変容過程を反映する。

 日本の近代を特徴づけるのは(というよりも、アジアの近代化は具体的にはさまざまな相違を持ちつつも、いずれも似た軌跡を描くことになるわけだが)、江戸時代に始まる独自の近代への方向づけが、必ずしもそのままストレートにいかなかった点である。明治期に西欧文化が流入するようになると、近代化が一気に加速されるとともに、それは常に西欧化とセットにして考えられることになった。さらに、十九世紀末になると、当時の西欧がすでに古典的市民社会の崩壊期にさしかかっていたことを反映して、近代主義と同時にポスト近代主義が導入されることになった点も看過できない。かの悪名高い「近代の超克」論は、じつはもう明治期から用意されていた課題であった。

 こうして、日本の近代は複雑な様相を呈することになった。そこでは前近代と近代とポスト近代が併存し、近代化を語るとき、同時に前近代の残存を認めつつ、かつポスト近代を語らなければならず、その三重性を担って思想が動いてゆく。それゆえ、あるときは本来ポスト近代であるはずのものが近代として語られる。たとえば、近代の終焉を指し示すニーチェが、むしろ日本においてはその超人思想の強力な自我主張の点で、個の確立を推し進めるという役割をも果たすことになる。他方、ポスト近代は往々にして一回りして前近代の伝統への回帰を目指すことにもなる。しかも、ポスト近代は同時に反西欧と結びつき、非西欧=日本または東洋への回帰をも指し示す。短い生涯のうちに、国家主義・ニーチェ主義・日蓮主義とめまぐるしく揺れ動いた高山樗牛は、こうした日本近代の状況を象徴する。・・・・



2・内への沈潜は他者へ向かいうるか ―明治後期仏教思想の提起する問題―

近代仏教への視角

 ヴィクトリア『禅と戦争』の提起した問題 近代日本において仏教がどのような役割を果たしたかは、従来必ずしも十分に明らかにされてこなかった。もちろん、近代仏教史に関しては優れた成果が積み重ねられてきているが、それらによっては必ずしも、日本近代の全体的な問題の中で仏教がどのような位置を占めるかは、明らかでない。仏教は日本近代のあくまでマイナーで特殊な領域であり、全体に関わるところは少ないもののように考えられてきた。

 だが、本当にそうであろうか。戦後における思想史研究の大きな弱点のひとつは、宗教の問題をあまりに軽視してきたことであった。そこには恐らく、戦後社会科学がマルクス主義を最先鋭として、宗教を前近代の遺物のように見、歴史における適切な評価を下しえなかったという事情があるであろう。

 また、マルクスに対抗してマックス・ウェーバーに範を取る研究者たちは、宗教と近代化という問題設定こそ提示したものの、その際範型と考えられた宗教はキリスト教、なかんずくプロテスタンティズムであり、仏教に関してはほとんど無関心な態度が普通であった。

 だが、仏教が正当に評価されなかったのは、仏教研究者の側に大きな責任があったことも事実である。近代日本を読み解く大きな鍵は仏教の中にあるにもかかわらず、その点を明確に指摘しえた仏教研究者はほとんどいない。近代仏教史を一貫した史観のもとに描き出すという作業もほとんどなされていない。

 そうした中で、ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争』(一九九七)は、近代仏教研究のうえで大きな問題を投げかけ、ひとつの画期を作ったといってよいものである。昭和の戦争期における仏教者の戦争協力については、散発的ではあるが、ある程度の研究の蓄積があり、その点では必ずしもヴィクトリアの研究が新しいというわけではない。しかし、ヴィクトリアは昭和の戦争期に限らず、明治の形成期から戦後の現代に至るまで、近代全体を貫く問題として仏教者の戦争観という問題を設定し、問題史的な通史という形で、従来にない新たな視点を提供している。・・・・



