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更新:2008/3/8

囚われのチベットの少女

フィリップ・ブルサール/ダニエル・ラン [著]
今枝由郎 [訳]
46判上製・226頁(写真図版14点)・本体2000円(税別)/2002年5月刊行 ISBN:4-901510-06-1


一人の少女がリーダーとなり、尼僧たちが歌ったカセットは、
官憲の手をのがれ、監獄から出てヒマラヤを越え、世界に広まった。
11歳で捕らえられ23歳の今も獄中で、(⇒2002/10/18、釈放されました。)
悲惨な拷問や虐待を受け続けている尼僧ガワン・サンドル(=ンガワン・サンドル)。
チベット抵抗運動の象徴となった「不屈の女」の半生。

[著者]フィリップ・ブルサール
   「ル・モンド」紙の特派員記者
[著者]ダニエル・ラン
   フランス・チベット人支援委員会のインド在住代表
[訳者]今枝由郎(いまえだ よしろう)
1947年生まれ。1974年よりフランス国立科学研究所の研究者として敦煌出土チベット文献の研究に従事、現在は同研究所主任研究員。またブータンの国立図書館の建設に尽力し、1981年より1990年までブータン国立図書館顧問。1995年にはカリフォルニア州立大学バークレー校の客員教授を務める。>>>訳者からのメッセージ

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目次 (下線のあるタイトルをクリックすると本文の一部をご覧になれます。)

はじめに
1・ 一枚の写真(2001年)
2・ 歴史の中の一家族(1950年〜1979年)
3・ 人生の二つの軸(1983年〜1987年)
4・ ガリの女たち(1987年)
5・ 舞台への登場(1990年)
6・ 拷問と尋問(1990年)
7・ グツァの孤独(1990年)
8・ チョチョの涙(1990年)
9・ 崩壊した家族(1991年)
10・ 最後の選択(1991年)
11・ ふたたびグツァへ(1992年)
12・ ダプチの監獄(1992年)
13・ 歌う尼僧たち(1993年)
14・ 厳しい弾圧(1994年)
15・ 父との再会(1994年)
16・ 小さな幸せ(1995年)
17・ 延ばされた刑期(1996年)
18・ 「少女」から「チベットの女」へ(1997年)
19・ チョチョへの手紙(1997年)
20・ 夜のトイレ(1997年)
21・ 広場の反乱(1998年)
22・ 私は出獄できない(1999年)
23・ ダライラマが語る(2001年)
24・ 不屈の女(2001年)

解説 今枝由郎

略年表

訳者あとがき

訳者(今枝由郎氏)からのメッセージ
私は大学に入って間もなくチベット研究を志した。三十五年程も前のことである。学生時代は、日本育英会と大学からの二つの奨学金で生活でき、アルバイトをする必要もなかった。恵まれた学生生活であったと言える。大学四年生の時に、今度はフランス政府の奨学金で一学年の予定でパリに留学した。奨学金は一学年で切れたが、幸いにすぐに大学の助手職に就くことができ、滞在を二年延長した。助手職とはいっても、先生の合意もあって、その実はほとんど学生生活の延長であり、奨学金が給料という形で支払われたようなものである。

その後一時日本に帰ったものの、またすぐにフランスに戻った。今度は国立科学研究センター(CNRS)の研究員としてである。そして現在に至っている。このCNRSというのは、まず世界でも類を見ない恵まれた研究機関で、私は何の拘束もなく全く自由に研究に没頭できた。建前上は研究職という仕事に従事しているのだが、一度として”仕事”と思ったことはなく、奨学金をもらっていた学生時代と同じ気持ちで二十五年あまり研究に従事して来た。

振り返ってみると、これほど恵まれた境遇で研究生活を送れた研究者は数少ないのではないかと思う。ありがたいことである。ところが、というか、だから、不況とか、戦争といった悲惨なことが起こっている世の中で、そうしたこととは全く関係なく、世の中の動きとはかけ離れた感があるチベット−しかも古代−を対象に研究をしていることにたいして、どこか“パラサイト(寄生)”的な後ろめたさが拭いきれなかった。あらゆる研究は、それなりにそれ自体で価値があるであろうが、やはりその時々の社会的な存在意義が問われることも事実である。

 昨年九月にパリの大型書店FNACで La prisonnie de Lhassa (ラサの女囚)という本を見つけた。手にとってパラパラと頁をめくって、何か感じるところがあって買い求めた。家に帰って一気に読み終えた。今までにもこうして一気に読んだ本は幾つかある。しかし今回はただ内容に魅せられたというだけではなく、自分がチベットに長年かかわりながら、この中国に抵抗して監獄に入れられているチベット人尼僧のことを全く知らなかった青天の霹靂のような強烈な驚きがあった。本書は彼女の最初にして、現時点では唯一の伝記である。それを偶然にも手にした私は、長年パリにいて、チベット関係の仕事をしている唯一の日本人である。そう思うと、この本を、中国に占領されたチベットの現状を、この尼僧を、彼女の闘争を日本に紹介する使命のようなものを感じた。そして、とりつかれたように翻訳にとりかかった。下訳は三週間足らずの超スピードで終えることが出来た。

 そしてこの訳が出版の日を見ることになったことは、訳者として感慨無量である。ただ単なる研究のための研究ではなく、現時点での社会的な意味のある仕事に従事することができたという、ほっとした充足感である。チベットは決して我々から遠く離れた秘境ではない。現時点でアジアに現存する一つの国家であり、国民である。そしてチベットは過去半世紀にわたり中国の許しがたい占領下にある。この悲劇的現実を日本は知らなさ過ぎる。この現状の是正にこの訳書が少しでも貢献するところがあれば、訳者としてこの上ない幸せである。
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本文より
はじめに

 この本はフィクションではない。ここに語られている闘争はすべて現実であり、フィクションと呼ばれる屈辱には耐えられない。

「囚われのチベットの少女」は実在する。それはガワン・サンドルという名の二十三歳の尼僧で、中国による祖国チベットの占拠に対する反対運動に携わっている。彼女は一九九二年に投獄され、二〇一四年まで釈放されることはない。

 一九五九年に中国に併合された恊「界の屋根掾iチベット)では、尼僧であれ一般人であれ、他にも独立を要求する女性たちがいる。にもかかわらず、なぜガワン・サンドル一人を取りあげたのか。なぜ彼女をチベット女性の代表にしたのか。それは監獄記録を調べた結果でもなく、彼女が現在チベットの政治犯としてもっとも長い懲役刑に服しているからでもない。他の誰でもなく彼女を取りあげたのは、なによりも彼女に典型としての価値を見出すからである。

 尼僧が進んで非武装抵抗のおもてに立つチベットで、滅亡の危機に瀕している民族の、英雄的かつ悲壮な闘争を、ガワン・サンドルは象徴しているのだ。

 彼女はすでによく知られた存在だ。ドイツ、カナダ、アメリカで人権擁護団体が彼女のために活動しているし、フランスではチベット人支援委員会の要請で数百人の芸術家、政治家、スポーツ選手、知識人が、彼女の釈放を要求している。しかし彼女のこれまでの軌跡はヴェールに包まれている。西側諸国では、これまでに何度も延長された服役、中国の命令に対するたえまない抵抗といった、おおよそのことしか知られていない。残りの肝要なことは何も知られていないのだ。つまり、家族、少女時代、抵抗、服役中の生活、そして何よりも西洋人には複雑で理解しにくい非暴力、放棄、連帯といった仏教の信仰。

 私たちは共産主義に対する自殺的とまでいえる執拗な抵抗の意味を、もっと知り理解しようとし、まず一九九九年に『ル・モンド』紙上に長文の記事を載せた。そして本書はガワン・サンドルの最初の伝記である。

 目の前にいない人の肖像を描くとは! 一度も会ったことがない女性のことを話すとは……。それは野心的であると同時に、デリケートな仕事であった。どうしたら真実を語れるか? ガワン・サンドルは謎である以上に、挑戦であった。私たちには事実を超える、つまりフィクション化する気も権利もなかった。横道にそれることは、彼女に対する、彼女の闘争に対する裏切りであっただろう。また彼女の人格に入り込んで、あえて一人称の「私」を使い、私たちの考えで彼女の選択、疑い、さらには信仰といったことを語るわけにはいかなかった。そこで一歩下がって、かつてない軌跡の恵まれた語り手となることにした。・・・



1 一枚の写真(二〇〇一年)

 まず、一枚の写真。これからの物語に欠かせない顔を提供してくれる写真(カバー写真)。
 娘はとても若く、まだ大人になっておらず、といってもう子供でもない。目は黒く、ほほえむこともなく立っている。少し大きすぎるこの制服を着た娘には、頑固さと抵抗心、強情、そして同時にどこかか弱さが見てとれる。上着もズボンも青である。ほとんど見えないが、肩から踝まで黄色い縦縞が縫い付けてあり、制服のような感じがする。ここが監獄の中であることは明らかだ。右手には小さな灌木があり、陽のあたった壁は、家屋か、農家か、学校のものだろうか。しかし若い娘の取っているポーズ、カメラのレンズを見つめる眼差しで、彼女が囚人であることが分かる。彼女の目は哀れみも慈悲も何も求めてはいないが、一瞬一瞬の闘いが表われている。

