『無意識と出会う−ユング派のイメージ療法 アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 老松克博 
本文 一部抜粋
更新:2004/06/28
はじめに――内面の空虚と方向喪失への処方箋 

 自分の内面を見つめる方法はたくさんある。代表的なのはさまざまな心理療法だが、そのなかにさえ、深いところまでじっくり探求できるやり方はあまりない。無意識の内奥に隠された「超越的な癒しと救いの力」は、宝の持ち腐れ状態になっているのだ。ユング心理学で用いるアクティヴ・イマジネーションは、そうした力を引き出すために私たちが無意識と直接にやりとりできる、他に類を見ない方法である。

 アクティヴ・イマジネーションは、スイスの深層心理学者、カール・グスタフ・ユング(一八七五〜一九六一年)が発展させた精神分析と心理療法のためのテクニックである。この方法では、私たちが日頃、何気なく行なっている想像という行為が持つ可能性を徹底的に追求する。一般に、日常の想像活動はひどく漠然とした刹那的なものになっている。ある想像を何週間、何カ月にもわたって一つのストーリーとして発展させ続けてみる、ということを試みた経験のある人は、そうはいないだろう。にもかかわらず、ほとんどの人は、想像がもたらすものの限界を知っている気になっている。だが、ちがう。あなたは、その途方もない可能性をまだ知らない。

 無意識は、ふだんは意識されていないのだから、自我にとっては異質な他者である。しかし、異質であるからこそ、自我にはない力を秘めているのだ。そして、イマジネーション、すなわち想像こそが、そうした力にアクセスするもっとも確実な方法である。ただし、何かのイメージを漠然と思い浮かべているだけでは役に立たない。イメージに対するこちら(「私」、つまり自我)からの関わり方のコツを覚える必要がある。

 コツのひとつに、無意識とのやりとりを折衝(1)と見なすということがある。自我は無意識の力を借りたいが、主導権は手放したくない。一方、無意識の側は、自我の協力を得て少しでも意識化され、現実のものとなりたがっている。そこで、自我と無意識とが、イメージという共通の言葉を介して、互いに主張すべきは主張し譲るべきは譲って折衝しようというのが、アクティヴ・イマジネーションの原理なのである。

 イメージにはもともと自律性があるので、自我が邪魔さえしなければ、無意識自身の意志によって勝手に動く。つまり、何かのイメージがふと浮かび上がってくるわけだ。これは無意識からのメッセージである。それに対して自我がある行動をすれば(もちろんイメージの世界で)、そこには自我の意見が反映されることになる。それから、再び無意識に自由に動いてもらう。つまり、次の場面が思い浮かぶに任せるのだが、これは先の「自我の意見」に対する無意識からの主張となっている。そこで、次には自我が……というふうに、いわばイメージのキャッチボールを行ない、一つの物語のかたちにしていくのである。

 こうして自我が無意識からのメッセージを読み解いて意識化していくと、無意識はたとえば神的な存在として登場するようになり、しばしば奇跡を起こす。私たちの魂は震撼させられるのだ。それは現実の世界にも波及して、癒しや救いが経験される。心理的、身体的な諸症状の消失や軽減、精神的な安らぎやある種の洞察ないしは悟りがもたらされるだろう。もちろん奇跡はつねに生じるわけではないが、だとしても、重い苦悩や症状を意味あるものとして抱えていけるようになることが多い。他のいくつかのコツも身につけた上で、アクティヴ・イマジネーションを半年から一年くらい続ければ、それが実感できるようになってくる。考え方や生き方はずいぶん変わっているだろう。

 私たちは今、方向性を見失っている。自分にはまともな能力や価値などなく、何をやっても生きにくい、と思うようになった。これは自己愛の傷つきの現われである(2)。その特徴は、ものごとがうまくいっているときには有頂天になって傲慢にふるまうが、いったん歯車が狂いはじめると、たちまち自信をなくして引きこもったり、強い相手にすがりつこうとして自分を殺してしまったりするところにある。・・・・



第一章 アクティヴ・イマジネーションとは何か

 アクティヴ・イマジネーションとは何か。「イマジネーション」の部分については、それほど説明は要らないだろう。イマジネーション imagination は、言うまでもなくイマジン imagine の名詞形。そしてイマジンとは、「イメージする」「想像する」の意である。想像するという心の活動そのものは、誰もが常日頃、行なっていることなのだから、特別な技術でも何でもない。ここはあまり難しく考えないようにしよう。