3・京都学派と仏教

戦争と京都学派

 京都学派とは、そもそも何であろうか。『岩波哲学・思想事典』(中岡成文執筆)によると、「京都帝国大学哲学科に拠った西田幾多郎[にしだきたろう]とその後継者田辺元[たなべはじめ]、およびかれらの哲学を受け継いだ弟子たちを総称する」として、この弟子たち[第二世代]として、高坂正顕[こうさかまさあき]、高山岩男[こうやまいわお]、西谷啓治[にしたにけいじ]、下村寅太郎[しもむらとらたろう]、鈴木成高[すずきしげたか]らを挙げ、広い意味では三木清[みききよし]、戸坂潤[とさかじゆん]を加え、さらにその周辺に和辻哲郎[わつじてつろう]、九機周造[くきしゆうぞう]を位置づけている。それに対して、『日本思想史辞典』(田中久文執筆)では、広義には「西田幾多郎を中心に、その影響を受けた哲学者たち」であるが、「狭くは、第二次世界大戦期に、西田の学統を継いで同学科に在職し、戦争に対して積極的な意味づけを与えた高坂正顕、高山岩男、西谷啓治らを指して用いる」と、なぜ京都学派が問題となるのかを明確にしている。

 高坂・高山・西谷・鈴木は、一九四二―四三年、『中央公論』で三回にわたり座談会を開いて、その「世界史の哲学」の立場から、「大東亜戦争」の意義づけを与えようとした(その座談会は『世界史的立場と日本』〔中央公論社、一九四三〕として出版された)。『文学界』で行なわれた「近代の超克」の座談会(一九四二、翌年単行本化)には、「京都学派」から、西谷・下村・鈴木が加わっている。

 このように、「京都学派」といえば、何よりも戦争イデオローグという面がクローズアップされて批判的に見られ、それでもなおかつ彼らをどう評価できるのか、あるいは、少なくとも西田を戦争イデオローグというきめつけから救いうるか、という議論が続けられてきた。一九九四年に刊行された Rude Awakenings(にがい現実に目覚める)(ed. by J. W. Heisig and J. C. Maraldo. University of Hawai・i Press)は、日本・海外から批判派・反批判派双方の論客を集めて集約した一つの到達点である・・・・



4・阿闍世コンプレックス論をめぐって

阿闍世コンプレックスとは

阿闍世[あじやせ]コンプレックスの理論は、古沢平作[こさわへいさく]によって提唱された。古沢はフロイトのもとで精神分析を学んだが、フロイトのエディプス・コンプレックスに対して、新たに阿闍世コンプレックスの理論を提唱し、論文にまとめてフロイトに提出した。すなわち、父親の厳罰的態度に対する恐怖や反抗から罪悪感や宗教を説明しようとするエディプス・コンプレックスに対して、親が子の罪を許し、子がそれに対して心からすまないと思う懺悔心を重視した。父対子の精神的葛藤を軸とするエディプス・コンプレックスに対して、阿闍世コンプレックスは母対子の葛藤を基本とするものである(古沢、一九五三、一九五四)。

 古沢の用いた阿闍世物語は、「子供が無いうえに、年老いられる身の容色の衰退が、やがて王の愛のうすれゆく原因となることを深く憂えられた」韋提希[いだいけ]夫人が、「裏山の仙人が三年の後には死んで、夫人にみごもり、立派な王子となって生まれる」という予言者の予言を受け、三年を待ちきれずに仙人を殺して願いを満たそうとしたところに端を発する。こうして生まれた阿闍世は、父母を幽閉し、父を死に至らしめるが、その煩悶から流注[るちゆう]という病気になり、最後には釈尊の教えに触れて懺悔し、救いを得る、というのである。

 この「古沢版」阿闍世物語について、小此木啓吾[おこのぎけいご]はその出典を調査し、『教行信証[きようぎようしんしよう]』所引の『涅槃経[ねはんぎよう]』に『観無量寿経[かんむりようじゆきよう]』を加えたものであることを明らかにして、①『涅槃経』でみるかぎり、父王と阿闍世の関係が中心となっていること、②韋提希による仙人殺害の話は経典にみえず、古沢の創作であること、を指摘した(小此木、一九八二)。

 小此木はこの古沢理論をさらに発展させ、日本人の精神構造を分析する理論へと展開させた。すなわち、日本人の阿闍世コンプレックスを「日本的な一体感=甘えとその相互性、日本的な怨みとマゾヒズム、日本的なゆるしと罪意識、という三つの構成要素からなる一つの全体的な心理構造」と定義し(小此木、一九八二、二一頁)、西欧的な父性原理に対して日本的な母性原理を表わすものとした。小此木はその典型的な例として長谷川伸の『瞼の母』を挙げ、そのドラマが、「①理想化された母への一体感=甘え、②母によるその裏切り=怨み、③怨みを超えたゆるしの通じ合い、という三つの心理段階を通過する」ことを指摘し、「われわれ日本人の心性の基本構造を形づくるのは、まさにこのような母子体験である」としている(同、一二頁)。このような母性的原理にもとづく罪とゆるしの原型となるものとして、阿闍世物語を置くのである。・・・・