 ガワン・サンドルのこの写真の出所は不明である。同じ監獄にいた囚人が撮ったものだろうか、親切な看守だろうか。しかしもっとも可能性が高いのは、監獄当局が、そのもっとも有名となった「下宿人」をよく世話していることを見せるために撮ったものであろう。

 でも、それはどうでもいいことだ。この写真は一九五一年来、中国に占領されているチベットの悲しみを表わしている。その意味でこの写真は、一九八九年の天安門広場で戦車に向かう北京のデモ行進者の世界的に有名な写真に通じている。幼い尼僧の抵抗は、同じ抗議精神、同じ孤独な闘いである。違うのは、ここでは抑圧を想像させるのに戦車などいらないということだ。見ればすぐ分かる。この一枚の写真がすべてを物語っており、決して屈することのない女の過去から現在までの足跡に、私たちを導いてゆく。



2 歴史の中の一家族(一九五〇―一九七八年)

 西洋人なら運命と言うだろう。ガワン・サンドルはじめ仏教徒なら、過去の善悪すべての行ないの総和である、不可解な業と言うだろう。しかし、どう呼ぼうと、どう象徴しようとかまわない。ラサの若い女囚の一生は、家族の歴史の結果なのである。その全容を知るには、彼女の出生(一九七八年末)以前にさかのぼって、自分の運命を国の運命と共にしてきた彼女の父親を見てみる必要がある。

 父ナムゲル・タシは、中国が隣国チベットを占拠するために軍隊を派遣する一九五〇年十月、十五歳くらいだった。彼も六百万チベット人同様、戦後まもなく「有雪国」(チベット)に押し寄せてきた世界状勢など、おぼろげにしか分かっていなかった。チベットは、仏教で最高位にあるダライラマの精神的・政治的指導下にあり、外交的駆け引きや時の流れの外に生きていた。ダライラマ十四世はまだ青年で、摂政、閣僚、そして不易の砦ヒマラヤに守られ、世界の現実から隔離されていた。

 しばしば高みの至聖所と称される「世界の屋根」は、決して完璧なところではなく、首都ラサには富と貧困が猥雑に同居しており、地方では多くの農民が地主の農奴と化していた。貴族と僧侶階級の一部は、チベットは永遠に神に祝福された国であると信じきっており、それ故にチベットは孤立し、攻撃されても助勢してくれる国はなかった。

 共産主義者にとっては、いい助言者もなく、世界の動きにまったく無知なダライラマは、危険でも何でもなかった。彼らは、数世紀にわたって封建体制の下で生きてきた民衆を「平和解放」
すると主張したが、「解放」とは、インド、ネパールの北に位置し、自然資源の豊かなこの国を併合することに他ならなかった。北京政府は正当化のために、チベットはかつて中国の一部であったと主張するが、これは偽りで、強力な隣国中国とは深い関係はあったものの、チベットは常に独立していた。
 しかし毛沢東は、世界の誰も、この歴史の一点に関して抗議などしないことを心得ていた。フランスで、アメリカで、誰がこの遠い「有雪国」のことを心配するだろうか。事実、侵略者に手向かうのは東チベットの騎馬民族カンパだけであった。首都ラサの高みのポタラ宮殿に引きこもったダライラマとその側近は、調停の道を模索した。すべての仏教徒がそうであるように、非暴力主義者であるダライラマとその側近は、文化的・政治的な自治を保ちながら国を救えればと願っていた。彼らの判断はあやまりであった。

 この顕著な階級社会で、ナムゲル・タシは、国じゅうでもっとも権力がある寺院の一つであるナムゲル寺院の領地の一部を管理する有力者であった。他のガンデン寺、デプン寺、セラ寺といった著名な寺院と同じく、この寺も一種の王国で領地と建物を所有していた。その精神的かじ取りは、創建者の化身―チベット語ではリンポチェと呼ばれる―が行なっていた。このリンポチェは、国務を預かるダライラマその人であり、それゆえナムゲル・タシは重要であった。彼は教養があり、その公正さ、学識、文法の知識で尊敬され、シガ(領地)の農民や作業人にいろいろな指示を与えていた。一九三九年生まれの妻ジャンパ・チョンゾムとの間には一男一女があり、ずっと妻の両親の家に住んでいた。
 ナムゲル・タシは他の有力者とも親しかったので、一九五一年以来少なくとも首都ラサで行なわれている平和共存が、長続きしないことを感じ取っていた。首都の民衆は東チベットでのカンパ騎兵の殺戮に憤っており、激怒は高まり反逆が迫っていた。それは一九五九年三月に爆発し、数日の間にチベットの歴史は動転した。

 三月十六日から十七日の真夜中、ダライラマは兵士に変装し、頭に毛皮の帽子をかぶってラサ脱出に成功した。一九四〇年にドゴール将軍がフランスを後にしてイギリスに向かったように、彼は国外に逃れて亡命政府を打ち立て、外国からの援助を求めたほうが得策であると判断した。四百人の兵士が、二週間にわたって馬に乗り、ヤクにまたがってヒマラヤを越え、ネパールにそしてインドに着いた。彼の後を追って八万人の難民がガンジーの国に辿り着き、北西のダラムサラに落ち着いた。四十年以上経った二〇〇一年でも、彼らはまだ故郷に帰ることを待ち望んでいる。
 若いナムゲル・タシにとっても、一九五九年の春は一つの時代の終わりであった。ダライラマは亡命し、中国人の支配が始まり、彼が寺の財産を管理していたときとはすべてが変わった。・・・



3 人生の二つの軸(一九八三―一九八七年)

 この少女は他の子供とどこか違っていた。両親は、彼女が不平を言ったり、泣いたり、わがままを言うのを見たことがなかった。ニンマ派の老師の「知恵」なのだろうか。しかし家の他の男の子も全員「リクジン」なのに、この界隈の裏通りであの子たちの喧嘩といったらどうだろう。それとは違い少女は温順で、静かで、甘ったれで、親切そのものだった。彼女は子供特有のいらだたしさといったものを超越していた。

 五歳年上の兄リクジン・ルンドプが彼女に付き添う庇護者となり、彼女はたんにお兄さん―チベット語ではチョチョ―と呼んだ。二人はいつも一緒だった。昼間は近所の子供たちとかくれんぼやお手玉をして遊んだ。他の子供と同じように、鬼やライオン、虎、雪豹のまねをして威しあうのが好きだった。遊びが喧嘩になると、彼女はいつも兄の後ろに隠れ、彼は彼なりに必要なら一発くらわしてでも喧嘩を調停した。少女は喧嘩から遠ざかっていた。彼女は暴力とは無縁だった。

 夜は家の四つのベッドの一つで一緒に寝た。妹の辛抱強さはチョチョには不可解で、どこまで辛抱できるか試してみるためによくからかった。冬寒くてふとんの中でも震え上がるようなとき、彼女に文句を言わせようと、彼は凍った足で彼女に触れた。しかし少女は彼を撥ねつけはしなかった。それどころかその足を手に取り、マッサージし、さらには温めるために胸にあてた!

 信心深い両親は、子供たちを仏教の教えに従って育て、一人ひとりがりっぱに成人し、その素質を発揮することを願っていた。体罰によらず、諭すことによって、他人の幸福のための犠牲や、自己放棄といった仏教の根本を教えた。事実仏教徒は、自分の存在を隣人の、人類の幸福のために捧げることを特権だと思っている。過去世において、十分な善業を積んでいないと、こうした自己放棄はできない。自分の運命はどうでもいいことで、苦しみも死も二次的なことなのだ。少女はまだ幼くて、善悪のこの精神的な次元を意識していないが、家族のものには彼女は善意と知恵と慈悲の宝庫である。

 父ナムゲル・タシは寛容ではあったが、男の子供たちが一線を越えると声を高めた。少なくとも二度、少女は父親が怒っていたずらっ子に制裁を加えようとしたのを目にした。彼らは仏の教えと同様に、このことを忘れないであろう。

 最初の件は、喧嘩早いチョチョだった。ある日チョチョは喧嘩相手をほったらかして帰ってきてしまった。相手は痛くて我慢できないほど惨めな状態だった。怒った牡牛が手の早い息子を殴ろうとしたとき、近所の子供が勇気を出してチョチョの弁護にやって来た。話を聞くと両方ともに悪く、チョチョが父親にぶたれる理由はなかった。結局父親は納得したが、チョチョは暴力と尊敬について長々と説教された。

 もう一件は、少女と八歳年上のもう一人の兄リクジン・サムドプが関係する。チベットの正月のある夜、子供は全員通りに出て爆竹と花火に火をつけていた。少女は兄に近寄り頼んだ。
「ロケットを上げたいの。ねえ、一つ頂戴」
「いいよ。手をお出し」
 少女は右手を出した。リクジン・サムドプはロケットを置いた。
「人さし指で、ちゃんと持つんだよ」
 彼が火をつけロケットが発射するや、少女の人さし指の先端がもぎとられてしまった。傷口から血がほとばしり出て、少女は痛くて泣き叫んだ。家族全員が彼女の周りに駆け寄り、指に包帯をして病院に連れていった。医者は傷口を消毒し、きれぎれになった皮膚を切りながら、もぎとられた指先を見つけたかどうかと尋ねた。兄姉が事故の起こったところに戻り、数分間探した結果、指の一部を見つけた。大喜びで医者のところに持ってきたが、指先はあまりにもひどい状態で、接合することができず、病院のゴミ箱に捨てられた。