 心は自由にさせてやれば、おのずとイメージを生み出すものである。睡眠中に夢を見るのがよい例だが、イメージが生成するのはなにも睡眠中にかぎったことではない。覚醒時にもさかんに生成している。意識による束縛を解き、緊張を緩めてやれば、昼間でも夢に似た活動が続いていることがわかる。批判的、知的な態度を排して、心の動きに注意を向けていると、何かのイメージがどこからともなく浮かび上がってくるはずである。

 いま述べたような文脈から、アクティヴ・イマジネーションは起きている状態で夢を見るテクニックである、と説明されることがある。もっともではあるが、この説明は誤解を招きやすい。アクティヴ・イマジネーションは夢とちがって、あくまでも一〇〇パーセント覚醒した、清明な意識状態で行なうものだからである。眉根を寄せて雑念を振り払う必要もなければ、綱渡りのようにして半覚醒状態に踏みとどまる必要もない。現に今この本をお読みいただいている、その意識状態でよいのである。少なくともこの点に関する訓練はいらない。

 無意識に由来するイメージは自律性を持つ。それ自身の明確な意志を有しており、勝手に行動するのである。だから、こちらが予想だにしない動きを見せたり、意外な言葉を発したりする。詳しいことはあとで説明するが、ユングの発見によれば、そこには、自我の一面性を補って心を一つの全体にまとめようとする無意識の働きがあるのだ。この全体性の実現こそが、ユングの言う個性化、すなわち心の成長や癒しのプロセスの目標である。心の成長や癒しを求めるのなら、無意識によるこうした働きを無視できない。

 無意識由来のイメージに真摯に向き合おうとするとき、自我は、そこに含まれるメッセージをいかに受け止め、いかに応えるか、そして反対に何を要求していくか、不断に判断を迫られることになる。私の理解では、労を厭わず意識的にこのような役割を引き受ける自我の態度を、ユングは「アクティヴ」という言葉で呼んだのだ。これはなかなか難しいことではあるが、自律的にふるまうイメージに対して自我がアクティヴな態度で接していけば、両者の間にはいつしか和解ないし妥協の成立する一線が見つかる。

 アクティヴ・イマジネーションにおいては、無意識由来のイメージの自律性をしっかりと感じとりながら、なおかつ自我の側もみずからの自律性を保ち続けるのが重要である。おもしろいことに、自我がアクティヴかどうか、どの程度アクティヴかに応じて、無意識の側の出方ははっきりと変わってくる。それはちょうど、自我とイメージの間で、あるいは意識と無意識の間で、キャッチボールをしているようなものである。相手からのボールをどのように受け、どのように投げ返すか。こちらからの投げ返し方によって、次に相手が投げてくるボールもおのずとちがってくるだろう。・・・・



第二章 ユングの分析心理学.

・・・・心の構造は、意識と無意識に分けて考えることができる。無意識の存在を認め、それをもとにして心の働きを考える立場を、深層心理学と呼ぶ。ユングの分析心理学は、ジークムント・フロイト(1856〜1939年)の精神分析学と並んで、この深層心理学における巨大な潮流の一つとなっている。しかし、無意識をどのようなものと見るかは、両派でかなりちがう。ここではフロイト派の見方にはふれないが、ユングの説のユニークな点は、無意識がさらに個人的無意識と集合的無意識に分けられるとするところである。つまり、心には基本的に、意識、個人的無意識、集合的無意識の三層構造が存在することになる。

 まず、意識はふつう、自我(すなわち「私」)を中心として一つにまとまっている。ところが、古典的なタイプの多重人格に見られるように、自我を中心としない意識もないではない。通常の意識とはちがう意識も存在しうるのである。こうした異質な意識の存在は、イメージの自律性と密接につながっており、アクティヴ・イマジネーションに取り組む際の大前提にもなっているので、少し詳しく述べておこう。

 自我はコンプレックスの一つである。コンプレックスとは、本来、「複合体」を意味する言葉であって、何らかの元型的な核を中心に、特定の感情的色彩を持つさまざまなイメージや観念が寄り集まり、一つの塊として機能するようになったものを指す。その人のなかの劣等感に関連する諸観念の集まりを劣等コンプレックス、母親像を核とする諸観念の集まりを母親(マザー)コンプレックスなどと言うが、コンプレックスは否定的な性質のものばかりではない。私たちの心のなかでは、常時さまざまなコンプレックスが蠢いている。