2 解釈の地平



1・和辻哲郎の原始仏教論


和辻哲郎の古典研究

近代日本を代表する思想家の一人である和辻哲郎(一八八九―一九六三)は、仏教に関しても重要な研究を発表している。その方面の主著とすべきものは『原始仏教の実践哲学』(一九二七)であるが、そのほかに論文として「仏教における「法」の概念と空の弁証法」(初出一九三一。後に『人格と人類性』、一九三八、に収録)があり、また戦後には雑誌『心』に仏教関係の論文を寄せ、それらは遺稿として、全集編纂の際、『仏教哲学の最初の展開』と題されてまとめられた。

 なお、日本思想と関連して仏教を扱った論文もいくつかあり、『日本精神史研究』に収録された「沙門道元」は、近代における道元研究の嚆矢[こうし]とも言うべき重要な意味を持つほか、『続日本精神史研究』には、「日本における仏教思想の移植」「日本の文芸と仏教思想」のような、日本仏教理解の上で重要な論文を収めている。もちろん、『古寺巡礼』なども美術を扱うとはいえ、仏教と関わるところが大きい。その他、草稿として『仏教倫理思想史』が残されているが、これは一九二四―二五年頃の京都大学における講義草稿と考えられる。

 このように、和辻の仏教への関心はその研究生活を通じて一貫して流れている。なかでもその原始仏教解釈はかなり強引なものではあるが、近代的な合理主義的解釈を徹底したものとして極めて注目されるものであり、その特徴や問題点は、和辻の解釈だけでなく、近代的な仏教解釈全体にわたるものとして考え直さなければならない。それ故、以下、本章では、主として『原始仏教の実践哲学』(以下『原始仏教』と略す)を中心に取り上げ、その仏教解釈の特徴と問題点を考えてみたい・・・・



2・丸山眞男の仏教論 ―〈原型=古層〉から世界宗教へ― 

〈伝統〉の形成に向けて 


話題を呼んだ『新しい歴史教科書』(扶桑社、二〇〇一)は、新自由主義史観に立って過去の歴史の通念をひっくり返す刺激的な内容に富んでいる。とりわけ顕著なのは、近代史において、明治から十五年戦争に至るまでを肯定的に描き、それに対して戦後の一連の改革期を、占領下の事態として否定的なイメージで描くという価値観を明白に表明したところにある。

 確かに戦後の歴史観は、必ずしも十五年戦争を十分に位置づけることができなかった。特に思想・文化に関しては、臭いものに蓋式で、量産された戦争賛美の文学や美術、また思想動向は長い間タブー視され、その本格的な研究がはじめられたのはきわめて最近のことである。その点を突いて、明治から十五年戦争までを一貫した流れで見ようとするのは、ひとつの問題提起である。

 だが、今度は戦後を占領下の暗い時代として描き出すことによって、戦後を継承するという重要な足場を自ら放棄することになった。執筆者の一人であり、かつ中心的なイデオローグの一人である小林よしのりは、これも話題になった『戦争論』(幻冬舎、一九九八)において、戦争世代の記憶が継承されていないことを指弾するが、しかし、記憶を戦争に直結することによって、今度は戦後の営為がすべて覆われ、否定されることになった。
 直前の過去を否定し、その前の時代につながろうとする傾向を、仮に隔世史観と呼ぶとすれば、戦後の主流の歴史思想も、そしてそれを批判する『新しい歴史教科書』の一派も、いずれも隔世史観に立つという点で奇妙に一致する。戦後の史観は、しばしば大正デモクラシーから昭和初期の共産主義運動までを肯定的に描き、その流れを押しつぶすものとして、直前の時代のファシズム・軍国主義を否定するという形で、やはり隔世史観と言わなければならない。隔世史観は、歴史の連続性に目を背け、過ぎ去った過去を恣意的に美化し、直面している現実から目を背けようとする。この欠点は、新自由主義史観の側だけの問題ではない。