 家に戻ると、少女はいつものように大好きなチョチョに寄り添って寝た。もう一人の兄は姿を消してしまった。父親に叱られるのを恐れて、あの出来事以来いなくなってしまった。少女は泣き、唸り、身体中震えていたが、兄を恨んではいなかった。一晩中、事故の張本人の帰りを窺う両親に、彼女は許してくれるよう乞い続けた。
「お兄さんを罰しないで、お願い、ぶたないで!」・・・

 

4 ガリの女たち(一九八七年)

両親は承諾した。少女が尼僧になりたいと言うのだから、そうすることにした。八歳で! 彼女がなりたいと言うのだし、おそらくそれが彼女の業なのだから、ナムゲル・タシも妻ジャンパ・チョンゾムも、反対する理由はどこにもなかった。この年でというのは、他の大宗教ではちょっと考えられないが、仏門に入るというのは、家族を離れて自立し、寄宿舎に入るようなものであった。少女は成熟しており、もう準備ができていると思っていた。あとは教育面でも宗教面でも一番いい僧院を見つければよかった。両親は数年前に作業に加わったラサの北のガリ僧院を選んだ。

人気のないこの地方には公共の交通機関がなく、そこに行くには鋪装してない道を二時間ほど歩かねばならなかった。シュブサンとタシチョリン―姉の僧院―の近くを過ぎると、緑の谷に着いた。僧院は山の側面の岩と茂みの中にあった。壮大で威嚇的な立地条件だった。

遠くから見ると、ガリ僧院は窓が十ほどある四角い塊だった。この四角の各辺が中に開けた建物で、僧房になっていた。二階、三階建ての住居に守られているかのように、中央にお堂があった。階段を上り、靴を脱いでガラス戸を過ぎると、天井が八本の柱に支えられたお堂に入る。そこには中央の通路の左右にせいぜい一メートル幅の五列の座席が並んでいた。薄いマットレスを敷いた低いベッドのようで、尼僧は勤行のときあぐらをかいてこの上に坐った。座席向かいの奥にダライラマ用の象徴的な高座があった。この坐る人のいない高座の後ろに仏壇があり、慈悲の仏・千手千眼観音、チベット仏教の改革者ツォンカパ、知恵と悟りを授けるヴァジュラヨーギニー、人類の保護者二十一ターラーといった仏像が安置してあった。仏壇の左手には、寺の守護尊チョキ・ゲルツェンの小さな仏壇があった。ガリの尼たちによると、この守護尊は人が過ちを犯すと恐ろしく怒るが、善良な人々には慈悲の心に満ちているという。長短さまざまな法要が、いつもこの守護尊のために営まれていた。

今日、少女のほかには、彼女が僧院に入った日を覚えている人はいないが、一九八七年の初めであったことは間違いない。両親はこの日を偶然に選んだのではなかった。彼らのように信心深い人が、暦を無視するはずはなかった。チベットの陰暦では、特に宗教関係のことは何もしないほうがいい時期―二月がそうだ―がある。同じように、週の単位では火曜日と木曜日は凶である。占星術に凝り、習慣を重んじるナムゲル・タシと妻は、娘の将来がうまくいくように、僧院に入る日をいろいろ考えて選んだことだろう。

この日ただ一つ残念だったのは、チョチョが足の腫れもので家に残っており参列できなかったことだ。彼は百三十人の尼僧の前で行なわれた妹の入門式に立ち会えなかった。数年前、姉のときにしたように、家族はすべてを用意した。両親は入門式の費用を払い、他の尼僧にもお茶をふるまい、お寺にもお布施をし、十六巻の経典を贈呈するお金を貯えた。彼らは僧院の長に、希望と敬意の捧げものである白い絹の布カタを用意した。ノリ・ドンドプという六十歳くらいの尼僧が、少女を自分の弟子として受け入れ、新しい生活での彼女の手引き、保護者となった。

仏門に入るに際しては、沙弥尼としての三十六の誓いをしなければならない。これは仏の教えに従って、悟りへの道の手引きとなる約束事である。この中のいくつか、ことに禁欲戒は非常に重要であり、それを破ると僧院から追放される。さして重要ではない戒律は、破っても悔い改めれば赦される。入門に際してのこの儀式は、仏教では必須のことだ(少女は一九八七年の初めに沙弥尼戒を受けるときに、八歳をまわったところだった。この時代のチベットでは、この年で尼僧になるものが稀ではなかった。ダライラマは男も女も十五歳になってから入門するように勧めている)。

入門式の大詰めは、俗名に加えて仏名を拝受することである。これを決めるのは、原則として保護者となる師とか偉いラマである。しかし彼女の場合、誰がガワン・サンドルという名前を授けたのか、はっきりとは分からない。チベット人の名前は訳すのが難しい。各々がそれぞれ意味を持った音節からなっており、一つの名前でいくつも意味があるからだ。少女の場合、みんな仏教に関するものである。ガワンは、心の秘伝伝授、サンドルは純真、高潔、自由、通暁といった意味である。・・・



5 舞台への登場(一九九〇年)

八歳で尼僧、九歳で逮捕……。
投獄されたチベット人の伝記資料を収集している亡命チベット人組織は、このデータが正しいものであると見なしている。それによれば、ガワン・サンドルは一九八八年、おそらく三月に、ラサのデモに参加して、初めて逮捕された。そして二週間ほど拘置されたが、年齢を理由に釈放された。しかし私たちはこの情報を確かめることはできなかった。ダラムサラで会った証人たちは、このことをなにも記憶していない。少女の家族も、このことは知らないと言う。

九歳で逮捕されたという、すでに生まれつつあるこの伝説は、誤りと結論しなければいけないのだろうか。そこまでは言うことはできない。政治的に早熟だったガワン・サンドルが一九八八年のデモに参加した可能性はあるし、このときに逮捕された可能性も十分ある。家族は、彼女はラサの騒ぎから遠くにいて、僧院で修行していると思っていたし、ガリの用心深い「母親」、年上の尼僧たちは、彼女が首都の家族の許で安全だと思っていた。

真実はこの二つの確証の間にある。いずれにせよガワン・サンドルは、遅かれ早かれいつか抵抗の第一歩を踏み出す運命にあった。
最初の独立運動騒ぎの年、一九八七年から、ガリの尼僧は運動に参加した。三人が逮捕され、グツァの拘置所に拘置された。反対運動の先鋒である僧侶、尼僧だけではなく、男も女も子供までが、ますますデモに参加するようになった。一九八七年十月一日にラサの町なかでアメリカの写真家スティーヴ・レーマンが撮った写真には、石を手にして大人と並んで歩く子供の姿が見える。一枚の写真には、背中に銃砲を受けて苦痛に顔をゆがめた子供を抱きかかえている男が写っている。この子は数分後、八歳で死んだ(この写真は、他の写真と一緒に、スティーヴ・レーマンの素晴らしい本『チベット人』〈オエブク社、一九九九年〉に載せられた。フランス人新聞記者ジャン・ポール・リブの前書きと、ロンドンの独立情報機関・チベット情報ネットワークの主任で、チベット問題の専門家ロビ・バーネットのエッセーを収める)。

最初の政治行動がいつだったかは正確には分からないが、ガワン・サンドルが一九八七から一九九〇年にかけての動乱に加わったことはまちがいない。彼女が、通り、ふりあげた拳、抗議の陶酔を発見するのはこの時期だ。大好きな兄チョチョは、彼女が衝突に参加して興奮しきって家に帰ってくるのを何度も目にしている。彼女は彼を相手に、見たことを語り意見を求めるのが好きだった。

ある夜、デモから帰った少女の子供っぽい目つきに、チョチョは誇らしさと同時に恐怖を見て取った。「とても緊迫したデモ隊のまん中にいたの。警官は、男女、子供、誰彼の差別なく殴ったわ。どうして逃げようかと思っていたら、ジョカン寺の近くに巡礼が見えたの。アムドの巡礼で、マニ車を手に遠くからバルコルの騒ぎを眺めていたわ。私は彼らのところに走って、女の人の後ろに隠れたの。警察は気がつかなかったわ!」。

チョチョは彼女を叱ろうかどうしようか迷っていた。彼もそんな年ではないのに(十五歳前後)、家族の大半と同じように自分なりに活動していた。だから心配だからといって、少女を責めるわけにはいかなかった。
どんなことがあっても動じない平静さで、少女は大人のような告白をした。今からすれば彼女の政治所信声明といえる。「どうしてデモに行かずにいられるの。周りはすべて、家でも、国の解放が問題じゃないの。見るもの、聞くもの、すべてが私を行動に駆り立てるわ。チョチョ、私はダライラマを見たことがない。あなたもそうでしょ。でも、もしチベットが自由だったら、彼は戻ってくるって言うわ。帰ってきて欲しいの。彼を見たいの。彼が戻ってくるのに貢献したいの。デモに行くとき、恐くてお腹がねじれるように痛むの。でもバルコルに着いて、自由チベット万歳! と叫び出すと、もう恐くなんかないわ。勇気百倍なの。自分が自分でないような、自分が存在しないような気持ちになるの。私がこのとき、どれほど強いと感じるか、分かる? そうよ、チベットとイシ・ノルプ(ダライラマ)を守るために」。