 コンプレックスは、そこに集まっているイメージや観念の量、あるいはそれらのひとつひとつに付着している思い(エネルギー)の強さに見合った意識を伴う。自我は「私」を核とするコンプレックスなのだが、これは数あるコンプレックスのなかでも最強、最大で、その分、付随する意識も特別に広く明るい。あるコンプレックスが自我に匹敵するほどの多量のエネルギーを擁していれば、そのコンプレックスに伴う意識が、一時的に通常の意識にとってかわることがある。これが多重人格と呼ばれる現象である。

 しかし、意識であるとはいっても、自我意識ではない小さな意識たちは、ふつう、無意識の領域に閉じこめられている。無意識は意識とは対照的に闇の領域なのだが、自律性のある小さな意識たちがどれくらい存在しているかによって、暗さの程度はまちまちである。煌々と満月が照らす夜のような明るい闇もあれば、文字どおり漆黒の闇もあるだろう。いずれにせよ、無意識に存在する光の数々は、自我意識の光とは質を異にする。それらは人格化されて、夢やイマジネーションに姿を現わす。

 一度は通常の意識のなかにあったものが何かの理由でこぼれ落ちると、個人的無意識の領域に溜まることになる。具体的に言うと、ここには、個人の生まれてこの方の経験のうち、忘れてしまったこと、抑圧してしまったこと、あるいは今想起する必要のないことなどがしまわれている。コンプレックスは、この領域を中心として存在していると考えてよい。

 一方、さらに深い闇のなかにあるのが集合的無意識であり、そこには、個人の経験とは無関係な種々の心的内容が、はじめから一揃いしまわれている。その「内容」とは、万人に共通な(集合的な)、さまざまな心の動きのパターンである。これを元型と呼ぶ。元型そのものが経験されたり意識化されたりすることはないが、一例をあげるならコンプレックスの核ないしは結晶軸として、つねに意識に影響を与えている。

 元型の種類は無数にある。たとえば、母親らしい心の動きの背後にはグレート・マザー(太母)元型の働き、思春期に特有な心の動きの背後にはプエル(永遠の少年)元型の働きがある。また男性の意識はアニマと呼ばれる女性的な元型の影響下にあり、女性の意識はアニムスと呼ばれる男性的な元型の影響下にある。ほかには、自我が顧みることのなかったさまざまな生き方の可能性を突きつけてくるシャドウ(影)、心全体を統べる中心として働くセルフ(自己)などが代表的なところだろう。

 ユングは、人の心にこうした集合的な部分があることを、ある精神病患者の言動を見て知るに至った(4)。その患者の妄想は、患者自身が読んだことのない古代の宗教書に記されている内容にそっくりだったのである。集合的無意識の内容は、時代や場所とは無関係な、心の動きの基本パターンであるため、世界各地の神話、おとぎ話、民俗など、無数の人々が世代を超えて共有して伝えてきたもののなかに見出すことができる。集合的無意識には神話生成機能が備わっている、という言い方をしてもよいだろう。・・・・



第三章 実践のための予備知識

・・・・アクティヴとはどういうことか 「アクティヴ」という言葉を日本語にすれば「能動的」となるが、単純に「能動的」と置き換えるだけでは誤解される可能性がある。アクティヴ・イマジネーションは従来、「能動的想像法」と訳されてきたが、「アクティヴ」という言葉には以下のような特別な意味が込められているので、私はあえて原語どおり、片仮名で「アクティヴ・イマジネーション」と呼ぶことにしている。

 アクティヴ・イマジネーションは、自我のために行なう仕事ではない。心全体のために、あるいは心の全体性の実現のために行なうものだ。この技法では、自我と無意識由来のイメージとが直接に対峙し、両者がおのおのの言い分をぶつけたり譲歩したりしながら、和解、妥協のできる一線を見出していく。この作業を折衝 Auseinandersetzungという。意識と無意識を等しく尊重し、乖離のない心のまとまり、全体性の実現を図るのである。

 折衝に臨む自我は、アクティヴでなければならない。この場合、「アクティヴ」というのは、自我が本来の機能を充分に果たしている状態、自我が自我としてしっかり働いている状態を指す。しかし、それが具体的にどういうことであるかについて、意外にもユング自身はほとんど述べていない。このことがアクティヴ・イマジネーションに対する誤解を生み、普及を妨げてきた。しかし、ユングの自我論やセミナーでのコメントから考えると、おそらく今から述べるように理解してよいだろう(4)。それは私流の理解と工夫なのだが、効果は確認ずみである。この技法の実践に関して私がいちばん貢献できるところはここだと思っている。