 だが、日本ファシズムは日本の順調な近代化の中で唐突に闖入してきただけのものなのか。そして、それは敗戦とともにきれいに消え去ったものなのか。いちはやく日本ファシズムの分析に本格的に取り組んだ丸山眞男は、そのような理解の浅薄さに気づかざるを得なかったし、それ故にこそ、安易な楽観論にくみせず、より根底的な思想史の解明に腰を据えてかからなければならないことを痛感せざるを得なかった。

『日本の思想』(岩波新書、一九六一)の巻頭論文「日本の思想」は一九五七年に発表されたものであるが、そこでは、「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない」ことを日本の「伝統」であるとして、「思想と思想との間に本当の対話なり対決が行われないような「伝統」の変革なしには、およそ思想の伝統化は望むべくもない」(同、六頁)と批判している。・・・・



3・『歎異抄』の現代 ―山折哲雄『悪と往生』に寄せて― 

山折哲雄氏の提示する問題 


山折哲雄氏は、従来も折に触れてしばしば親鸞や蓮如を論じてきた。親鸞や蓮如は、多彩な氏の言動の根源にあるものと言うことができる。『悪と往生――親鸞を裏切る「歎異抄」』(中公新書、二〇〇〇)は、そうした氏の親鸞理解の成果を集約したものであり、そこには著者である山折氏と描かれる親鸞とが渾然一体となった山折親鸞の面目が躍如としている。そこに魅力とともに、いささかの疑念を持たざるをえない点がある。以下、ここでは山折親鸞論の魅力を解明しつつ、その疑問点を率直に提示してみよう。

 本書は「親鸞を裏切る『歎異抄』」と副題が付されているが、単純な『歎異抄』否定ではない。『歎異抄』の中にある親鸞の言葉を十分に尊重しつつ、それでもなおかつどこで『歎異抄』が親鸞からずれていってしまったかを探求し、それに対する著者の親鸞理解を対置しようとする。そこには、「一九九五年にたてつづけに発生した阪神地域の大地震とオウム真理教によるテロ事件」(「はじめに」)をきっかけにした著者の生々しい問題意識が息づき、単なる古典解釈に堕さない、まさにいま『歎異抄』と親鸞を問い直そうという問題意識にあふれている。

 本書は十二章よりなるが、大きく四つの部分に分かれるように思われる。第一、二章では、有名な悪人正機説を含めて、『歎異抄』第三、十三条の悪の論を『教行信証』と較べ合わせて、親鸞の悪と罪に対する見方をうかがう。次に第三―六章では、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という『歎異抄』第五条の言葉を手がかりに、それを裏切って親鸞門流の正統を築こうとした唯円[ゆいえん]を、ユダに喩えて批判する。第三に、第七―九章では、その問題の延長上に、「弥陀の五劫思惟[ごこうしゆい]の願をよく・・案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(第十八条)と言われるときの「一人」のニュアンスをうかがう。それは自然[じねん](第六、十六条)に結びつき、「たゞほれ・・」(第十六条)という心境に通うものである。ただ、『歎異抄』には、「自然」までは言いながら、「自然法爾事(じねんほうにのこと)」に見える「無上仏」という重要な概念が欠けている点を問題として取り上げる。最後に、第十―十二章では、『歎異抄』においては親鸞の言葉が断片的に挙げられるだけであり、それらの言葉を貫く物語性が欠けていることを指摘し、その中から物語性を復元できる箇所をつなぎながら、往生[おうじよう]と還相[げんそう]の問題を考える。・・・・



3 仏教研究への批判的視座



1・仏教史を超えて 

歴史と価値 


近代の仏教研究はいわゆる鎌倉新仏教を中心に展開してきた。もっとも、このことは常識のように考えられているが、実際には大正頃からのようであり、必ずしも近代の出発点からというわけではない。しかし、少なくとも相当に長い間、鎌倉新仏教こそ日本の仏教の中でもっとも優れたものであり、それ以外はほとんど評価するに値しないかのような見方が公認されてきた。