ガワン・サンドルはますます危険を冒すようになり、扇動者に接近していた。警官や暴力も、彼女を説得することはできなかった。何回目かのデモのとき、少女は警察に捕らえられ、打ちのめされた。手で頭を覆い、膝を腹につけて、できるだけ自分を守ろうとした。しかし強烈な脚蹴りをあびせられ、数メートル吹っ飛んだ。・・・



6 拷問と尋問(一九九〇年)

グツァの拘置所は、一九六〇年代の初めに強制労働所の跡に建てられ、街から離れて北東の山の近くに位置している。鉄の扉と、割れた瓶のかけらを突き刺した塀は砦のようだ。中央の並木道から大きな木の植えてある道が通じている。遠くの平屋の格子のはまった窓の後ろに、拘置者の部屋が見える。他の壁は拘置所をいくつもの区画に分けており、建物の周りには広い中庭がある。

ジープは一つの中庭の前に止まった。兵士が尼僧を下ろし、地面に押し倒し、脚で蹴り起こした。二列の男が彼女たちの前に立っていた。陰険なお出迎えだ。その中を一人ひとり前進しなければならなかった。右列のものが最初に殴り、それから左列のものだ。そしてまた右列のもの、という具合に、最後まで……。尼僧は倒れ、起き上がろうとし、また倒れた……。少女は十一歳で童顔にもかかわらず、右から左へとピンボールのように飛ばされ、他の者と同様、中庭に行き着いた。

こうして集められた誇り高きノルプリンカのd徒たちは、見るもみじめであった。眼は赤く、頬は腫れ、唇は切れ、服は血まみれで、彼女たちは傷とこぶ、涙と苦痛だらけだった。そして快適な僧院で考えていたのとは想像を絶する暴力に、信じられないといった表情でお互いに眺めあっていた。

一人の男が彼女たちを観察していた。残忍なことで知られたチベット人ショ・ケルサンだ。中国人の女看守が彼女たちの身体検査をした。ベルトをとり、靴ひもも、下着のゴムひもまでもほどいた。そしてポケットに入っているお金とかいろいろな物を取り上げた。拘置者は壁の前に一メートル間隔に並び、手を上に挙げた。そして動かず、不平を言わず、ロウ人形のように八月の太陽の下でじっと立たされた。

このショトン(ヨーグルト祭り)の午後、グツァにはほとんど誰もいなかった。看守の大半はピクニックをかねて、お祭りに出かけていた。だから尼僧たちは、ショ・ケルサンと中国人の監視の下で、彼らの帰りを待たされた。
彼女たちは何が起こるのか分からないまま、こうして何時間も手を上に挙げたままでいた。血がにじみ出る傷口は太陽に焼け、身体中から汗が吹き出た。夕方になってやっと職員が戻り、一人の男がペンと紙をもってやってきた。
「名前は」と少女に聞いた。
「ガワン・サンドル」。
「どこの僧院だ」。
「ガリ」。
全員この質問を受け、それから三、四人のグループに分けられた。二人の看守につき添われ、最初のグループは隣接した中庭の入り口に連れていかれた。
奥に木が何本かあり、入り口の左すぐ近くに質素な家具が置いてある部屋があった。机が一つに椅子が数脚、ただそれだけだ。
尼僧は一人ひとり尋問された。チベット人のショ・ケルサンが質問し、もう一人がノートをとった。「どうしてこのスローガンを叫んだのだ」、「だれがリーダーだ」。看守は「リーダー」とか「組織」に対して、きわめて中国的に取り憑かれていた。彼らは「頭」、「組織網の長」といったデモの最高責任者を突きとめようとした。ところが組織はまったく存在しなかったし、リーダーもいなかった。ただ勇気に押し流された、無自覚な子供たちがいただけだった。・・・



7 グツァの孤独(一九九〇年)

グツァの最初の夜。不安の夜、孤独の夜。部屋は十二人くらいを収容するように作られているが、ガワン・サンドルは夕方の拷問の後、共犯者から離され一人にされた。ベッドは壁に備えつけてあるただのコンクリート板で十二あるが、マットレスも毛布もなかった。その一つに疲れと苦痛で押しつぶされ、体じゅう青痣だらけで、服を着たまま横たわった。部屋には家具はいっさいなく空だ。獄中生活に最低必要なもの以外、余計なものはまったくなかった。鉄、コンクリート、窓の格子、排泄用のたらい一つ。

翌朝夜明けに看守に起こされ、他の尼僧と一緒に尋問室に連れていかれた。「だれがこのデモを考えついたんだ。扇動者はだれなんだ。どうしてやったんだ」。彼女は何も言わず、どんな秘密も明かさなかった。しかし看守なのか、兵士なのか、警察なのかわからない三人の男は頑として納得しなかった。数人の従業員が見物に来ている前で、一人が尋問し、もう一人がノートを取り、もう一人が拷問した。尋問者が彼女の言うことに矛盾があると思うと、三人で協議し、また一層の暴力と悪意で拷問が再開された。

このグツァでの最初の日にガワン・サンドルがどんな仕打ちをされたのかは、誰も知らない。少女は誰にも話さなかった。チベットの女は嘆いたり、自分を不憫がったりはしないが、彼女はなおさらそうだった。しかしどんなひどいことにも怯まない彼女が、恐ろしい道具―クランクと先端に金属製のペンチがついた長い電線の入った十五センチメートル×二十センチメートルくらいの黒い箱―を使う三人組にどんな目にあわされたのかは容易に想像できる。

拷問を受けるものは床にうつぶせに横たわり手を背中に回す。一人の男が、動けないようにふくらはぎの上に立つ。もう一人がペンチを首でもどこでも取りつける。三人目がクランクを回して、耐えられない高圧電流を流す。次の日にこの拷問にあったガワン・サンドルの友だちは、この感覚を決して忘れないと言った。「腸が胸に遡ってきたみたいで、吐きそうになる。身体がひきつり、自分が震えているのか、それとも震えは抑えられない体内の振動にすぎないのか分からなくなる。いずれにせよ最後は気絶してしまう。靴で蹴られて気がつくと、どうしようもなく弱り切っている」。

最初の一週間は、少女は毎日三回、尋問を受けた。十一歳であろうと変わりはない。むしろ逆であった。看守は、彼女は若くて理論上はまだ「治る」可能性があるから、思い知らせてやろうとしていた。そうでなければ、こんなにやっきになるはずがない。缶詰の缶で殴ったり、クランクの箱と同じくらいに恐ろしい電気棍棒で殴ったりした。彼女は中国人が好むもう一つの拷問にもかけられた。飛行機だ。腕を背中で結び、腋の下にロープを通して、肉屋の冷蔵室のように天井に釣り下げられた。一人の男が細長い金属製の帯のついた鞭で彼女をたたき、縁日の見せ物人形のようにぐるぐる回した。・・・



8 チョチョの涙(一九九〇年)

彼との間には格子があった。正門の近くの普通の格子。許可をもらい、彼女は近づいて格子越しに手を握り、彼が持ってきた食料の包みを受け取った。監獄に入ってからもう三カ月以上も経っており、今チョチョが、このいまいましい格子の向こうにいた。青年は涙を流し、喉をつまらせ、かつて中国人の俳優の物まねをしてよく自分を笑わせてくれた、その同じ妹なのかと自問しながら、妹を見つめていた。髪は伸び、目つきは変わり、急に成熟し、大人の一徹さを身につけたように顔つきがきつくなっていた。

チョチョは次に訪れたとき、それを確信した。このときはもっと長い間、もっといい条件で会うことができた。チョチョは監獄の二つの門の間にある広場まで入ってくることができた。
麺と、豚肉と、魔法瓶にはいったお茶―ねっとりした本当のバター茶―を持ってきたので、二人は芝生の上に坐って、思いがけないピクニックをすることになった。祭日に街のまん中の公園にでもいるように、仲好しの兄と妹がグツァでピクニックをしているなんて、信じられない光景だった。周りはコンクリート、鉄、有刺鉄線、監視塔、巡回路ばかりだが、彼らは芝生の上で、世界には自分たち二人しかいないように感じていた。

目の前にしてみると、彼女は弱くもあり同時に強くもあり、完全に大人の世界の仲間入りをして、もう戻って来ることはないのが分かった。拘置された最初の数カ月の経験が、彼女に深いしるしを残した。男たちの残忍さが、彼女の子供の最後の幻想を奪いさった。

看守が彼らを監視し、その動向を窺っているが、それでもグツァに着いたときのことをこう語った。「チョチョ、告白しろと、ひどく殴られたけど、告白なんかしなかったわ。一週間飲み水がなくて喉が乾いたとき、窓の格子越しに雨水を集めようとしたの……」。
青年は驚いて、グツァの悲惨な話に耳を傾けた。・・・



9 崩壊した家族(一九九一年)

家族にとっても、少女の投獄は一つの時代の終わりだった。逮捕からしばらくして、まだ両親が彼女の居るところを知らないでいるとき、警察が来てアパートを調べた。彼女の交友関係、影響を受けそうなところ、抵抗運動グループとの関わりなど、ありとあらゆる質問をした。警官はどちらかといえば礼儀正しく、家の若い者が妹の活動は何も知らない―事実そうだが―と言っても、怒鳴ったりしなかった。僧院に入ってからの彼女はまったく一人立ちしていて、兄弟の誰もノルプリンカでデモをする計画など知らなかった。兄弟は彼女のガリ寺院での生活も、「反革命」の友情のことも、何も知らなかった。冬の夜を共に過ごしたチョチョにも、何も打ち明けていなかった。