 自我はイマジネーションの世界で、おのずと何らかの相手ないしは対象(人、動物、物、状況など)に出会う。アクティヴな自我は、まず、その出会いの意味を考えなければならない。自分がどういう状況に置かれているのか、相手は何を望んでいるのか、なぜほかならぬこの状況のなかでこの相手に遭遇したのか、といった点をよく考えるのである。とくに初期は、イマジネーションの世界に、無用なものはほとんど出てこない。出会いを経験したなら、かならずや自我にとってたいせつな意味があるはずである。

 出会いの意味は、すぐにははっきりしないこともあるだろう。それでも、仮説を立てるくらいはしないといけない。さもないと、次にどうふるまえばよいか見当をつけることができず、イマジネーションそのものが進まないからである。仮説が正しかったかどうかは、その仮説にもとづく自我の行動に無意識がどう反応したかを見れば、たちどころにわかる。仮説を立てるには、個人的な連想はもとより、元型的な拡充(世界中の神話、昔話、民俗などから類似の象徴やモチーフを探し出して、意味を明らかにする)も必要だろう。知識や直観も含め、アクティヴな自我は、持てる情報をすべて駆使してイメージに取り組む。

 出会いの意味を仮に確定したら、次には、こちらに何ができるか、何をしなければならないか、を考えていく。できること、やるべきことは、一つとはかぎらない。選択肢はできるだけ多く考えてみる。そして、それらの行為のなかから、あれこれを考え合わせて最善と思われるものを選ぶ。このときたいせつなのは、なんとなく選ぶのではなしに、「私はこれこれの理由によりこれを選ぶ」としっかり意識しながら選択を行なうことだ。これが自我のアクティヴな態度の根幹となる。

 続いて、その選択した行為をイマジネーションのなかで実行に移す。ある行為をしっかり意識して選択するということは、その結果として何が起ころうとも自我が逃げない、ということである。逆に言えば、自我は、みずからのふるまいが引き起こすいかなる結果にも責任を負う、と明確に意識しながら選択をしていなければならない。自我の選択に対して次に無意識が返してくる反応は、その選択の質に見合っている。自我がパッシヴな場合、反応は手厳しい。

 さきほど述べた「仮説」の内容も、この段階で検証されることになる。理解や判断がまちがっていたり、いい加減であったりすれば、自我は手痛いしっぺ返しを喰らうだろう。さしあたり折衝は失敗する。和解や妥協の成立する一線を見出せなかったことになる。ところが反対に、無意識の側の望みを正確に理解して、ある程度受け入れ、同時に自我の立場も必要最小限は主張するような選択肢を選べたなら、無意識はかなり好意的な反応を返してくるだろう。折衝は成功である。そして、アクティヴであることは、自我にとって最大の守りにもなるというわけだ。

 正確な理解や適切な選択がいつでもできるようなら、誰も苦労はしない。そうはいかないからたいへんなのである。実際、無意識からはしばしば悪い報いが返ってくる。しかし、うろたえるべからず。ここで重要なのは、悪い報いであっても責任を持って受けとめるということである。思い出してほしい。そのためにこそ、しっかりと意識しながら、最善と思われる行為を選択したのではなかったか。選択とその実行は、決意と覚悟を備えたものでなければならない。

 悪い報いが返ってきた場合、具体的にはどう責任をとればよいだろうか。そういうときには、少し抑うつ的になったり不安が強まったりするものだが、よほどの場合以外、イマジネーションを放棄してはいけない。都合が悪くなったら顔をそむける、というのではパッシヴすぎる。悪い報いを招くもとになった理解や選択は、いったいどういうものだったのか。そこをよく振り返ってみることがたいせつである。次の場面では、失敗の教訓を生かして、軌道修正した理解と選択を行なう。悪い報いを受けとめる、責任を果たす、とはそういうことである。仮説―検証―修正のくりかえしこそが、アクティヴ・イマジネーションの要諦と言ってよい。・・・・