 その理由はさまざま考えられるが、とりわけ、鎌倉新仏教の祖師に由来する宗派が、近代においても仏教界で大きな勢力を持ち、その近代化が急務であった事態と密接に関連していることは疑いないであろう。実際に、浄土真宗の清沢満之、禅の鈴木大拙、日蓮系の田中智学らの運動は、その課題に正面から取り組み、仏教が近代においても十分に批判に耐えうる思想・宗教であることを如実に示した。キリスト教や近代の西欧文化に衝撃を受けながらも、直ちにそこに自らのアイデンティティを認めえなかった多くの知識人にとって、鎌倉新仏教はそれに代わりうる思想基盤を提供するものとなった。

 もうひとつ、特に第二次大戦後の歴史学において、マルクス主義を先頭とするいわゆる進歩史観の果たした大きな役割を無視することができない。近代日本の歴史観としてもっとも徹底したものは、皇国史観かマルクス主義の唯物史観しかないといっても過言ではない。いささか乱暴に言えば、両者を左右の両極端としながら、その中間にさまざまな潮流が配置されるのである。そのうち、皇国史観はもともと学的な検討に耐えうるものではなく、敗戦とともに消滅したのもやむをえないことであった(もちろん、その心情は今日まで底流に存しているが)。それに対して、唯物史観はそもそも科学的であることを標榜しており、事実、その提供する図式が、歴史科学の発展に果たした役割は決定的なものがあった。それによってはじめて、古代から近代(さらには未来)に至るまでの歴史の流れを、超越的な神などを持ち出さずに、一貫して人間の歴史として説明することができるようになったのである。・・・・



2・批判仏教の提起する問題

批判仏教とは?

「批判仏教」という呼称は、袴谷憲昭[はかまやのりあき]によってその著作の題名として用いられたもので、「仏教とは批判である」「批判だけが仏教である」という立場を指すものと規定されている(『批判仏教』、大蔵出版、一九九〇)。袴谷によれば、この語は「批判哲学」と「場所(topos)の哲学」を対立させる場合の「批判哲学」の呼称に由来するという。

「批判仏教」という呼称は、日本よりもアメリカの学界で Critical Buddhism として広く用いられるようになった。おおよその理解としては、袴谷、および駒澤大学における袴谷の同僚、松本史朗によって提起された、従来の研究に対して批判的な立場に立つ仏教研究を総称するものと解される。とくに松本が内面的、宗教哲学的傾向が著しいのに対し、袴谷の方が外へ向けての活動が著しく、批判仏教の性格も袴谷の活動によって特徴づけられるところが大きい。

 袴谷と松本の活動は一九八〇年代前半に準備され、一九八五年には、袴谷の「差別事象を生み出した思想的背景に関する私見」など、後にその著作『本覚[ほんがく]思想批判』(大蔵出版、一九八九)の中核をなす論文が発表された。さらに、八六年には松本が日本印度学仏教学会で「如来蔵[によらいぞう]思想は仏教にあらず」を発表し、同年、それが同学会の機関誌『印度学仏教学研究』に掲載されたことから、学界でセンセーションをまき起こすこととなった。一九八九年に袴谷の『本覚思想批判』と松本の『縁起と空』(大蔵出版)が刊行され、翌年、袴谷の『批判仏教』が出るに及んで、その議論のほぼ全貌があきらかとなった。

 二人の活動は、その後も袴谷『道元と仏教』(大蔵出版、一九九二)、『法然と明恵』(大蔵出版、一九九八)、松本『禅思想の批判的研究』(同、一九九四)などで継続され、後述のように、その説をめぐっての波紋が続いた。最初の衝撃から十年以上経ち、表面的には議論もやや沈静化してきているが、彼らによって提示された問題が掘り下げられてゆくのは、なお今後の課題である。・・・・



3・日本における禅学の展開と展望

はじめに


本章はもともと、二〇〇一年八月に北京の中国人民大学、及び中国社会科学院世界宗教研究所において講演したものである(中国語版は人民大学の講演集に収録予定)。日本の仏教研究は近代の中国の仏教研究に大きな影響を与えており、個々の研究に関しては中国側にもかなり知られているが、それが日本の歴史的文脈でどのように位置づけられるかについては、必ずしも十分に理解されていない。本章はその点を整理して、中国側の意見を求めたものである。

 それに対して中国側からは、特に最近の批判仏教やベルナール・フォール、ブライアン・ヴィクトリアの研究などへの強い関心が示された。それと併せて、本章に示したように、過去の研究者の活動を一方的に賛美や批判するのではなく、両面を冷静に見ることが、今後の研究の発展にとって重要であるという点で、意見の一致を見た。