父親のナムゲル・タシは、大きい子供も小さい子供も、子供の監督をはじめ家のことはすべて妻に任せていた。ガワン・サンドルのことを気にかけ自慢に思っていたが、心配はしていなかった。だから警官が家にやって来たとき、牡牛は動じる様子もなく、ちょっとばかり警官を軽蔑するかのように、家長として落ち着いて自信を持って彼らを迎えた。

驚くべき男で、根っからの抵抗運動家だった。闘争に熱中するあまり、ラサの南の生まれ故郷のロカに何カ月も引き籠ることがあった。表向きは仏教徒がときどきする瞑想のためのお籠り、心の休養であった(こうしたお籠りは、僧侶とガワン・サンドルの両親のような熱心な信者がする。導師の指導の下に数日から数カ月、ときには数年続く。導師が孤独や外部との接触の度合いを決め、いろいろな尊格の法要を指定する。日々は瞑想、経典の学習、文法、仏教関係の芸術品の制作にあてられる)。
実際にはダライラマの書いたものを勉強し、政治文書を配布することに費した。彼の隠れ家は独立運動家にとっての宝庫だった。チベットの国旗を印刷する黄色、赤色、青色の木綿の印刷軸といった貴重品まであった。

ふだん牡牛は、煽動家、親方の役割を務めていたが、ときとして自分から計画して抵抗運動を行うこともあった。ある晩、村のポールに貴重な旗を揚げた。そして告知版を釣り下げた。「旗を下ろそうとするものは、死の危険にさらされる!」六時間たって、ようやく警官がポールに登った。そののち、ナムゲル・タシが特に信頼できる仲間がいるサムエ寺をはじめあちこちに旗が出現した。・・・



10 最後の選択(一九九一年)

身体つきは変わっていなかった。髪だけが伸びていて、尼僧にしては長すぎた。このグツァで過ごした一年は、ガワン・サンドルを消耗させはしなかった。若い身体には、汚なさも、病気もこたえなかった。拷問にも、殴打にも、寒さにも、恐怖にも耐えた。好き嫌いなど言っておられず、まずいティンモと虫の入ったスープで満足せざるをえなかったが、チョチョが訪れたとき心配した、ぽってりした頬の見にくい腫れ物はなくなった。彼女の変化は内面にあった。親しい者だけが彼女のこの変化に気がついた。目つきは鋭くなり、感情を一層抑えるようになった。そして信念はますます強くなっていた。

監獄から出ると、なにより辛いことが待ち受けていた。母の死である。監禁の最後の数週間は、母を病院に見舞うことが許されたが、彼女の気持ちにもかかわらず、最期を見届けることはできなかった。あわれな母は、夫がどんな刑を受けているかも知らず、息子が無事にインドに着いたかどうかも知らずに亡くなった。息子からの最初の手紙がチベットに届いたのは、母が亡くなったあとだった。

ガワン・サンドルは釈放されるとすぐに、二人の姉と一緒に母の葬式にとりかかった。母の年代のチベットの女は信仰心があついため、しきたりに沿ったきっちりとした葬儀をしてやらなければならなかった。三人の僧侶が母の遺体を三日間見守った。しきたりどおり、僧侶は祈りと読経で身体から遊離した魂を導き、転生を助けた。友だち、隣人、親戚がやってきて、家族に挨拶をし、焼香し、遺体にカタ(白い絹のスカーフ)を捧げた。黒い布に包まれた遺体は、葬儀場に運ばれ、しきたりに従って切り裂かれ、禿鷹に食べさせた。身体を離れた魂は自由となり、死と再生の間のバルド(中有)をさまよう。七週間のあいだ僧侶は法要を続け、彼女が再び人間に生まれ変わり、知恵の道を継続できるように祈った。

この試練を独力でくぐりぬけた三姉妹は、二人の兄弟が無事インドに着いたことを知って安心した。兄弟に母の死を知らせるべきだろうか。年若いチョチョのことが心配だった。あまり丈夫でない彼にとって、亡命生活に慣れるのは辛いことだろう。よけいな哀しみは味わわせないほうがいい。それにいつか知る時が来るだろう。
チョチョはダラムサラのヤクというレストランで、偶然新聞記事を見て、母の死と父と兄の逮捕を知った。・・・



11 ふたたびグツァへ(一九九二年)

なぜ、この日に。なぜ、この場所に。彼女がなぜ反対運動の先頭に戻ったのか、答えられるのは彼女だけだ。母親と同じように、数カ月前、毎日駄菓子や古着を売っていた場所からすぐの中国警察署の前で、一九九二年六月十八日に何をしていたのか、そうなった詳しい状況はもっとも親しい友だちすら知らない。ただ一つはっきりしていることは、同じ僧院のもう一人の尼僧コンチョ・ツォモ―同い年、同じ身長、同じく頑固―が一緒だった。一緒に「中国人はチベットから出ていけ!」、「独立!」、「ダライラマ万歳!」と叫び、一緒に逮捕された。そして、以前と同じことの繰り返し。殴打、叫び、警察の装甲車。そしてグツァに帰還し、十一年の地獄。

この日拘置所に着いたガワン・サンドルは、もちろん入所手続きを覚えていた。最初の中庭、二番目の中庭、尋問室。部屋に入ってすぐに、彼女は二つの変化に気づいた。チベット人の拷問者ショ・ケルサンがいないことと、役人が比較的静かなことだ。部屋は変わらず、机が一つに、椅子がいくつか。ベッドが一つ加えられたのは、なぜだろうか。看守の休養用? ひょっとしたら……、
 
そう、看守の中には、女囚を犯すのを愉しみにする者もいる。人権擁護団体は、グツァだけでなく他の監獄でも、若い女囚が性的虐待を受けた例を毎年何十も告発する。処女の性器に電気棍棒をさしこむという無惨なことも行なわれる。尼僧にとって強姦は、禁欲戒を犯したことと同じで、もっとも不名誉な傷である。
少女とコンチョは、こうした残忍な目にあわされるのには幼すぎたけれど、・・・



12 ダプチの監獄(一九九二年)

街の北東に位置するこの巨大な施設の正門を入ると、ガワン・サンドルは一連の宿営からなる軍事基地を目にした。基地に隣接した監獄は、左手の二つ目の門、そしてもう少し先の三つ目の門を過ぎてからだ。七つの監視塔が建っており、有刺鉄線が張られた三重の壁は、もうそれだけで脱獄の望みを絶たせる。

中央の通りの左右に、建物がいくつか建っており、一連の倉庫がある。そしていちばん奥に父のナムゲル・タシが収容されている五区がある。入り口近くの右手に三区があり、数十人の政治犯を含む女囚用である。そこは監獄の中の監獄で、二重の厳重な門のある壁で囲まれている。牡牛の区画をはじめ、他の区画との接触は不可能だ。

ガワン・サンドルは、制服、毛布、規律書の入った包みを受け取ると、三区に連れて行かれた。ここには、一九九〇年八月にあの演劇の最中に舞台に登ったデモの仲間も収容されていた。ガワン・サンドルは、ミシュンリ寺院の尼僧を見つけた。グツァで逮捕された直後に、不幸にも拷問者の中に友だちの夫を見つけたのは彼女だった。少女が入って来るのを見て、彼女は自分の目が信じられなかった。

「どうしてここにいるの? 私は、あなたは自由の身だと思っていたのに、また私たちの仲間に加わるなんて」。

「あなたたちがいなくなって、寂しかったの。みんなに会いたかったから、来たのよ」とガワン・サンドルは冗談のように言った。

信じられない小娘だ。旅行から帰って来た家族の一員のように、伸び伸びしていて、元気で、心から嬉しそうだった。公称「チベット自治区第一の監獄」ダプチは、彼女の政治的舞台であり、彼女なりの闘争の継続の場である。ここにいることはすでに行動することであり、存在することなのだ。

この自己施与の精神を理解するのには、チベット人で、そして仏教徒でなくては難しいだろう。ダライラマによれば、一般的な意味においての宗教ではなく「心の科学」である仏教は、いつも西洋人をとまどわせる。これは私たちには理解できない知的迷路だ。苦しみという底知れぬテーマは、不可解極まりない。少女の勇気は疑うべくもないが、それ以上に、この最悪な事態を耐える能力には、運命の甘受という姿勢があるのではないだろうか。・・・




13 歌う尼僧たち(一九九三年)

ダプチには、政治犯と一般刑の囚人が同居していた。一般刑の囚人は中央の通りの左側に収容されていて、政治犯よりも寛大な扱いを受けていた(この時期、一、二、四、六区は男性の一般刑囚人用にあてられていた。三区は、女の政治犯とわずかの一般刑の女囚を収容していた。五区には、少女ガワン・サンドルの父親ナムゲル・タシをはじめとする男の政治犯が収容されていた。この区は後になって二つに分けられ、各々に一室十二人収容の部屋が十二あった)。

彼らは食事もよく、監視も緩やかで、この巨大な監獄のなかでは比較的自由であった。中には外出許可をもらって、日中を家で過ごす者もいた。監獄は巨大で、ラサから一歩のところにある街の中の街であり、逃げ出す者も多かった。外出許可をもらった者の中には、そのまま忘れ去られたり、インドに逃げたりした者もいた。少女と友だちはそれを面白がった。役人の愚かなところである。みんなグプカ(馬鹿)だ。