第四章 実践の方法

 実践のための10段階 さて、いよいよアクティヴ・イマジネーションの方法を具体的に説明しよう。ただし、これが唯一の正しいやり方というわけではないので、ご注意いただきたい。なぜなら、アクティヴ・イマジネーションは、じつはユングが発明した技法ではないからである。この技法は、洋の東西を問わず、昔からさまざまな名前で用いられていた。ユング派分析家、バーバラ・ハナーの『アクティヴ・イマジネーションの世界』(創元社、2000年)では、現代の事例のみならず、中世ヨーロッパや古代エジプトの事例も紹介されている。
 ユングはこの方法を再発見し、「アクティヴ」という点を強調しただけである。したがって、技法上ここは絶対にこうしなければならない、というようなことはない。実践するうえでたいせつなのは、ひとりひとりのイマジナーが自分なりの方法を工夫することである。「正しい」方法は存在せず、基本的に十人十色。以下に述べる方法も、私個人の流儀がかなり入っている。工夫しだいで、もっとよい方法が見つかるにちがいない。
 とはいえ、経験的にここはやはりこうするほうがよい、というポイントもいくつかある。なるべくそういう点を中心に解説しよう。まずは全体を10の段階に分け、各段階ごとに詳しく述べていく。ただし、この段階分けは、あくまでも便宜的なものである。
 
 1.ひとりでいられる充分な時間と空間を確保する。
 2.イマジネーションの出発点を決める。
 3.相手が動きはじめるまで、特徴を細かく観察する。
 4.相手が動いたら、その意味をよく考える。
 5.こちらの取れる行動の選択肢を考える。
 6.行動を選択し、実行に移す。
 7.相手の反応を待ち、4.5.6をくりかえして先に進める。
 8.記録する。
 9.分析家に報告する。
 10.経験したことを真摯に受けとめる(儀式化を含む)。
 
 以下、これら10の項目について順に説明する。・・・・



第五章 アクティヴな態度の効果

・・・・ここからは、実例をあげながら、マテリアルの見方について述べていく。ポイントは、「アクティヴである」とはどういうことか、あるいは「アクティヴでない」とはどういうことか、の把握につきる。ほかにも重要な着眼点はあるが、まずはこの区別をしっかり押さえておかないと意味がない。〈初級編〉の最大の目標は、「アクティヴ」な態度が自我にとって当たり前のものとなることである。

 そのためには、とにかくさまざまなマテリアルを見て、「アクティヴ」な状態を体験的、感覚的に理解する必要がある。しかし、はじめから手を広げすぎては、かえって目のつけどころが掴みにくくなる。そこで、同じ一枚の絵を出発点にしたマテリアルをいくつか提示し、そこから説き起こしてみる。ちょっとした選択のちがいで、まったく同一の状況からじつにさまざまな展開が生じうることがわかっていただけるはずである。どの選択肢がどう適切だったか、あるいは不適切だったか、比較検討するのはとても役に立つ。自分には思いつきそうにないと感じられる選択も出てくるだろう。

 この方法、すなわち分析家の側が用意した特定の絵を出発点としてアナリザンドにイマジネーションを開始してもらう方法は、実際の臨床のなかでも大きな効果を発揮する。分析家がその絵から発展しうるさまざまなパターンを熟知していれば、イマジナーにいっそうの確実感、安心感を提供できるだけでなく、パッシヴな態度の現われをより鋭敏にとらえることができるだろう。その結果、いっそう深いイマジネーションの経験が可能になる。・・・・



第六章 パッシヴな態度の効果
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おわりに

・・・・イマジネーションは想像であって想像でない。たんなる想像を超えている。イマジネーションの世界では、まさに想像を絶するようなできごとがしばしば起こるのだ。そのとき自我のアクティヴな態度が最良の守りになる、ということをくれぐれも忘れてはいけない。アクティヴな態度だけが、無意識の立場や要求を受け入れつつ自我の尊厳と存在意義を強化する、という不可能を可能にする。アクティヴ・イマジネーションは、直接的に心の根源的な矛盾や対立に向き合う、唯一の方法なのである。

 昔から洋の東西を問わず、いかにすれば矛盾し対立し合うものを一つにできるかということが、心あるイマジナーの中心的な関心事になっていた。タオの回復を介して旱魃の村に雨を呼んだ中国の雨乞い師も、化合することを拒む物質同士を結びつけて賢者の石を作り出そうとしたヨーロッパの錬金術師も、全体性の実現を目指す真正のイマジナーだった。ユングとユング派のアクティヴ・イマジネーションはその流れを汲んでいる。