 また今日、中国の学界が欧米の新動向にきわめて敏感になっており、東アジア研究が日本と東アジアという関係だけで見られるべきものでなく、日本―東アジア―欧米という三者の関係において見られるべきものであるという点も強く印象づけられた。振り返れば、近代の出発点からして、日本と東アジアの関係は、欧米という第三極の関与を抜きにしては成り立たないものであり、その点の自覚が改めて求められているということができる。
 禅学という針の穴から、東アジアと日本の関わりをどう見るかという大きな問題に対して、多少のヒントとなるものがあれば、と考えてここに発表する。


近代禅の形成

日本の近代は慶応元年(一八六七)の明治維新にはじまる。明治政府は江戸時代に長く続いた鎖国政策を改め、欧米に対して開国するとともに、欧米の文化を積極的に摂取しようとした。しかし、明治維新のもうひとつの側面は、幕末の尊王攘夷運動の系統を引き継いだナショナリズムである。明治維新による幕府から天皇への政治的権力の委譲は、宗教面では神道の高揚と表裏一体をなすものである。

 明治維新の混乱期に各地の神道勢力によって推し進められた廃仏毀釈の運動を背景に、明治政府は神仏分離を推し進め、やがて仏教から分離された神道によって維持する国家神道の形態を取るに至った。・・・・



4・アカデミズム仏教学の展開と問題点 ―東京(帝国)大学の場合を中心に―

はじめに

 本章の課題は、日本における仏教学の展開である。しかし、それは非常に幅の広い問題であり、全体像を把握することは容易ではない。それ故、ここではあまり問題が多岐にわたりすぎることを防ぐために、東京(帝国)大学の場合を例にとって時期を区分し、主要な動向とその問題点を検討してみたい。東京(帝国)大学は日本における仏教学の大きな拠点であり、広く影響を及ぼしてきたことは確かであり、したがって、そこを中心に検討することから、日本の仏教学全体の流れを解明する重要な手がかりが得られるであろう。以下、東京(帝国)大学における仏教学の展開を見るために、三期に分けて考察することにする。
 第一期――講師による仏書講読の開始から、大正六年(一九一六)の専任講座開設に至るまで。
 第二期――専任講座開設より、昭和二〇年(一九四五)の終戦まで。
 第三期――戦後期。

一第一期――専任講座開設まで

 日本の近代仏教学がいつ始まるかは、必ずしも確定していない。西欧の梵語[ぼんご]研究の導入というところから考えれば、南条文雄[なんじようぶんゆう]・笠原研寿[かさはらけんじゆ]が明治九年(一八七六)にイギリスに留学したところから、あるいは明治一七年(一八八四)に帰国した南条が大谷教校教授となるとともに、翌年には東京大学講師となって梵語を最初に教えたときと見ることもできる。しかし、制度としての大学における仏教の授業はより早く、明治一二年(一八七九)に東京大学において原坦山[はらたんざん](一八一九―一八九二)が講師として仏書講義を始めたのが最初と考えられている。日本の仏教学は以後、国家的使命を担った帝国大学と各宗門の命運をかけた宗門系大学、西欧から輸入されたインド学的方法と伝統的教学とが重層する形で進行する。

 東京大学が創設されたのは明治一〇年(一八七七)であり、文学部に史学哲学及政治学科が置かれ、一二年に哲学政治及理財学科と改められた。哲学関係では、哲学、哲学史、論理学、道義学(倫理学)、心理学などの講義が行なわれ、教授は外山正一[とやままさかず]、外国人教師としてフェノロサとクーパーがいた。その段階で、仏書講義が行なわれたのであるから、非常に早い段階で取り入れられたことになる。・・・・



4 アジアと関わる



1・近代仏教とアジア―最近の研究動向から― 


『思想』特集号から 

数年前から近代仏教に関心を持つようになり、縁あって『思想』九四三号(岩波書店、二〇〇二年一一月)で「仏教/近代/アジア」の特集を組むことができた。私自身の仕事の脈絡で言えば、中島隆博との共編著『非・西欧の視座』(大明堂、二〇〇一)に続くもので、後者で広く扱った「非・西欧」における近代の問題を、焦点を絞って検討しようというものであった。幸いに予想以上に好評で、いろいろな方から好意ある批評をいただいた。従来、近代仏教に関しては、吉田久一・柏原祐泉・池田英俊らの研究者によって堅実な研究が進められてきた。また、ナショナリズムや戦争との関係についての批判的研究として、市川白弦・中濃教篤・戸頃重基らが大きな問題提起を行なってきた。ブライアン・ヴィクトリアによる近年の研究も、このような流れに立つものである。しかし、従来の研究にはいくつかの点で大きな不満があった。