政治犯の女囚―当時は六十人ほど―にとっては、外出も減刑もありえなかった。いずれにせよ、彼女たちは脱獄しないことと減刑を申請しないことを誓っていた。このセメントと有刺鉄線の地獄にいることが、すでに彼女たちの活動であった。彼女たちを結びつける連帯と愛国心は何にもまして強かった。逆説的であるが、この不如意な生活は彼女たちに誇りを、さらには幸福感までもたらした。彼女たちはチベット問題で結ばれており、監獄の幾多の苦しみに培われ、不幸によって強化された真実の友情と共通の名誉とを奪うことは、看守はなおさらのこと、誰一人としてできなかった。・・・



14 厳しい弾圧(一九九四年)

判決の後、歌を歌った尼僧たちを悲しませたことが一つだけあった。彼女たちのひとりシュンシェプ寺院の尼僧は、ダプチにあと五年間残されることになった。当初の三年の刑期が終わって、あと少しで釈放というところだった。荷物も用意できていて、仲間は出獄者に贈る白いカタ(スカーフ)も用意していた。しかし裁判のおかげですべてが台なしになってしまった。他の十三人の尼僧は本当に気の毒に思い、逆に彼女が十三人を慰めねばならなかった。そして苦々しい思いは一切なく、これが自分の道なのだろうと言った(この尼僧は一九九八年に釈放された。彼女はインドへの脱出を試みたが、国境近くで中国人に逮捕された。三年の刑を宣告され、今彼女はラサのもう一つの監獄チサンにいる)。

新しい三区では、生活は元どおりになったが、ガワン・サンドルをはじめ歌を歌った他の者に対する、監獄当局による処罰は続いた。獄中生活は、親切だった看守長デチェンが中国に転勤になり、急速に悪化した。デチェンの転勤は、公には研修のためということだった。

彼女の後任もチベット人でペンパ・ブチといい、シガツェ出身で、三児の母、四十歳くらいだった。彼女は風刺マンガの督堂のようで、子供向けの本に出てくる「いじわる」役がぴったりだった。大柄で肉づきもよく、髪は黒く染め、いつもカーキ色の制服を着ていた。腰には太いバンドを絞め、上着には肩章をつけ、頭には帽子をかぶっていた。彼女の夫は、少女の父親がダプチに移される前に何カ月も拘留されたサンギプ監獄の長であり、彼女にとって秩序維持はお手のものであった。

ペンパ・ブチは約二千元(三万円)―その下で熱心に働くチャンやチュンカの倍以上―のいい給料をもらっていた。チャンやチュンカと同じように、政治犯を嫌っていて、「チベットは絶対に独立なんかしないわよ。あんたたちは白髪になってもここにいて、何もならないのに泣きわめいているのよ」と挑発した。
ペンパ・ブチには、どんな妥協もありえなかった。まもなく引き締めが始まった。・・・




15 父との再会(一九九四年)


三区と五区の間はほんの数百メートルだが、一九九二年にダプチに着いてから少女と父親は会ったことがなかった。監獄は非常に厳重に区画分けされていて、区が違う政治犯は決して交信することができず、同じ区の中でも「新米」は影響されやすいので、「古株」からできるだけ離されていた。牡牛は不屈の古株だった。

少なくとも表向きはリーダーなんかではなく、仲間の目には彼は控えめで、目立たない存在だった。短い髪、きりっとした顔だち、金属眼鏡は、彼に老境の賢者の風貌を与えていた。彼は経験もあり、信念もある男と見なされ、その活動歴は非常に尊敬された。血気にはやる若者は彼のことを知っていて、「彼がナムゲル・タシだ。彼の家族は全員チベットのために闘っている。彼はポスター、チベットの国旗などいい仕事をした。彼の娘は三区の尼僧だ。歌を歌った一人だ」と新しく入って来るものに教えていた。

牡牛は家族のことをほとんど話さず、話しても特別な感情を籠めはしなかった。ほんのわずかにせよ彼が話すのは、同じく一九九一年に逮捕された二人の兄弟以外には、同郷のラサの南のロカ出身の囚人にだけだった。同郷のよしみで信頼がおけたのであろう。新たに入って来たロカ出身の若い僧侶も同様で、彼は可愛がった。

監獄に入っても彼は変わらなかった。かつてアパートで子供たちにそうしたように、若い囚人に愛国、文化、伝統を伝えるのが好きだった。さらには、こっそりとチベット語の文法、文字を教えたりもした。「お前たちは過ちを犯して、ここに入っているのではない。お前たちには何の罪もない。お前たちの闘争は正しい。出獄しても忘れるな」と断言していた。・・・



16 小さな幸せ(一九九五年)

監獄の生活は辛いとはいっても、時には愉快なこともあった。友情、愛情、感動の時間。督堂から盗んだ時間。女囚たちには自分たちの暗号と秘密があり、それは現実からのこっそりした逃避であり、ペンパ・ブチとその看守たちに仕返しをすることを楽しんだ。もちろんこの小さな幸せは、ほほえみ、挑戦、まなざしといった大したことではなかった。それでも、勇気の源であり、正しい道を歩んでいるという確信を得ることができた。

週に二回、土曜日と日曜日、歌を歌った者の裁判が行なわれた部屋でテレビを見ることができた。番組は厳重に選りすぐられ、たいていは中国の偉大さを称揚するニュースか映画であった。督堂が席を外すと、いつも誰かがテレビに近づき、もっと大胆なチャンネルを探す。それが見つかると、たとえ三秒でも一分でも、それは彼女たちの勝利だった。

看守たちは少女が好んで物まねする標的だった。彼女は大柄なペンパ・ブチや残忍なチャンを完璧に真似た。彼女が部屋の中でこっそり物まねショーをすると、かつて彼女が香港の中国人のカメラの前での独特の歩き方を真似たときに姉や兄がそうだったように、他の者は大笑いした。この点からしても、少女は「有雪国」の娘だった。外見は小心なようで、大半のチベット人はユーモアのセンスがあって、侮辱するような渾名をつけたりして、さりげなく人のことをからかう能力を本能的に持っている。僧侶も、男性も女性も、全員こうしてふざけ、冗談を言う。・・・



17 延ばされた刑期(一九九六年)

部屋は完璧に清潔でなければならなかった。ペンパ・ブチと督堂は、このことに関して神経質だった。並びの最初にある少女の部屋の検査は、中国人の看守チャンの担当だった。毎朝検査に来た。そして毎朝、彼女たちを叱り、殴る口実を見つけた。チャンが部屋に入ると、囚人は帽子をとって、気をつけの姿勢をとらねばならなかった。入所した日に渡された小冊子にそう書いてある。督堂は右手の人さし指で、ゆっくりと窓の縁、ドアのへりなど、あちこちの隅を検査し、埃が少しでもあると激怒した。

一九九六年冬のおそらく三月のある朝、囚人が作業着で羊毛をきれいにし、梳き、紡いでいるところに、チャンが少女の部屋の検査にやって来た。ベッドの上に坐るのは禁止されていたので、床に坐り、膝の上にいろいろな道具を乗せて、一日の規定量に達するように仕事に励んでいた。入って来たチャンは、囚人のうちの一人が立たないのに気がついた。それはガワン・サンドルと同じく頑固なカンドで、歌の事件でペンパ・ブチに打ち勝った八人のうちの一人だ。

「立て! 立つんだ!」。督堂は足蹴りした。
カンドは動かなかった。
「立て!」とチャンが叫んだ。
他の囚人は彼女の味方をし、ことに少女は看守に食ってかかった。・・・



18 「少女」から「チベットの女」へ(一九九七年)

チョンツォ医師は優しい親切な女性である。三区の囚人を診察に来たとき、彼女はガワン・サンドルの健康状態が気にかかった。どうしたら、この十七歳で一メートル五〇センチ足らずの若い娘が、二〇〇九年まで生き延びることができるだろうか。以前にもまして脆弱になった彼女は、頭痛がし、腎臓が痛く、肝機能および胆嚢不全だった。さらに肺に膜がかかっており、肺炎が懸念された。暗く湿った独房での六カ月と、吐き気のする粗末な食事が、彼女の状態を悪化させた。証拠はないが、この隔離期間中に彼女が被ったであろう拷問も忘れてはならないだろう。

チョンツォ医師の早い診断がありながらも、何も変わらなかった。ガワン・サンドルはそれでも入院できず、レントゲンも血液検査もなかったようである。一度、一度だけ、激しい頭痛のために、監獄の病院に行く許可をもらった。しかし受付に着いたとき、一年以上も会っていない父親の牡牛がちょうど中にいた。それに気づいた看守は、安全上の理由で彼女を追い返し、彼女は治療を受けずに部屋に戻ることになった。

 一般に、督堂は彼女の健康を気にかけていなかった。彼女が治療を求めると、看護室に行くというだけでも、看守はすげなく拒否した。
「いつも私たちを挑発し、問題を起こすお前の面倒などどうして見る必要があるのさ」。・・・



19 チョチョへの手紙(一九九七年)