 アクティヴ・イマジネーションを実践しようとする者は、いわば現代の雨乞い師であり、現代の錬金術師である。差別のない社会の実現も、恒久的な世界平和の実現も、錬金術師が夢見た賢者の石と同じく、実際には達成不可能な目標であるかもしれないが、だからといって放棄してしまうわけにはいかない。賢者の石とは、錬金術の最終目標となる物質の名前であると同時に、そうした不可能にかぎりなく接近していくプロセスそのものの呼び名でもあった。不可能に挑むイマジネーションによって、錬金術師は、私たちに数々の貴重な知恵を残したのである。

 アクティヴ・イマジネーションは、対立し合うものに直接、架橋することを目指している。今のような時代だからこそ、あらためて紹介させてもらうことの意義はいっそう大きくはないだろうか。まずはしかるべき準備を整え、折衝に向けての一歩を踏み出してみることがたいせつである。この橋作りの作業にひとりでも多くの方に取り組んでもらいたい。そこに、私たちひとりひとりと世界のための、小さいけれどもけっして消えない希望の灯がともることになるからである。



あとがき

 アクティヴ・イマジネーションくらい、有名なわりに内実が知られていなかった分析技法、治療技法も珍しい。その大きな理由の一つに、紹介の努力が充分でなかったということがある。ユング自身、まとまった論文をほとんど書いていないし、彼以降のユンギアンたちにも見るべきものは多くない。

 そもそも、アクティヴ・イマジネーションの紹介には、かなりの困難がつきまとう。なにしろ、ひとりのイマジナーの一カ月分のマテリアルでさえ量が膨大すぎて、通常の論文の枠内にはおさまらない。途中を省略できればよいのだが、何でもなさそうなセンテンスがその後の展開に意外な影響を与えていたりするため、梗概ですませられる部分はかぎられている。しかも内容が元型的なものになりやすいだけに、いわゆる拡充なしでは意味を明らかにしにくい。となると、どうしても神話やおとぎ話まで引用せざるを得ないため、絶望的に長いディスカッションになってしまう。

 しかし、これほどの有効性を備えた技法を埋もれさせておくわけにはいかない。となると、量にまつわる難題は本というかたちを選んでクリアせざるを得ないのだが、このシリーズの場合は、結果的に三巻構成という途方もない計画に行き着いてしまった。自分でもそこまでしなければ伝わらないものかと困惑したが、どうしても記しておかなければと思う内容だけでも、やはりそれくらいは必要になるのである。

 このような問題は、アクティヴ・イマジネーションの特質からすれば、生じるべくして生じてきたものである。ユングは、自身が蓄積してきた分析心理学の知識や経験のすべてを注ぎ込んでアクティヴ・イマジネーションを産み出したのだから。いや、よく考えてみると、話はまるっきり反対かもしれない。分析心理学のほうこそが、古来さまざまに展開してきたアクティヴ・イマジネーションのヴァリエーションの一つとも考えられる。これは「あとがき」にしか書けないような極論ではある。しかし、私は、この技法の紹介にそれくらいの意義があると信じている。

 とはいえ、この種の学術書の出版は、意義があるからというだけでは可能にならない。多方面にわたるたくさんの方々からのご協力とお力添えの賜物である。

 まずは、このような書籍がぜひとも必要だとたびたび声をあげて下さった、アクティヴ・イマジネーションのセミナー、研修会、勉強会の熱心な参加者のみなさんにお礼を申し上げなければならない。また、本文中ではいちいちお断りできなかったが、そのような場で聞かせていただいたご質問や体験談の数々も、本書をまとめていくにあたってかけがえのない導きの糸となった。

 次に、ご自身のマテリアルの提供をご快諾下さった何人かのイマジナーのみなさんには、いくら感謝してもしきれない。かなり厳しい内容のコメントを付したところもあったが、イマジナーの方が秘めておられる可能性を信じていればこそなので、どうかご容赦いただきたい。おかげで、読者のみなさんにとって格段に理解しやすい本になったと思う。重ねてお礼を申し上げたい。

 また、トランスビューのみなさんにも一方ならぬお世話になった。本シリーズの出版の意義をご理解いただき、この出版不況と言われる情勢のなかで少なからぬリスクを負って下さったことに対して、深く感謝したい。編集の林美江さんの言葉には、いつも励まされた。林さんのはるか彼方を見据えた仕事ぶりを拝見していると、編集という作業こそ真のアートなのだと痛感させられる。

 願わくは、本書が、ご協力、ご尽力いただいたみなさんの厚意に応えられるものであらんことを。そして、続編ともども、個性化のプロセスを歩もうとする孤独な人たちのためのささやかな道しるべとならんことを。

平成一六年二月
春を待つ草庵にて   
著者識