 第一に、近代仏教思想は近代思想の中で周縁に位置するものとして、思想史の中核に置かれることはなかった。近代思想史は西欧近代思想がいかに導入され、日本がいかにそれに対応したかということに主眼が置かれてきたが、その際、政治思想か哲学思想かが中心であった。近代の宗教史の研究も最近は非常に発展しているが、宗教社会学的立場からの新宗教研究が多く、必ずしも既成仏教の思想には光が当てられなかった。

 ところが、じつは西欧近代に対抗する原理として常に知識人の間で意識されていたのは仏教であり、仏教を抜きにした近代思想史は成り立たないといっても過言でない。それゆえ、思想史の周縁に特殊な領域として仏教思想があるのではなく、思想史の中核で、他の思想とダイナミックに交流する中で仏教思想を把握しなければならない。近年、新版の『清沢満之全集』の刊行を機に、清沢満之に対する関心が高まり、今村仁司の研究が刊行されるなど、現代思想の中で見直そうという動向が出てきたことは喜ばしいことである。・・・・



2・日中比較よりみた近代仏教 

中国の場合 

概 観
 中国の近代はアヘン戦争からはじまるとされる。イギリスの近代戦力のまえに、あまりに屈辱的な敗北(一八四二)は知識人たちの危機感をあおり、近代国家の確立が急務とされるにいたった。その後、戊戌(ぼじゆつ)変法(一八九八)に代表される近代化の運動とその挫折を経て、ついに辛亥革命(一九一一)で清朝は崩壊する。しかし、それによって社会は安定することなく、うちつづく内戦と満州事変(一九三一)以来の日本の侵略に対する抵抗戦争を経て、中華人民共和国の建国(一九四九)にいたる。

 この大きく変動する時代は、仏教にとってかならずしも順境とはいえなかった。もともと清代に仏教の活動は停滞し、知識人から背を向けられていたが、近代化のなかで、仏教はますます反時代的な迷信的なものとみられるようになった。啓蒙的な近代主義の立場から、役に立たない寺廟を接収して学校をつくって教育を興そうという動きが盛んになった。いわゆる廟産興学の運動であり、戊戌変法後に最初の高まりをみせた。民国時代になっても仏教に対する風当たりは強く、一九一五年、袁世凱政権は「管理寺廟条例」を発布して、寺廟の管理権を寺院から剥奪し、また教団の改革と仏教界の権利を主張する中華仏教総会を禁止した。一九二七年頃には二回目の廟産興学運動がピークを迎え、二九年には南京政府によって「寺廟管理条例」が発布された。

 こうした逆境のなかで、同時に他面では停滞していた仏教が新たに見直され、復興される活発な動きがみられた。仏教界の改革へ向けての最初の記念すべきできごとは、楊文会[ようぶんかい](仁山、一八三七―一九一一)による金陵刻経処の設立(一八六六)であった。中国近代の仏教者で、楊文会の影響を受けなかったものはないといって過言でない。楊文会につづいて、彼の没後、辛亥革命以後の時代の仏教界をリードして、もっとも大きな影響を残したのは太虚[たいこ](一八九〇―一九四七)であった。中国近代の仏教は、この二人を軸として展開しているということができる。
 
清朝末期
楊文会は、大病のときに『大乗起信論』に触れたのがきっかけで仏教研究に入った。経典の出版流布を目的に一八六六年に南京に金陵刻経処を設立する。楊文会の活動は主としてここを基盤に展開され、この地こそ近代仏教の揺籃の地となった。楊文会の活動は出版、教育、思想の多方面にわたる。・・・・



3・日本侵略下の中国仏教

第一節 日本侵略下の中国仏教―雑誌を手がかりに―


日本侵略下の中国仏教の雑誌 


一九九九年二月末より六月初めまで、北京日本学研究センターに滞在し、日本文化研究の大学院生の指導に従事した。その間、仕事の暇を見て、北京図書館(国家図書館)に通い、同図書館所蔵の日本古写本、及び革命前の仏教関係雑誌の調査を行なった。限られた時間であり、はなはだ不十分なものであるが、今回後者に関する調査の成果の一部を報告したい。