涅槃にいたる果てしない道で、仏教徒は苦しみの大海である輪廻を渡る。多少とも理論的に思考する無神論者には、この海はあまりにも広いので、どうして向こう岸に渡れるのか疑問に思える。三区の若い尼僧にとっては、ダプチの監獄がすでに途方もない人生の大海であった。もちろん彼女たちは、かつての鮮やかな僧衣がよく似合った尼僧ではなかった。男のズボンをはき、青の上着を着て、長い髪をしたガワン・サンドルは、離れ小島に忘れ置かれた徒刑囚のおももちだった。しかし、まずあり得ない釈放を待ちながら、人民の解放のために通過しなければならない過程としてこの苦痛を生きていた。脱獄の唯一の方法は祈りだった。

政治犯が祈りの世界に入ると、邪魔するものはもう何もなかった。目を半ば閉じて、慈悲の真言オームマニペメフーム「蓮華の中の宝珠に帰命したてまつる」(宝珠はもちろんダライラマ)を唱えた。また、チベット仏教の他の尊格、ことに「有雪国」の永遠の守り神、完璧な知恵であるターラー尊に祈った。

もちろん祈りは禁止されていた。中国人共産党員によれば「心の毒」である宗教は、ダプチでは存在の余地がなかった。看守の中には親切なものもいて、こっそりとなら祈りを許してくれた。少女と友だちは、プロパガンダの授業のときのものによく似たノートにたくさんの経文を書き写した。もし督堂が見つけても、開かなければ普通の授業のノートだと思うだろう。用心のために、囚人はそれを安全な場所に隠した。それはゴミ箱の中だった。内容からして仏具であるこのノートを、こんな不相応な場所に入れることは罪であったが、彼女たちは高尚な理由のためには仕方がないと思っていた。
この方法でうまく切り抜けていたが、ある日囚人が知らない間に、督堂が部屋を捜索にきてノートを見つけた。・・・



20 夜のトイレ(一九九七年)

ダプチでは、すべてが見せかけと偽りであった。当局は数年来の拡張工事と、囚人の何人かが働くセメント工場を誇りにしており、施設を模範監獄だと称していた。北京の命令で、地方紙は囚人の待遇はよいと保証していた。このプロパガンダは、インドに亡命したかつての囚人ののっぴきならない証言を償い、万が一来るかもしれない訪問者を安心させるためであった。事実外国人が囚人の拘置条件を実際に視察に来ることがあった(一九九七年末の時点で、チベットに拘置されている政治犯は一、二一六人、うち女性が二九五人、未成年が三九人と推定されている。Tibetan Center for Human Rights and Democracy による)。

もちろん彼らは施設の全部を見ることはできなかった。当局は、独房とか尋問室は彼らには見せなかった。こうした視察は非常に稀であったが、当局は政治犯がこの地獄を告発しようとしているので、細心の用心をもって準備した。

一九九二年、おそらく少女が監禁される以前に、政治犯は視察団に血で署名した嘆願書を渡そうとした。数カ月後、別な視察団が来たとき、当局は彼女たちに自分たちの区と監獄全体を掃除するように命じた。それから看守に、隊列を組んで温室に連れて行かれ、厳しい監視の下で数時間働かされた。もっと従順と見なされた一般刑囚人だけが部屋に残り、政治犯は、周到に「危険な」温室に隔離され、外国の視察団に会うことはできなかった。・・・



21 広場の反乱(一九九八年)

五月一日はダプチでも祝日である。囚人にとっては休養の一日であり、職員にはお祭りの日である。監獄の中央広場で式典が催され、赤い中国が褒めたたえられる機会である。その場所は、こうした集会によく適した広大な広場で、中央に中華人民共和国の国旗掲揚塔が建っている。
一九九八年のメーデーに、当局は盛大な準備をした。職員全員に加えて、一般刑囚人五百人も動員することを決めた。同じく新入の政治犯も動員された。これは入獄して間もないうちに国歌を歌わせて、命令に服従させようとする意図からであろう。

五十人ほどの若い囚人が、すでに広場に集まっていた。古株はおそらくその「反革命」精神のために、この式典には呼ばれていなかった。ガワン・サンドルと仲間は、群集が国旗掲揚塔の前で「社会主義賞賛」を歌い、中国共産主義を褒めたたえるのを窓から見ていた。一メートル二〇センチほどの塀が彼らの中庭を中央広場から隔てていた。囚人たちは部屋に閉じ込められてはいるものの、広場を見物できる格好な場所を占めていて、いわば特等席にいた。鉄格子につかまって少し上がれば、広場全体が見えた。
式典が始まった。
そして音楽。
赤旗がポールのてっぺん近くまで来たとき、一般刑囚人のカタルという若者が、一掴みの小さな紙片を投げ、それがカーニバルの紙ふぶきのように風に舞った。その紙には、「ポ・ランツェン(チベット独立)!」、「独立!」と書かれていた。そして別の二人の囚人が叫び始めた。
「チベットに中国の国旗を掲揚するのは許されない。
―ダライラマ猊下万歳!
―チベット独立!
―中国人はチベットから出て行け!」。
三人、十人……百人の囚人がこのスローガンを叫んだ。群衆の怒号は、一九八九年のラサの暴動のときのように響きわたった。その叫び声はダプチ中にこだまし、・・・



22 私は出獄できない(一九九九年)

少女は病んでいた。一九九八年春の暴行以来、健康は悪化する一方だった。肝臓は痛み、腎臓も悪く、特にひどい頭痛に気が狂わんばかりに苦しんだ。同室の仲間たちは、彼女を治療する薬もなく、なすすべもないまま、ますます頻繁に起こる発作を懸念していた。手で頭を抱え、彼女を打ちのめす悪を追い出すかのように、ベッドに身を投げ、壁にぶつかった。闘いに疲れ、次の頭痛まで、次の闘いまで、半ば意識を失って、正気でなくなる状態に陥っていた。

監獄の中庭で拷問されてから、それでも一年が経った。その間、牡牛の娘にふさわしく、判事に、看守に、法外な中国の抑圧に果敢に立ち向かっていた。しかし身体はついていかなかった。身体は注意をうながし、警報を繰り返した。二十歳のガワン・サンドルは、その人生の三分の一を鉄格子の後ろで過ごしており、それは子供の身体にはあきらかに無理であった。殴打も拷問も受け過ぎた。寒さも、飢えも、治療しないままの病いも限度を超えていた。

監獄で行なわれている毎日の心理的暴力も忘れてはならない。いたるところに看守と監視カメラ、グループが結成されるのを防ぐための頻繁な部屋替え、ベッドの中で隠れてしか絶対にできない祈り。グツァの拘置所(一九九〇年の最初の監獄)ほどひどくはないが、食事も同様に身体を消耗させ、衰弱させた。食事はビタミンと鉱分があまりにも少ないので、大半の囚人は少女のようにそれらの欠乏症で病気になった。・・・



23 ダライラマが語る(二〇〇一年)

ダライラマとの面謁は特権である。このチベット人の政治と宗教の指導者は、祖国の悲しい現実から切り離された近づきがたい高位の人ではなく、実際にはその反対といえる。ただ彼のスケジュールは国家元首並みで、自分の民族の問題を訴えたり、仏教の教えを授けたりするために旅行をし、そのほかはインドのダラムサラに亡命チベット人と共にいる。ヒマラヤ越えの信じられないような逃避行の末に運よくここに辿り着いたチベット人亡命者は、ダライラマを目のあたりにし、彼に近づくことを夢見ている。中には、それが一生の目的であり、希望の成就である場合もある。原則として、彼はグループで面謁し、グループの一人ひとりに言葉をかけ、ときには各人の今後の計画を尋ねたりもする。しかし個人的な面謁は稀である。ダライラマには、ことに世界のメディアから申し込みが多く、面謁の約束を得るには数カ月、ときとしては一年前から申し込まねばならない。面謁者の選択および面謁時間はテーマの重要性によって決まる。

ガワン・サンドルに関する本書の出版は、抵抗運動の第一線にいる若い女性の重要性を認識している彼のアドバイザーの目にすぐにとまった。チベット人が猊下と呼ぶダライラマ自身も、私たちの面謁をすぐに予定に組み入れてくれた。そして最長四十五分のインタビューができることになった。
彼の宮殿は、ダラムサラのはずれ、マクレオドガンジの高みの、きれいに木と花が植えられた庭の中にあった。正直なところ、「宮殿」は大袈裟で、建物は塀に囲まれているが、目を見張るような豪華さはどこにもなく、むしろ慎ましやかさと平静さが感じられた。ツクラカン(お堂)とナムゲル寺院の前を通り過ぎ、身許検査を受け、飛行場にあるような金属探知機をくぐり抜け、それから少し右手に数段上ると、ダライラマの応接室に着いた。

待ち合い室にはソファと低いテーブルがあり、チベット語の雑誌が置いてあった。壁にはガラスの入った戸棚があり、ダライラマが西洋で受けた勲章、公の手紙、お土産が飾ってあった。そこで二人が私たちに合流した。それは西洋人担当の秘書官テンジン・ゲシェンと、ダライラマの甥テンジン・タクラであった。テンジン・タクラは感じのいい青年で、私たちの録音機が大きいことをちょっとからかった。私たちは彼らをよく知っていたし、彼らは私たちが持っている、少女および政治犯全般についての興味を理解していた。この二人が私たちの面謁に同席することになった。

応接間に入る時間になった。西欧ふうの調度だが、チベットの本が飾ってあった。猊下は数分してから、いつもの僧衣で私たちの前に現われた。私たちが慣習に従って、カタ(敬意のスカーフ)を差し出すと、彼はほほえんだ。ダライラマは、生まれながらに魅力的な人物だ。未知の人でも長年の友だちでも、誰と会っても幸せそうに、いつもほほえむ。しかし彼はこのほほえみにもかかわらず、隔絶された祖国を見渡し、そこにいる政治犯のことを心配している。