 北京図書館所蔵の革命前雑誌の分類カードによって、一九二〇年代から四九年までの仏教関係の雑誌を調べると、七十四部にのぼる雑誌名が見られる。ただし、これらはあくまでカードにあるものであり、それが現物に合致するかというと、残念ながら実際に見られるものは半数以下に過ぎない。北京図書館の図書整理の状況は必ずしもよいとは言えず、請求しても出てこない場合が少なくなく、カードに記載された巻・号も揃っていない場合が多い。はなはだしい場合は、別の雑誌がいっしょに製本されていることもある。

 このようなわけで、これらの雑誌が必ずしも十分に活用できるわけではないが、しかし、これらの雑誌が中国近代の仏教の状況を生き生きと描き出す最高の資料であることは誤りない。本節では、これらのうちから、一九三〇年代の終わりから四〇年代にかけて、日本侵略時代の雑誌のうちからいくつかを取り上げ、日本の侵略に対する中国仏教者の反応の一端をうかがうことにしたい。それは同時に、侵略戦争に対する日本の仏教者の対応をうかがう鏡となるものである。

 この時期は、日本侵略による混乱の中で、仏教界自体がその正常な活動を停止し、印刷出版も困難をきわめて、廃刊や休刊に追い込まれた雑誌も多い。日本の占領下では、当然ながら反日的な活動は禁じられ、反日・抗日の立場をとる仏教者は、重慶など抗日活動の盛んな地域に移らなければならなかった。・・・・



4・大川周明と日本のアジア主義 

アジア主義の曲折 ―竹内好の議論から―

 近代の日本は、興亜と脱亜の二重性に立ちながら展開してきたと言われるが、両者がどう絡み合い、アジア侵略を引き起こすに至ったかは、必ずしも自明ではない。脱亜によって、いちはやく近代化を成し遂げた日本が、欧米の帝国主義の仲間入りをしてアジア侵略へと向かったというのが、その中でもっとも分かりやすい説明である。竹内好[たけうちよしみ]は、それを次のように説明する。
 
「脱亜」と「興亜」の目標は、からみ合って進行しているので、一本筋で「大東亜共栄圏」へ収束したのではない。その中間には、大隈重信の東西文明融合論のような折衷論も各種ある。ただ、大筋としては、独立の手段としての「脱亜」がのちに目的化され、「脱亜」完成によってアジア認識の能力を失った後に内容の空虚な「興亜」が看板にかかげられた、と考えていいのではないかと思う。(竹内、一九九三、二八〇頁)
 
 竹内によれば、「大東亜共栄圏」は、「内容の空虚な「興亜」」の「看板」であり、真に内容をもった「興亜」とは言いがたい代物である。それ故、この要約に従えば、近代の日本は徹底して「脱亜」の道を歩んできたことになる。竹内は、「太平洋戦争を脱亜の頂点と考えたい」とさえ言う(「日本人のアジア観」、同、九九頁)。確かに国家政策の流れを見る限り、冷徹なアジア蔑視とアジア侵略による利権の獲得に血道をあげ、それがどうにも動きがとれなくなったところで、いよいよ日米開戦に向けて、ご都合主義的に「大東亜共栄圏」をでっち上げたと見ることは、誤りではない。

 しかし、朝鮮の植民地化にあたっても、満州国のでっち上げにあたっても、一応は興亜的な口実をつけているし、また、侵略がファシズム・イデオローグの興亜的な言説に乗る形で進められてきた事実も否定できない。竹内自身が言うように、「「侵略」と「連帯」を具体的状況において区別できるかどうかが大問題である」(「日本のアジア主義」。竹内、一九九三、二九一頁)。それ故、「大東亜戦争」は「脱亜が興亜を吸収し、興亜を形骸化して利用した究極点」(同、一〇三頁)というほうが、その間の微妙な事情を言い表わしているだろう。もっともそれを「形骸化」と切って捨てることができるかどうかも疑問が残る。松本健一は、竹内を批判して、「大東亜共栄圏」にも思想性を認めてよいのではないかという。・・・・