ダライラマはまず牡牛ナムゲル・タシのことを尋ねた。彼はこの男が、かつて彼の寺院で重要な地位にあったことを知らなかった。一九五〇年代当時、未来のノーベル平和賞受賞者はまだ青年で、管理や監督などの心配事とは無縁であった。「彼はまだ生きていますか」と少女の父親のことを尋ねた。幸いに生きてはいるが、一九九九年の春に監獄を出て以来、彼の健康は悪化し、その一年半後、二〇〇一年一月九日、ラサの軍事病院に危篤状態で入院した。重い腎不全、水腫、高血圧であった。医者は悲観的であったが、それでも数週間の間に力を取り戻し、一月二十七日に退院して、瞑想生活に引きこもった。彼の政治闘争は終わり、子供に、ことに少女にバトンタッチされた(訳註:ナムゲル・タシは、二〇〇一年九月ラサで亡くなった)。

ダライラマは、この国を思う心の継承は愛国心の模範であると言った。「私たちが権利を回復するまで、両親がこの精神を子供に伝えるのは当然です。一九五一年およびその後の出来事を経験したチベット人、中国兵と闘ったチベット人はもうほとんど亡くなっています。一九六〇年代初めの次の世代は、別の問題を経験し、今、表舞台から退こうとしています。若者は強いチベット精神を持ち、その後を継いでいます。たぶん両親以上に強い精神で! チベットの老人たちは、中国人の手であまりにも苦しめられ、あまりに残忍なめに遭わされた結果、新たな活動をするのが恐ろしくて躊躇しています。若者のほうが、勇気がある場合があります。チベット語も話さず、中国人の生徒と中国で育った若者の中には、非常な愛国主義者がいます」。
ガワン・サンドルはラサで育った。ダライラマは彼女を間違いなく「チベット問題の象徴」、「格別なチベット人」だと思っている。すでに指摘したように、ダライラマが個人を例に取り上げるのは稀である。これは、チベット人は個人を前面に出すことをしないという道徳的制約から来ている。また猊下は、彼女のことを大きく取り上げると、彼女が報復に遭う可能性があり、それを心配しているのであろう。「この本のせいで、彼女が苦しむようなことがあってはならない」と言った。・・・



24 不屈の女(二〇〇一年)

九年。少女が監獄に入ってから九年になる。しかし一九九二年六月十八日、ラサの中央大広場で彼女があげた悲壮な叫び声を、誰が覚えているだろうか。今は成人した女性となった、この十三歳の子供を誰が分かるだろうか。チベットの首都は忘却を常とし、記憶を消滅させながら、最悪の事態である精神の植民地化により、年ごとに腐敗してゆく。逆説的だが、ガワン・サンドルの声が聞きとどけられたのはダプチにおいてであった。そう、ここの鉄格子、塀の壁、監視塔の世界で、彼女の声はようやく響いたのだ。歌を歌う尼僧の声、反乱者の声、外国にまで届いた声。

ときどきこの地獄から心配な報せがフランスまで届く。例えば二〇〇一年の春、少女は監獄で死に、「チベットのジャンヌ・ダルク」は不可能な抵抗の前線に倒れた、とのニュースが流れた。それはもちろんデマであったが、噂を止めねばならなかった。この本が出版される時点で、彼女はちゃんと生きており、間違いなく、その闘争を続けていく決心をますます強くしているだろう。

三区で年頭に死者が出たことは事実であり、あの一九九三年に「歌を歌った尼僧」の一人ガワン・ロチョが、ラサの軍事病院に二月に入院し、そこで亡くなった。一九九二年五月、少女よりも一カ月前に逮捕された彼女は、みんなの目には健康に見えた。歌の事件の後で、彼女の刑は五年延長された。少女と同じく、彼女は古株のグループで、すべてを共に経験してきた。屋外の体操、温室での、部屋での作業、ペンパ・ブチのいじめ、一九九八年の暴動……



解説 今枝由郎

 
・・・・・・チベットにおける中国の残忍さは、文化大革命(一九六六―一九七七)中にその極に達し、宗教は禁じられ、国内に数千あった寺院は、いくつかを除いてすべて破壊された。こうした弾圧はその後いくぶん緩和されたとはいうものの、中国による弾圧、抑圧は現在も変わることはない。チベットに残ったチベット人も、亡命チベット人も、世界各地で中国の不当な占拠を告発し、独立運動を継続している。この連綿と続く非暴力的独立運動の指導者として、ダライラマがノーベル平和賞を授与されたことは、よく知られている。

 今まで見てきた中国・チベット関係という歴史的観点からして、また第二次大戦後、多くの民族国家が独立したことに鑑みても、中国によるチベットの占拠は不当以外のなにものでもない。本書に登場する尼僧の一人は次のように語っている。「私たちは中国人に刃向かおうというのではありません、私たちは、ただ真実と正義が欲しいだけです。私たちは、本来私たちのものであるものを要求しているだけです」。チベットがチベット人のものであるというこの正当な主張が、独立運動として厳しく弾圧されているところに、チベットの悲劇がある。政治的、軍事的、経済的な面からして、格段に優位に立つ中国は、その力を盾にチベット人の人権を無視してこの占拠政策を継続している。チベット人は自らの国で囚人となっている。この絶望的な状況のなかで、チベット人は勇敢にも孤独で悲壮な闘争を続けている。その象徴がガワン・サンドルであり、彼女が「チベットのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるゆえんである。

 近年中国は、中国人を数多くチベットに移民させ、チベット人をチベットにおける「外国人少数民族」化し、チベットを人種的にも中国に併合しようとしている感がある。二〇〇八年には平和の祭典オリンピックを開催しようとしている中国によるチベットの不当占拠、人権蹂躙を、世界はただ手をこまねいて見ている以外に方法がないのだろうか。

 世界各国の政府は、チベット問題に関して中国に弱腰である。中国はこれから開かれようとする、十億余の人口を抱える世界最大の市場である。どの政府にとっても、その重要性はあらためて言うまでもない。中国政府の気持ちを害してまで、たかが数百万のチベット人の主張―それが如何に正当なものであろうとも―を支持することが得策ではないことは、火を見るより明らかである。

 チベットがおかれた状況は、あらゆる観点からして絶望的であると言えるであろう。チベットの独立は希望のない夢のように映る。しかし、チベット人はその闘いを諦めない。そして西側先進諸国ではいくつかの人権擁護団体が、チベット支持の活動を粘り強く続けている。こうした状況の中で、日本ではチベット問題がどのように扱われているのだろうか。千年余の歴史を通じて、日本とチベットの接触は皆無に等しかった。その当然の結果として、日本人はチベット問題について無知であり、無関心である。しかし、これは果たして無関心のまま許される問題なのだろうか。

 チベット民族は、チベット文明は、今まさに消滅の危機に瀕している。ガワン・サンドルはその短い半生の大半を、非暴力抵抗運動により囚われの身で過ごしている。二〇〇一年九月十一日のアメリカにおける同時多発テロは、いまだ我々の記憶に新しい。パレスチナでのテロは、まだ終結の見込みすら立っていない。こうしたテロという暴力行為そのものが横行する国際状勢のなかで、彼女の運動は新しい意味をもつであろう。超大国による専制と、それに対する「非暴力」による抵抗、これは、アジアの、そして世界の将来を考える上で非常に重要な問題である。アジアの一国である日本も、彼女に象徴されるチベット問題を、改めて真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。



訳者あとがき

 二〇〇一年九月末、パリの大型書店フナック(Fnac)でこの本を手にした。ざっと目を通して、何か感じるところがあった。買い求めて、一気に読了した。そしてこの本を、この尼僧を、彼女の闘争を日本に紹介する使命のようなものを感じた。本書は彼女の、最初にして、現時点では唯一の伝記である。それを偶然にも手にした私は、長年パリにいて、チベット関係の仕事をしている唯一ではないにしても、数少ない日本人である。そう思うと、どうしてもこの本を日本語に訳したくなった。幸いにして文体が馴染みやすかったので、下訳は三週間足らずの短期間で終えることができた。
 本訳書が出版されるまでには幾人もの方の力添えを得た。
フランス語の難解な点に関しては、旧友マリカ・ル・グランさんから教示を受けた。また中国のいくつかの事柄に関しては、関西大学非常勤講師・大原良通氏にご教示いただいた。記して謝意を表したい。
NHK出版の後藤多聞氏、岩波書店の加賀谷祥子さんには、下訳の段階から興味を示していただき、いろいろとご配慮いただいた。改めてお礼申します。
東寿賀子さんには、訳稿に何度も目を通していただき、文体、訳語に関して訳稿全頁が真っ赤になるくらい多くの訂正、提案、助言を受けた。本訳文が少しでも読みやすいものになっているとすれば、彼女の努力に負うところが大である。甚深の謝意を表したい。
トランスビューの中嶋廣氏は、この訳書の出版に非常な理解と熱意を示された。氏なくしては本書の出版は不可能であったであろう。
 本訳書が、チベット問題を日本に伝え、ガワン・サンドルの闘争に幾許かでも寄与するところがあれば、訳者としてこの上ない喜びである。
  二〇〇二年三月
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